1945年8月13日

高村さとみ

 お盆前、函館の祖父母を訪ねました。これはその時に父方祖父が話してくれたことです。1945年8月13日頃の話と思います。祖父は函館生まれ、函館育ちで今年90歳になります。戦時中は海軍予科練習生(15期)として茨城の土浦にいたそうです。

 160名で千葉に演習に行き、土浦に戻ろうとした時のこと。駅の都合で次の日の朝まで列車は出ないことがわかった。上官の命令で明朝集合、それまで解散となったが駅は人でごった返していて待合室は使えない。まだ10時くらいのこと。その辺で待機するしかないと思ったが、上品な女性が「うちで休んでいってください」と声をかけてくれ、6人でついて行くことにした。女性はもっと大勢で来てもいいと言ってくれたが、もし食料を分けてくれるとなった時に一人当たり分が多い方がいいと思い、6人で女性の家に向かった。駅から歩いて4、5分。門から玄関まで30mほどもある、絵に描いたような豪邸だった。自分たちは上がらない方がいいのではとためらっていると、女性は母と姉を呼んできて勧められて家に入った。女性は母と姉のことをお母様、お姉様と呼んでいて、また何て上品なのだろうと思った。
 当時の食糧難の状況では考えられないことだが、自分たちのために白米を炊いて出してくれた。この時期に白米を、しかも初対面の自分たちのために出してくれるなど、よほど裕福な家だったのだろう。風呂にも入るように勧めてくれた。しかしここで東京出身の仲間が警戒しだした。警戒心の強さはさすが、東京の者らしい。裸になったところを襲われるかもしれない。そう考えて2人ずつ風呂に入った。
 結局その後も何もなく、朝の5時。豪邸でもてなしを受けたことをみんなに自慢できると考えながら駅に戻った。しかしここで仰天した。駅には人がおらず、一緒に演習に来ていた160名もその荷物もない。驚いていると、No.2の立場である佐藤少尉がやってきた。前の日の夜9時に臨時列車が出ることになり、みんなそれで移動した。佐藤少尉は明朝集合、と命令をした立場なので6人を探しながら駅で待っていた。一体どこに行っていたんだと怒られたが、明朝まで解散と言ったのは佐藤少尉ではないかと言い返した。それから土浦へ移動したところ、荷物を抱えた同期とすれ違った。終戦。家に帰れるのだとその時聞いた。
 函館に戻る途中、たまたま苫小牧出身の者と出会い戦争に負けたことの切なさを語っていると、その者がこう言った。「その切なさはこれから良い思い出になるから、決して忘れてはいけない」
 女性の家を訪れた6人の中に、茨城出身の者がいた。戦後の生活が落ち着いた頃、女性に改めてお礼を伝えようとその者は千葉に行った。駅から踏切を越えて右に曲がり2、3本目の道のあたり。道順を覚えていたのに豪邸は見つけられなかった。2回、一日がかりで探したが、やはり見つけられなかった。

 最後はまるでキツネに化かされた昔話のようで、真相はどうなんだと不思議に思ってしまいます。しかし、祖父にとっては不思議なことなど何らなく、あの時白米を出してくれたことの感動や駅に人がいなかった時の衝撃の方が印象に残っているようです。お盆前に何ともいい話を聞くことができました。

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