「遠友夜学校」って知ってますか? ー 新渡戸稲造が札幌で開いたフリースクールの原型 ー

亀貝一義

新渡戸稲造という人は、5,000円札に描かれている明治期の人物です。岩手の生まれですが、札幌農学校を卒業したクラーク先生の「弟子」につながる人と言っていい人ですし、国際連盟の事務局次長として、世界平和のために活躍した人でもあります。
彼が、妻萬里子(メリー)夫人の実家から送られた遺産1000ドルを原資に、札幌の南4条東4丁目に学校を開きました。これは、主として経済的理由で学校に行けない子どもたちのために準備した夜学校で、「友あり遠方より来たる」から遠友夜学校と名づけました。
スタッフは今でいうボランティアで働く学生たちでした(主として北大の学生)。
この学校は1894(明治27)年から50年間続き、戦争が厳しくなった1944(昭和19)年閉鎖を余儀なくされました。。

私はこの学校こそ、今でいうフリースクールであったと思います。学びの場としてのフリースクールの原型が札幌で誕生したということは、非常に教訓的であると思いませんか。

北海道で最も古い歴史をもつフリースクール札幌自由が丘学園は、今年25周年を迎えます。遠友夜学校の経た歴史の、まだ半分の期間ですが、役割やスタッフの意味からほとんど共通の教訓をもっていると思います。意義を歴史的に確かめながらさらに貴重な教訓を創っていきたいものです。

※ この文は「希望の樹」の最新号の冒頭の文章です。その後、新渡戸稲造関連の集まりに出たこともあって、もっとこの文章に記した意義を広げたいという気持ちになりました。そういうことで「再録」ですがご理解ください。

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札幌自由が丘学園三和高等学校の第10期入学式での「式辞」(180420)

       校長 亀貝 一義

 札幌自由が丘学園三和高等学校に入学することになった生徒の皆さん、入学おめでとう。
 本日、新しく私たちの学校に入学することになった生徒は、月1・在宅学習コースが4名、全日の毎日学習コースが19名で合計23名です。
 本校の生徒数は、月1が合計で24名、全日が合計で47名。札幌学習センターの生徒数は合計で71名。そして東京学習センターの生徒たちが63名ですから、三和高校の生徒数は合計で134名です。

 たくさんある高校の中で、私たちの三和高校を選んでもらえて本当にうれしく思います。
 札幌自由が丘学園には、他にフリースクールがあります。今の在籍者は10名ですから、144名の生徒が札幌自由が丘学園の生徒ということで平成30年度2018年度がスタートしました。
 これからいつものようにたくさんの転入生を迎えることができると思います。

 多くの皆さんは、先月までは中学生でした。皆さんは高校進学にあたって、誰もが「友だちができるだろうか」とか「勉強についていけるだろうか」ということについて不安をもっていたと思います。
 勉強もちょっとだけ難しくなるかも知れません。まわりからも「高校生なんだからもう子どもではないよ」と言われるかも知れません。
 人への態度も、たとえば言葉遣いなどを含めて、これまでよりはバージョンアップしなければならないですね。しかし、もし皆さんが友だちができるかな、とか勉強は難しいのでは、という不安を持っていたとしてもあまり心配しないでください。やさしい先輩、いいスタッフがいます。もし不安や困ったことがあれば何でも担任や、ここに座っている先輩にたずねてください。きっとやさしく親切に答えてくれると思います。
 
 この機会に、札幌自由が丘学園の理念と目標について触れておきたいと思います。
 三和高校の前身はフリースクールでした、フリースクールは25年間の歴史をもっています。今の学校にはどうも満足できない、なじめないという子どもたちのためのフリースクールからのスタートでした。
 その後、「高等部」をスタートさせ、9年前の4月、和寒町の協力があって札幌自由が丘学園三和高等学校を開くことができました。2009年のことでした。皆さんはこの高校の第10回目の入学生です。

 私たちの高校は、他と違うところがいくつかあります。
 多くの学校は、「君はこの成績だからこの高校だよ」といわれて入ってきた生徒たちがほとんどです。しかしここは、人数は少ないが実に多様な生徒がいます。
 勉強のできる人もいます。反対に少々遅れている人もいます。非常に個性豊かな人がいます。

 25年前、私たちは私たちが開く学校を「自由と共同の学校」にしていこうと決めました。だから、こまごました校則はつくっていません。生徒の皆さんの自由と自主を大切にしています。この考えはフリースクールであっても高校であっても変わっていません。
 そして「共同」とは、生徒どうしの共同、皆さんを支えるスタッフや父母、地域の人たちの共同、そして生徒と大人たちの共同、三和高校の「和」の意味でもあります。この自由と共同の学校でみんなが元気を取りもどしています。

 この機会に、皆さんに、高校生になってこれだけはおさえて欲しいと思うことを2点強調したいと思います。
 第一は、勉強に対しても、あるいはその他皆さんの趣味を深めることなど、何かに対して「やる気」を持って欲しいということです。意欲を持って欲しいということです。
 第二に言いたいことは、皆さんが将来どう生きるか、何をめざすか、といった将来への夢を考える時期だということです。焦らなくともいいから、「吾何をなすべきか、どう生きるべきか」を折に触れて考えながら、自分らしさの基礎を固める3年間であって欲しいと思います。

 入学式での生徒数は少なくとも、これまでの例では今後多くの転入生などを迎えることになると思います。いろいろな高校で傷ついたり疲れたりして方向を変えたいという高校生が少なくありません。そして3年間の三和高校での高校生活を終えて次ぎのステージに向かうときほとんどの卒業生が「三和高校で学ぶことができて良かった、ここがわが母校だ」という感想をもって挨拶していきます。多分皆さんも同じだと思います。

 そして、父母の皆さんへささやかなお願いです。 
 単なる一人の「利用者」としてではなく、学校を共同で動かす当事者という気持ちをもって臨んでいただければ幸いです。 

 さいごになりましたが、この入学式に23名の新しい札幌自由が丘学園三和高等学校の生徒たちの前途をお祝いするためにお集まりいただいた父母、先輩になる在校生の皆さん、そして和寒町の皆さまに、学園を代表して心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 以上をもって、学校長の式辞といたします。

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学校復帰をどう考えるか

 高村さとみ

 3月16日(金)、15名の生徒がフリースクール札幌自由が丘学園を旅立ちました。進路未定の子もいますが、中学3年生の子はほとんどが高校へと進学していきます。
 最近、クラスジャパンプロジェクトという取り組みが話題になっています。関心のある方はぜひホームページをご覧いただきたいのですが、不登校が引きこもりにつながるように書かれていたりと、いろいろと疑問が残る内容です。なかでも批判が集中したのは「不登校者全員を通学していた学校に戻す」というミッションです。現在このミッションは削除され、「ミッションに関しての真意」が掲載されています。
 学校復帰をどのような意味で使うのかは団体の性格によって2パターンに分かれるかと思います。一つは先のクラスジャパンプロジェクトのように中学生なら籍を置く中学校に学校復帰するという意味。もう一つは高校進学やその先の専門学校・大学進学も含めて学校復帰と捉えるという意味です。札幌自由が丘学園ではスタッフから子どもに学校復帰を促すことはしていません。ですが、子どもが学校復帰したいという意思があればそれを応援するというスタンスです。実状、在籍校へ復帰する生徒は少ないのですが、先に述べたようにほとんどの生徒が高校進学をしていくという意味では、学校復帰のための役割を果たしているといえます。また、適応指導教室によっては学校復帰前提の利用を求められ、子どもがそれを拒否したために教室の利用ができないことになった、というのはよく聞く話です。子どもの気持ちを想像してみるに、今現在何らかの理由で学校に行きたくないから不登校になっているのに、「学校復帰するためにがんばろう」などと言っても自分を否定されている気持ちになるのではないでしょうか。子どもの気持ちを第一に考えるならば、学校復帰という言葉は軽々しくは使えません。
 それだけに、今回のクラスジャパンの動きはどうにも腑に落ちません。学校復帰を打ち出せば批判が殺到するなど容易に想像できることです。それなのに今回のようなことが起きたのは、学校復帰の持つ意味に鈍感でいるのか。それとも批判が起こることを覚悟しながら、自治体に受け入れられる形式を優先したのか。いずれにしても、子どもの気持ちを第一に考えましょうという当たり前のことを、私たちはもっと発信していかなければならないでしょう。

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冬の学校と通学

   亀貝 一義

北陸地方でのクルマの「立ち往生」のスゴさが問題になっています。まだ札幌は、雪の量も冬のシバレも堪えられる「想定内」のレベルです。

昭和20(1945)年前後の「思い出」です。私の過ごした和寒での学校生活に関連することですが、いつも今の時期、あのころの学校での寒さを思い出します。

暖房は当時マキストーブでした。まだ石炭はどこの家にでもある、という状態ではなく、地域のおじさんたちが山の木を春先に切ってきて、長さ1尺(約30センチ)ほど、太さも子どもが持ち運びができ、ストーブに入れられるように準備しておきます。

これを30本か40本ずつ前日に当番がストーブの近くに運んでおきます。
ストーブに火が入っても、当時の学校は、隙間風は入るし、そもそもシバレは、毎日零下20度以下なので、どんどん火を燃やさなければ温かくなりません。しかしその暖かさはストーブのまわりに限定されています。だから廊下側や窓際に席のある子どもは寒さに堪えながら授業を受けることになりました。時間ごとに席を交代しよう、と先生は指導してくれました。
ストーブのまわりに弁当を並べて温かいメシが食えるように子どもたちは工夫しました。

大雪の日は通学の道路も雪で歩くことができません。部落(地域ごとのかたまりで「○◎部落」と呼んでいました。例えば三和第一部落とか)のおじさんたちが馬に小さい木のかたまり(これをタマと呼んでいました)を引かせて子どもたちが学校に通うことができるように道を作ってくれました。

私などが体験していた暮らしの一端です。この70余年の間に暮らし方(学校で、通学で、弁当、その他いろいろ)がどんどん変わってきました。楽になり、温かくなり、便利になってきました。

北陸で大雪のために1000台以上のクルマが立ち往生しているニュースを知って思い出したことです。



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自由が丘を心の縁(よすが)として

亀貝 一義

思えばA君が札幌自由が丘学園で過ごしていたときから20年以上たっているのです。A君は中学校時代つらい体験をしたから高校へは行かないで、これに代わる学校としてフリースクール札幌自由が丘学園を選びました。
フリースクールで3年間、私たちといっしょにA君は勉強し体育館でいきいきと体を動かし、また当時行ったJRを利用しての校外活動(JRテーリング)なども積極的に行いました。

まだ行ったことのない町までいくのだから無事帰ってくれるかな、などというスタッフの心配もなんのその実に楽しそうに、JRを乗り継いで帰ってきました。

A君は当時のクラスメートとともに学園祭などでも活発に行動し演劇などでも主役を演じるなど「自由が丘は自分のためにある」と言っているように元気に活動しました。

札幌自由が丘学園を卒業して、何年もたっているのに学園祭その他のイベントのときなど訪れてくれます。

私はこのA君が来てくれるたびに、札幌自由が丘学園がこれほど大きな心の縁(よすが)になっていることに逆に感動させられます。

ご両親はA君が今後も立派に生きていけるようにと果樹園をつくりました。今度は自分のブドウ園で収穫できたブドウを持ってきてくれました。そして先日は収穫でえた収入の一部を学園に寄付金として持ってきてくれたのです。

学校とはたくさんの卒業生のためにというより「一人ひとりの卒業生にとってここは自分のための学校なのだ」と感じ取ってくれることに心が打たれるのです。

先日A君が来てくれたことで改めて思うのでした。

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杖をたよりに・・・

亀貝一義

足の故障でなかなか元気よく歩くことができない。杖をたよりに歩くことがある。
通勤の往復のほとんどは妻の運転するクルマなのだが、やはりトレーニングが大切なのでは、と思って時どきは1キロ程度は歩くことにしている。

今は雪・氷の道があちこちにあるので、これが難敵。ヘタに杖をたよりにしていたら、滑って転びかねない。
そんな体験からいろいろ気になることがある。またいろいろな思いやりを受けて感謝の気持ちをもつこともある。
まず、自転車がこわい。これが杖を巻き込みかねないことが気になる第一。そして先の氷が残る道路をしっかり見届けて歩くことが第二。電車に乗ったりバスに乗ったりしたときに杖は邪魔になるからこの持ちかたに注意しなければならないことが第三。

自分が多少の障害をもつことを自覚したときに、一般社会は障害をもつ人にとってはあまり親切ではないと思うことのひとつは、駅がエレベーターとかエスカレターなどあることはあるのだが、これが遠い所にあることが多いこと。

杖というのはたよりになるものだ、と知るのだが、先日知人の伸縮自在の杖を見て、これは便利だと思い買い求めた。折り曲げてかばんにいれておけばいい。

いずれにしても、障害を持っていてもフツーに暮らすことができる今の世がうれしい。
昔、「やあ、ビッコが来た」などという冷やかしや軽蔑を、それほど気にすること無く口にする傾向があったことを思えば、やはり人間の社会は確実に進化しているのだ、と感慨深い。

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2017そして2018へ

田房絢子

2017年もあと6日ほど。毎年「年々、一年が終わるスピードが加速しています!」とみんなして言い合っているのですが、今年ももれなくあっという間に終わりを迎えようとしています。これって老いのせいなんでしょうか。なんで毎年加速するんでしょうね?

さて、そんな2017年はどんな年でしたか?楽しい人、悲しい人、ハッピーな人、切ない人、いろんな感想があると思います。私の一年は楽しいで始まり、切ないで一休み、また嬉しいで気持ち浮かれ、穏やかになりつつ、心ざわついた一年でした(要するに色々)。そんな中、何か新しいことを始めてみたいと思ったので、なんと「習い事」を始めました。週に1回程度ですが何かと真剣に向き合っている時間は、思った以上に自分の中で大きな位置を占めるようになりました。この職業はある程度形の決まった大きな流れの中で1年が過ぎていき、子どもの顔ぶれは変わるもののそれを何度も何度も繰り返します。そんな生活を長年過ごしていると、大小変化はあっても、知らずと流されていることが多々あります。そんな日常にメスを入れるわけではありませんが、うっすらとした期待で始めた新しい試みは私の生活に色濃く刻み込まれることになりました。また少しするとそれも日常になるのでしょうが、いつまでも特別な時間の流れとして過ごしていきたいなと思っています。

そんな2017年を踏まえ、2018年はどんな年にしようかなと思っているところですが、やっぱり新しいことを始めたいと思っています。というのも自分の人生を振り返ったとき、「学ぶ」ということがいつもそばにあった気がするのですが、最近それを少し忘れているなぁと思ったのがきっかけです。というわけで、自分なりの「学ぶ」気持ちを取り戻す2018年にしたいと思っています。

今年3月に卒業を迎えたみんなも今きっと頑張っています。学業や仕事においてたくさんの学びに触れていると思います。それに負けないよう、そして一緒に学び続けるよう、担任としてエールを送るつもりで私もひとり頑張りたいと思っています。

さて、みなさんの2018年の準備はいかがですか??

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「どうぞ、お座りください」

札幌自由が丘学園 亀貝一義

私はこの10年間ほど、三和高校がスタートして以来、JRを利用して通勤している。はるか半世紀以上も昔のことだが、高校通学も同じだった。そのころは「JR」でなく「国鉄」だったが、言い方は「汽車通」だった(和寒-士別間)。その時はすべて蒸気機関車が列車を引っ張っていた。

今、学園都市線を利用する。この線は、よく「故障」する。ちょっと雪が降った、風が強かった、地震だ、などが理由だが。他の線はどうなのか、よく分からないが...。

それはともかくとして、私の乗降する駅は、札幌駅から2つめで、乗っている時間もたかだか10分足らずだ。だから混んでいるときはデッキで立つことが多い。「どうぞ詰めてください」という放送がよくあるので、車内に詰めて乗ることもあるが、自分ではあまり車内に入りたくない。なぜかと言えば、私のような高齢者が立っていると、しばしば「どうぞお座りください」と席を譲ってくれる人が少なくないからだ。その席を譲られることがイヤだというのは少々ヘンだと思うかも知れないが、この大いなる「善意」は、逆に「オレはそれほど年寄りに見られているのか」という気持ちになるからだ。だから旭川とか和寒にいくためにJRに乗って混んでいて立っている時などにはこの善意はありがたいと思うのだが、そういう2時間以上のJRに乗る機会はほとんどない。また乗ったとしても座席指定だ。

だから多少の高齢者がいたからといってすぐ「どうぞお座りください」と言わない方がいいのだ、と言えば、それもちょっと違う。じゃあ何を言いたいの?と聞かれると、「さあ、私は何を言いたいのだろう」と自問自答して迷う。

高齢者だけでない。障害を持っている人、妊娠中の女性、子どもをおんぶしたり抱っこしている人、その他病気かなと思われる人などで、立っている人がいると、軽く「どうぞお座りください」と一旦は言って、「有り難うございます」と座る人ならそれでいいし、「いえ、すぐ降りますから」という人であれば、「あ、そうですか」とそのままでいいのだ、と言うようなことなのかな。

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南九州への研修旅行

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札幌自由が丘学園三和高校校長 亀貝一義

これまで利尻方面に行ったのが最初(06年)だったが、その後知床(07年)、与論・沖縄(08年)、中国地方(09年)、知床(10年)、沖縄・与論(11年)、輪島・金澤・高山(13年)と7月から9月にかけての時期に、職員の研修旅行を行ってきた。常勤・非常勤の職員が10人前後だった。

4年ぶりでこの9月末、3泊4日で南九州に行くことにした。鹿児島県と宮崎県。
大人10人、子ども1人の11人のグループ。子どもというのは安斎さんの1歳7月の男の子。この子は人見知りなどするはずもない愛嬌あふれた可愛いしぐさとスゴイ賢さをひれきする蒼翔(あおと)ちゃんで、旅行グループみんなのアイドルになった。

鹿児島は、19世紀半ばから、江戸幕府を倒し近代日本を切り開く重要な役割を果たす人材を輩出した地域で、随所に西郷隆盛の面影を想像させる物があった(薩摩藩)。また新しい時代をつくり出そうという藩の息吹のような物(「工場」に類する「尚古集成館」?)などを見ることができた。
私たちが去ってまもなく桜島が噴火した。その桜島をいろいろと視察できたのだが、その時は「噴火する」など想像すらできなかった。

また宮崎県は、その昔日向国(ひゅうがのくに)といわれていたように、日に向かう国だった。というのは、日本をつくりだした神たちはここで活躍したという。この地から大和をめざしたことになっている。これに関連する遺跡があり(高千穂など)、伝承が多くある。だから日向国にいると、天照大神(太陽の神)と多くの神々が議論し、天地を創造したいきさつなどが「なるほど」と思いたくなるような感がする。

南九州旅行は、そういう日本の誕生から始まって、明治維新、さらに近代工業化の波がここから始まったという歴史をおさらいすることになった数日間だった。

それにしてもレンタバスを終始運転してくれたのは杉野学園長。杉野さんの「神わざ」的なドライブテクニックに感嘆したことをつけ加えておきたい。

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「終の棲家」と本の処分

亀貝 一義

私は娘たち一家と三世帯同居で暮らしている。
築30年ほど経った住宅の手直しが必要ということで業者と相談したら、「手直しのレベルでない。改築がふさわしい」という『助言』があったので、昨年暮れから、主として娘たちが検討を重ねて今年の4月から旧居からの移転、その解体、そして新築という流れを体験した。

5か月近い期間の「仮住まい」体験。
旧居から出る、新居に移る、この2回の「引っ越し」。この半年間は、学校の新学期とかさなって妙に忙しい(精神的にせわしいというか落ち着かないというか)期間だった。そして9月初めに新居に移転して、今はここでのくらし。「終の棲家」(ついのすみか)になる見通し。

古い家は建て増しとか改築とかを行っていたが、広かった。だから私は書物を初めいろいろな「財産」を増やしてきた。所帯をもって50余年、「よくこれほどの物をため込んだものだ!?」と嘆いたり感嘆したりした。

書物を納める書庫を半地下(8畳以上あったか)にとっていた。増水の時など、この影響を受けたことも今になっては懐かしいのだが、このことより書庫においた「大量の本」を処分する(1度ではない)ことになったときの「心のキズ」はもう1年以上たつが、まだ癒えない(?)。

古書専門店というのか、「ブックオ○」さんを呼び、本の処理をお願いした。「オカネを払える物はこれとあれぐらいです」と言われ千円札を4枚もらった。そして本をトラックにいっぱい積んで持って行った。

新居は旧居よりも小さいので書庫どころではなく、幅70センチの書棚を置くことがようやくというアンバイ。だから、段ボールにいれたままの書物が何個か空きスペースに重ねたまま。いつの日か陽の目を見ることができるのだろうか。

よく言われるが、最近は読書をしなくなった。PCでの調べ物や情報の仕入れなどは早いしカネもかからない。しかし私はやはり書店に行って買いたいなと思う本に会うと購入したくなるのだが、「置くスペースがない、将来これを処分しなければならない家族に負担がかかる」などという思いで買うことを躊躇し、図書館に行くことにする。市立図書館も北大の中央図書館も年配者が多い。似たような立場の人なのだろう、と納得しているが...。

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