不登校は不幸じゃない

高村さとみ

 これまでに不登校当事者の話というのをいろいろな所で聞いてきた。当事者が「不登校になってよかった」と話すことがある。そして、話す場がフォーラムだったりすると、司会や会場から「不登校でよかったと思いますか?」という質問が出ることがある。前者は何とも思わないが、後者は何だかムズムズする。だって、その場面でその質問では「よかった」としか言えないじゃない。前者については「不登校になったことを後悔している」でもいいと思うわけです。この場合のいい、というのは不登校自体が良い・悪いという私の意見の話ではなくて、個人が自分の経験にどういう感想を持ったって外野が口を挟む必要はない、ということ。「あなたは、そうなのね。」とそのまま受け取ったらいい。
 だから「不登校でよかったと思いますか?」の質問は、不登校への個人的な感想を一般化したいように感じるし、聞き手は「よかった」という話を聞きたい前提で質問しているでしょう、という違和感がある。不登校に限らず「あなたのこれまでの人生よかったと思いますか?」と聞かれて、自分で自分の人生を否定することは早々ないと思うのです。本心がどうかはさておき、否定する言葉を吐くことでより否定を自覚させられるというか。そういうネガティブな気持ちになることを避けたいから、なるべく肯定していきたいというのが人間の心理なんじゃないだろうか。
 最近、沖縄の10歳のYouTuberの子が「不登校は不幸じゃない」と発信をして、炎上するということがあった。学校に行くべき、という人たちが10歳の子を叩いているわけだけれど、ふと、みんなそんなに学校が好きだったの?楽しかったの?という疑問がわいた。素朴な疑問として、学校が楽しい・好きだと感じている大人や子どもたちはどれくらいいるんだろうか。
 対するコメントは「忍耐や協調性が養われない」とか「ちゃんとした大人になれない。責任とれるのか」とか、おそらく学校を好きではない・楽しくないと思っている人たちもこの子を叩いている。先の話に戻ると、人は自分の人生を否定したくないというのが前提にあるのだと思う。自分は嫌だけど我慢して学校に行ったから、学校に行かないのは怠けている・楽している。自分は我慢したのに楽する奴がいるのは許せない、というように。
 でも最初に書いた通りで、個人の思いに外野が口を挟む必要ないでしょう。だって、この子は「自分はこういう理由で不登校になった。これからこういう目標をもっている」という話をしているだけで、「みんな不登校になるべき」なんて言っていない。学校がつらくて行きたくないとか、死にたいという子に「学校行かなくていい」と言っているだけだ。それぞれの人たちに「自分は学校が楽しかった」「嫌だったけど学校に行った」という思いがあるだろうけど、それで自分と思いのちがう人を殴るのはちがうでしょう。少なくとも、(年齢は本来関係ないけど)10歳の子どもを叩く人たちが「ちゃんとした大人」だなんて思えないよ。

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