トップページ > 学園ブログ・スタッフエッセイ > 終戦(敗戦)から72年。私の「あの8月」の思い出

終戦(敗戦)から72年。私の「あの8月」の思い出

三和高校長 亀貝一義

今年の「8月15日」が終わった。いうまでもなく、この日は「ポツダム宣言の無条件受諾」という終戦(敗戦)を確定した日である。

私は72年前のこの日は和寒村の三和国民小学校2年だった。ただ8月15日は夏休み中だったので学校でのことは何もなかったのではないか。

この時、年配の女の先生が担任だったが、その時、戦争について何を語ってくれたか、その記憶は全くない。「皇軍(日本の軍隊)は無敵」「百戦百勝」というような話を聞いていたのではないか、と想像するが。

かすかに記憶にあるのは、1945(昭和20)年の2月か3月ころ、「戦地に行っている兵隊さんは大層苦労しています。甘い物を口にすることもないと思います。皆さん、この命をかけて苦労している兵隊さんのために何かしてあげられることはないか、考えましょう」というようなことを言って、みんなで決めたことは、春の木は甘い汁(樹液・メープルシロップ)を出す。これをためて兵隊さんに送ることだった。
一升瓶をもって私たちは硬雪(かたゆき)を歩き、手頃な木(イタヤカエデ)を見つけ、これに小さい穴を開けて樹液を溜める努力をした。翌朝ほぼ一升瓶にいっぱいになって、この瓶を学校に持っていった。先生はこれを「戦地の兵隊さん」に送ってくれたはずだが...。

そんな昭和20年の春が過ぎて夏になり、そして8月15日。電気もなくもちろんラジオもない田舎だった。この日の午後、町の方面に行った叔父が帰ってきて「戦争は終わったらしい」というようなことを伝えたように記憶している。多くの人が天皇の「玉音放送」を聞いて知った終戦(敗戦)を私たち電気のない地域の人たちは他人からの伝言で知った。

いずれにしても2学期が始まるとともに、「占領軍」がやってくるゾ、という噂が流れ、こんないなかにも来るに違いない。占領軍が来たらオレたち子どもはどう対処するか、というようなことを議論したように思う。「アメリカ兵がやってきてみんなに何かをくれることがあるかも知れない。はじめは遠慮して『要らないヨ』と言っても、何度かすすめられたら『サンキュー』と言ってもらいなさい」などと先生は言っていた。しかしアメリカ兵は、和寒などに来ることはなかった。

また教科書にあった「兵隊」とか「日本軍」とか、あるいはこれに関連するすべての単語にスミを塗って「軍国主義」を隠した。昭和21年の書きぞめはどの子どもも「平和日本」「新生日本」と、スミ黒々と書いた。「戦争は終わった」「平和が一番」を実感した。

そして軍隊に行っていた多くの子どもの父や伯父・叔父たちが帰ってきた。大きなリックに軍隊を離れたことを示すオミヤゲをいっぱい入れていた。

私の父はもう何年も前に「戦死」していたが、(時どき「戦死していた者が実は生きていた」というニュースがあったので)もしかしたら帰ってくるかも、と淡い期待をしたがそういうことはなかった。

そういう、私の8月関係の思い出である。

月別アーカイブ