Imagine

フリースクールスタッフ 新藤理

 平和を願い、愛あふれる世界を願って歌われたジョン・レノンの名曲、「イマジン」。しかし、2001年の同時多発テロ事件以降、アメリカでは放送が自粛されていたこともあったそうだ。はっきりとした理由は知らないけど、たとえば歌詞中のこんな一部分が問題になったのかもしれない。

Imagine there's no countries  It isn't hard to do
Nothing to kill or die for  And no religion too

(想像してごらん 国家というものはないのだと
 難しいことじゃないよ
 殺すべき理由も 死ぬべき理由もない
 そして宗教だって存在しない)

 対立する他国から攻撃を受け、祖国への思いに心を燃やす人から見れば、その歌詞は皮肉なものに映るだろう。でも、それだけこの歌詞のメッセージは鋭く深いということでもある。発表から40年以上が過ぎた今でも、世界から戦火が絶えることはない。この歌が歌われ続けることには大きな意味があると私は思う。

 先日のフリースクールの音楽の時間、みんなでギターを抱えて「イマジン」を練習した。この時間に初めてギターにさわる生徒も少なくなかったので、まずみんなで弾くコードは「CM7(シー・メジャーセブン)」の一つだけ。押さえ方の難しいコードは、ギターに慣れ始めた何人かの男子が頼もしく鳴らしてくれる。英語の歌詞はやはり口に出すのが難しく、大きな歌声はあがらなかったけど、「ちゃんと歌えるようになればカッコいいよなぁ~」とつぶやく子もいた。
 「カッコいい」で十分。歌詞に込められたメッセージを私は説明するけど、そこに共感もあれば批判もあり得るだろう。少しずつ理解し、自らの考えに沿わない部分は批判的に読み込んだってかまわない。ただ、こうした強い力を持つ歌が存在すること、そうした歌を持って抗わなければならない痛烈な世界の現実があることを、少しだけ意識してくれればそれでいい。


 フリースクールの子どもたちは、今日もそれぞれ無心に好きな歌を歌って過ごしている。ちょっと調子っぱずれなこともあるけど、なんて平和な歌声だろう。その響きこそ私の大切な「人生の歌」だ…と言えば、ちょっと大げさに聞こえるかもしれないけど、やっぱりそう思う。

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冬を目の前に

札幌自由が丘学園 学園長 杉野建史

 

暑く長い夏が終わったと思ったら、あっという間に冬目前になった。今年の札幌には秋がなかったように思う。

9月末、フリースクールの生徒数名とスタッフ4名で日帰りサイクリングに行った。その行事名を「ツール・ド・エム」。フリースクール生徒の中に自転車好きがいて、以前からサイクリングに行きたいとの要望があり、この秋にやっと実現したイベントだった。当日の天気は開催が危ぶまれる悪さ。出発時刻の天気は雨で、時間を遅らせてなんとか出発できた。小雨の中、生徒たちは元気いっぱい目的地の定山渓温泉を目指し、ペダルをこぎ始めた。自転車経験豊富で現役サイクリストの鶴間さん指導のもと、交通ルール遵守、交通安全第一で全員が完走してゴール後にはささやかな焼き鳥パーティーを行った。実に楽しいイベントで来年以降は定期開催、回数増で行いたいイベントだ。自転車同好会設立を切に願っている。

私自身、10年ほど前から自転車通勤を始め、トレーニングでも自転車を漕いでいた。2010年には生徒2名と約120キロ離れた登別までのツーリング経験もある。

この季節になると、「あとどれくらい自転車通勤ができるかな…(例年は11月中旬で自転車通勤あきらめている。)」と考えているのだが、自転車通勤をやめるとどうしても運動量が減ってしまい、運動不足な体になってしまう。そこで今年は自転車用の冬タイヤ(スパイクタイヤ)を装備して、出来る限り自転車通勤を継続しようと考えている。車道脇に雪が積もると交通安全上危険なので、それまでの期間と考えているが例年の天候から判断して年末までは大丈夫だろうと…。

交通機関を利用してかかる通勤時間は約1時間。自転車を利用すると30分。これだけを考えてもいかに自転車がもたらす効果が大きいか。さらに運動が出来るとなればそう簡単に自転車から降りることはできない。自転車様さまである。

自転車に乗るほど自転車にのめりこんでいく。出来るかぎり自転車に乗りたいし、自転車をいじっていたい。冬を目の前にして、この興奮は冷めないようだ。

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読書と蔵書

                                                                       亀貝一義
「あなたの趣味は?」と聞かれたら、私は「読書です」と答える。振り返ってみても小学校時代からよく本は読んでいたと思う。和寒の叔父の家で暮らしていたとき、たしか戦前に出されていた雑誌の「キング」とか「家の光」などを物置から引っ張り出して読んでいた。まだ和寒では電気がなくてふた昔前のランプ生活だったが、その灯りの下でこっそり読んだ。小説の多くは時代物(チャンチャンバラバラ)。その後、時代小説を自分でも書いてみようという抱負をもったことは、その時の印象が残っていたからだろう。この抱負はすぐキャンセル。

高校は士別にあったから当時の汽車通(今のJR通学)だったのであまり時間がなかったのだが、士別の図書館から初めて借りた本がロシアの文豪ドストエフスキーの代表作「罪と罰」だった。内容はほとんど理解できなかったのだが、その主人公ラスコーリニコフという名前は今でも覚えている。
高校時代の読書はほとんど汽車の中だった。「罪と罰」に続いて読み続けたのは吉川英治の「宮本武蔵」だった。この小説は理解できた、というより時間の経つのも忘れるぐらい読み続けた。あの剣聖と言われた武蔵の青年時代は今でいうヤンキー。その後、沢庵和尚(たくあんおしょう。例のタクアン漬けの考案者?)との出会い、そして常に武蔵を慕い続けるお通(おつう)という美しい娘、最後はライバル佐々木小次郎と巌流島での決闘、など作者がつくったこれらのシーンは多くの日本人の共通の「常識」になった。

60年代から70年代は推理小説をよく読んだ。松本清張の作品はほとんど読んだのではないかと思っている。今では記憶も定かでないが…。その他活躍した森村誠一の小説なども。
80年代以降は、歴史物が多い。倫理社会や世界史の授業内容を勉強するためという意味もあったのだが、特に中国の歴史については、小説と歴史書を重ねて読んだ。殷末周初、秦の時代から漢がつくられてくる頃の「項羽と劉邦」、そして三国時代、隋唐の時代など、歴史の展開は小説のようだった。上の吉川英治の「三国志」や「水滸伝」などは実に面白いテキストだった。

今の読書のジャンルは?と聞かれると「うん、まあ」とあいまいに答えるしかない。むしろ本をよく読むというようには言えない昨今である。

困りだした問題がある。それは半世紀以上にわたる蔵書の始末だ。古本屋さんに売れそうなものはかなり売った。また三和高校本校や札幌学習センターに移した書もたくさんある。それでもまだ6畳くらいの図書部屋が満杯になっている。「これらの本、どうするの?」としかるべき人に言われるのだが、「まだ死ぬには時間があるから、まあそのうちに」とこれまたあいまいに答えている昨今である。80歳を超えたら蔵書を選別して、寄贈したり廃棄したりするつもりだが、ダイジョウブだろうか。

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『体質改善』

安齊 裕香

秋も深まり、雪虫が発生してきました。

小さい頃、自転車に乗っているとよく口に雪虫が入ってきたものです。

学校では学園祭が終わり、スタッフは冬のスクーリングについての会議も始まったところです。あっという間に冬になりそうですね。

そう。この季節からは私にとっての闘いが始まる時期なのです。

最大の敵は『冷え』。

私は末端冷え性だと思われます。

いつの頃からか手や足先が尋常じゃないくらい冷えるようになり、ここ数年悩まされてはいましたが、あまり気にはしていませんでした。

そして、今年は体質改善をしようという気に、やっとなったわけです。

現在の取り組みは、湯たんぽ・はらまき・モコモコ靴下・カイロ・運動・睡眠・食事などです。

カイロはただ貼ればいいというわけではなく、足で言えば内くるぶしの指3本くらい上とか、肩甲骨の下中央とか・・・要は血液の循環がよくなるツボを温めるというわけです。食事に関してはカラダを温める食べ物を摂取したり、冷たい水はあまり飲まないようにしたり。食事に気をつかうとそれも楽しくなってきました。仕事が終わって家に帰ってごはん作るのが苦痛に思う時もありましたが、最近は、あまりそうは思いません。

でもやっぱり自分に一番合っているのは運動だな~なんて感じてもいます。なるべく週1くらいでプールに行って1時間くらい泳いであそんでいます。寝る前にはストレッチをしています。全身運動の後は血液が循環しているのがわかるくらい爽快になります。

そんなこんなやっていると、ここ1カ月は少しですが体温が上がっています。こういう成果が出てくるとまた気持ちいいんですよね。継続しようという気になります。

普段の生活って大事だなぁ~と感じる今日この頃です。

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「わらしべ長者?」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

私が旭川の教育大学を卒業してから最初に赴任したのが歌志内の1学年1クラスしかない小さな小学校だった。 小さな学校では初任者であっても、一人でたくさんの役割をこなさなければならない。 できる、できないは通用せず、とにかくやるしかないという状況だった。 当時は必死になってもがいているだけだったが、そのことが後に大きな展開を見せることになるとは思わなかった。

私は小さな頃から運動が好きで、教育大学も体育科に入り、運動一筋で生きてきていたようなものだった。
そんな自分にとって、音楽はきらいではなかったが、音楽の授業は、どう見ても理解しにくいオタマジャクシの連続で、非常に苦手意識を持っていた。
小学校教諭の免許を取るのに、ピアノ室に閉じこもって、ピアノのできる友達から指使いを見て覚え、楽譜を読まずに何とかピアノを覚えてきてはいたが、簡単なバイエルを一曲仕上げるだけでも非常に時間がかかった。
学校の先生になりたいという思いで何とかしたものの、音楽専科のいない小さな小学校で、日々の音楽の授業をいきなりこなしていくことは、予想以上に難しかった。
自分の得意な教科の授業準備にも時間がかかっていたのに、音楽の授業準備は、ピアノの伴奏もあるために、授業準備とは別に夜遅くまで練習が必要だった。それでも、少しでも良い授業がしたいという思いで必死だった。

苦手なことに取り組むことは大変なことだ。
苦手を克服するためには人の何倍も時間がかかる上に、努力してもなかなか人並み以上にはならない。

音楽の授業の前の日は、憂鬱な気持ちは拭えなかった。

しかし、子どもの中には、音楽嫌いな子もいる。
そんな子たちを前にして、自分が先に音楽嫌いになっていては、子どもに影響がある。
音楽が得意で、音楽の授業を楽しみにしている子もいる。
苦手なことは変わらなかったとしても、自分がまず、好きになることだけは避けて通れない課題だった。

週末ごとに楽器店に通い、自分にできそうな楽器を探し、何とか自分自身が音楽を好きになるように仕向けた。
そんな中で、非常に奇妙な楽器、ケーナと出会った。
小学校の学芸会で「コンドルは飛んでゆく」をリコーダーで演奏した経験があったので、もう一度童心に帰って笛を吹いてみたいと思った。
ケーナは単なる竹の棒に穴を開けただけの無骨な笛だったが、その素朴なところにこそ惹かれていった。
しかし、尺八と同じように音を出すだけでも困難な楽器で、そう簡単に曲が吹けるようにはならない。
音楽の初心者にはますます取り組みにくい楽器だったが、誰でもできそうな楽器を大人になってから始めるよりも、誰にもできそうにもない楽器を自在に扱うことができるようになれば自分の人生が変わるのではないかと予感した。
それ以来、ケーナを肌身離さず持ち歩き、所構わず練習をした。
車の運転中も、ちょっと信号待ちがあればすぐに音を出す練習をした。
寝る時も仰向けになりながら静かに吹いて指づかいの練習をし、気がつくとそれを子守唄にして寝ていた。
そんな中、ピアノの伴奏やギターでの弾き語りができるようになり、音楽の授業も、私自身が一番楽しみにしている授業になっていった。

私のケーナへの情熱はエスカレートし、やがて自分でケーナを作るようになった。
同じ音楽をする仲間と出会い、人前で演奏するようになった。
ボリビア・ペルーを旅行し、現地のケーナの製作の仕方や演奏法を参考にし、マチュピチュの遺跡の前でコンドルは飛んでゆくを吹いてきた。
日本に帰り、北海道各地のイベントに招かれて演奏するようになり、その内の一つとして、自由が丘学園でのイベントがあった。
私がここで演奏したことはフリースクールスタッフを10年続けている音楽好きの新藤さんが記憶してくれていた。

苦手な音楽を受け入れることで、私の人生は大きく広がっていった。
生徒たちと音楽を楽しめるようになり、音楽を通して多くの人と出会い、友人も数多くできた。様々な慈善活動に協力することができるようになり、そしてフリースクールと出会うこともできた。そして、現在はこの札幌自由が丘学園の職員として勤務することができ、今の生徒たちとの出会いを実現させた。

20年近く前に握りしめた、たった一本の竹の棒が、私の人生を導いてくれたこの奇跡の様な出来事は、さしずめ、現代版わらしべ長者といったところかもしれない。
単なる偶然という言葉では表しきれない不思議な縁をひしひしと感じるものである。

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はぁ~るばるゥ~

フリースクールスタッフ 新藤理

 ♪はるばる来たぜぇ…と言っても、森町まで高速道路が延びた今では、札幌から函館への道のりはずいぶん短くなったような気がする。貸し切りバスでの道中、音楽好きな生徒たち(スタッフも)が変わりばんこに鳴らすギターに合わせて歌声を重ねるうちに、私たちはいつの間にか函館に到着していた。  フリースクール、二泊三日の修学旅行。実は、宿泊をともなう行事は今年度に入ってから三つ目(!)だった。そのため、生徒たちにとっては気持ちをそちらへ向かわせにくいような状況だったかもしれない。それでも、全三回を制覇しようとしていたある男の子は「前の二つ(フリースクール全国大会とネイパル森キャンプ)はどっちも他のフリースクールの人たちと一緒だったけど、今回は自由が丘の友だちしかいない。やっぱり別物だよ」と話していた。そう、純粋に今年の仲間たちとの思い出を作れる宿泊行事はこれが最初で最後。準備にうまく時間を割けない難しさがある中、それでもグループごとに自主研修の行き先を考えたりしているうちに、だんだんとみんなの中で旅行気分が高まっていくようだった。  もっとも、心配なことはいろいろあった。たとえば、一日目のメインである乗馬体験。行く前から何人かの生徒からは「どうしても乗らなきゃダメ?」という声が聞こえていた。どうしても体調が悪いなら仕方がないけれど、安易にパスする生徒が多ければ、それだけで旅行の雰囲気は何となくトーンダウンしてしまう。今年度の活動を見ていると、どうも「みんなでそろって取り組む」ということができない場面が多くて、そのことが旅行の一体感を削いでしまうのではないかと心配していた。  でも、いざ函館へ着いてみれば、生徒たちは私たちの予想よりもずっと前向きに旅行を楽しんでいた。昨年は「どうしても苦手で…」と馬に近づくことすらできなかった生徒が、今年は「やってみたら楽しい!」と笑顔で乗馬に取り組んでいた。誰一人欠けることなく馬にまたがり、森の空気を味わった。  全員で一つの目的に向かう…そのことの大切さをどこまで理解してくれたかはわからないけれど、とにかくみんなは同じ楽しみを分かち合うことができたし、それは最近のフリースクールではなかなか見られない光景だったのだ。そんなふうに、「普段以上にがんばった・楽しんだ」という姿が、旅行中のあちこちの場面で見られたことは、私たちにとっても本当に嬉しかった。  苦手だけど、やってみる。自分の興味とは範囲が違うことでも、まずは体験してみる。学園活動の中でいつも大切にしている目標がたくさんつまった修学旅行は、こうして無事に終わった。見慣れた学園にもうすぐ到着という時、みんなの歌声はもう一度だけバスの中に元気よく響いた。
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「スキーに魅せられて」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

冬が近づいて寒くなってくると、また雪に閉ざされた不便な時期がやってくるという憂鬱な気になるが、楽しみにしていることもある。 スキーができる。 これが一番の(、、、というか唯一の?)冬の楽しみだ。 スキーというと広いゲレンデでリフトに乗って爽快に斜面を滑り降りて行く華やかなイメージがあるが、私が半生かけて続けてきた、結果的に大好きなスポーツはメジャーなゲレンデスキーではなく、クロスカントリースキーだ。 この不可思議なスキーと出会ったのは大学時代。 当時体育科にいた私は、スキー集中講義で歩くスキーの大会に参加することが、単位取得のためにどうしても必要だった。 歩くスキーは高年齢になってから行うスポーツという印象があり、当時はあまりやってみたいとは思わなかったが、大学のゼミの仲間と共にチームを組んで長距離を走るということができることは楽しそうな気もした。 初めて歩くスキーに乗ったは湧別原野100km駅伝の第1区のスタートをきった時だった。 滑り方もよくわからず、滑るというよりも走ったり転んだりしながら必死になって走って次の仲間にタスキを渡した。 この区間では最下位から二番目で、私が様々なスポーツの大会で経験してきた成績の中ではほぼ最悪であったが、走り終わってからの爽快感は他にはない、格別なものだった。 それまでの私のスポーツ経験では、人より強くなること、人に勝つことという観点しかなく、成績が悪い時はひどく落ち込むことが多かった。 しかし、スタート地点に立つこと、参加すること、とにかく精一杯やること、それだけで、こんなに充実した気持ちになれることを初めて体感した。

大学時代はお金がなかったが、この後、自分のスキーを買い、当時所属していた陸上部の冬季のトレーニングの一環にということで練習をするようになった。
私の過ごした旭川にはたくさんの川があり、河川敷にはどこにでもスキーの通った後があり、練習場所には困らなかった。
冬の山も美しく、夏には絶対に入っていけないような場所にまで、雪の上を自由に歩き回ることができた。
旭川の国際バーサースキー大会に参加すると、スタート地点の競馬場が、参加した人で埋めつくされていた。
仮装をする人、それまで参加した時にもらった布ゼッケンで作った服を着て参加する人、赤ん坊をソリに乗せて家族で参加する人、実に多くの人たちが順位など気にせずに、大会そのものを楽しんでいた。
スタートすると、競馬場に埋め尽くされた群衆が渦を巻く様に動き始めて、一大スペクタクルが楽しめた。
給食所ではボランティアの方々が声をかけてくれて補給食を配布してくれたりする。
参加者の中には、手分けしてジンギスカンの道具や食材を持ち込んで、コースの脇でジンギスカン鍋を自分たちで作って食べていた御一行もあった。
色々な人たちが、色々な目的を持って、厳しい冬の寒さの中、それぞれの楽しみを持って大会に参加していた。
上達することだけではない、勝つことだけではない、参加することそのものに大きな意味を持っている、まるでお祭りのようなスポーツイベントで、大会の懐の深さを感じ、これこそ真のスポーツだと感じた。

あれから20年以上の月日が経ち、歩くスキーの愛好家もいつしか、多くの人が(私も含めて)より洗練された道具を使うようになり、競技化し、クロスカントリースキーとして現在も続けている。
現在の大会はかつてのお祭り騒ぎの様な盛り上がりがやや少なくなってしまったが、動力に頼らずに一漕ぎ一漕ぎを懸命に踏み出していくこの地味なスキーには、ゲレンデスキーでは決して味わえない充実感を感じる。
苦しい登りに、爽快な下りが連続するあの白銀の世界に、また漕ぎだしていきたいと、秋の空を眺めながら思う。

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つながるということ。

高村さとみ 

 札幌自由が丘学園は「北海道フリースクール等ネットワーク」「フリースクール全国ネットワーク」という団体に加盟している。そのネットワークの仕事をしていて思う話。

 フリースクールが(フリースクールにかぎらず?)ネットワークを組むというのはとても大事で、それぞれのフリースクールの活動内容が違うことを活かし、相談に来た生徒保護者のニーズが違ったので他のフリースクールを紹介したというケースはいくつもある。また、公的助成を求める活動を行うときに1つのフリースクールが声をあげるよりも、利害の一致する多数の団体がまとまって動いた方が説得力がある。それもフリースクールだけではなく、親の会・当事者など様々な立場がいるとなお良い。

 様々な生徒を受け入れるフリースクールとしては、医療・福祉・教育など複数の分野とつながりたいと思う。必要に応じて連携をとることはあるが、目先の目的がない状態でこちらから他団体とつながるために動く、ということは時間も労力も必要なことなのでなかなかできないのが現状である。

 これを個人に置き換えてみてもネットワーク=つながるということはとても大切である。私自身、ふと知り合った人の話から刺激を受けそれを趣味や仕事に活かせた、ということがある。こちらは分野は関係なく、むしろ多種多様な人と知り合えた方がおもしろい。目的なく知り合っていても、目的ができたときには「手伝って」「助けて」と言える間柄は本当にありがたい。

 フリースクールの話に戻る。上記のようなメリットもありながら複数の団体がネットワークを組む難しさ、というのもまた感じる。ネットワークを組む団体の数が多いほど、各団体の目的やニーズにずれがでてくる。そこを上手く補完できるような活動であれば良いが、補完しきれない場合はどうすればよいのか。

 こんなことをつらつらと考えた理由の一つに、11月9日(金)に東区民センターで行う「フリースクールフェスティバル」のことがある。これは北海道フリースクール等ネットワークが行う北海道内のフリースクールのお祭りで、私は企画・運営に携わっている。もとは無目的に知り合っていて、このイベントを手伝ってくれる人もいる。そのありがたみを感じる一方で、目的やニーズに微妙にずれのある団体同士が満足するイベントをつくるにはどうしたら良いか、ということを考えている。

フリースクールフェスティバルまであと一か月。悩みどころも多いがやるからには盛り上げたい。

 

詳細が決まり次第ホームページに情報をあげていきますので、ご都合のつく方はぜひお越し下さい。

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ふるさと再発見?

桑名 八重

学園スタッフはとても“チャリ通”率が高い。 自動車通勤禁止ということもあるが、交通の便もいいがやはりチャリの小回りが利くという点が大きいから、運動も兼ねてチャリ通を通している。 本格的なバイクの方もいらっしゃるが、私は俗にいう通学サイクルというやつだ。

高校時代からチャリ通をしているが、最近はすごく街並みを見ていることに気づいた。
以前は、出発地(自宅)→到着地(学校)の間にどんなお店があるかとか、どんな犬がいるかとかまったく見ていなかったように思う。

一時期バス通勤・電車通勤になり、再び自転車が主要な交通手段となり、ずいぶん色々なものに目がいくようになった。
自転車で行くちょっとゆっくりぎみのスピードのせいか、それとも私自身の変化か・・・。

「ここの花壇、花咲いたんだ」「新しいお店がOPENしてる!」「今度の日曜イベントあるんだ・・・。」
ゆっくり歩くのとは違い、スッと流れていく瞬間ではあるけれども色々なものが目に入ってくる。

長く札幌にいるけれど、今更ながらに気づくものも多い。
近くのお寺の鐘は夕方6時に必ず鳴ってるとか。じつは公園の銀杏並木がすごくきれいだとか。

学園の周りをはじめ、札幌市内中心部はかなり再開発が進んでいる。
古い昔からの石造りの倉庫が取り壊されたり、リノベーションされたり。
どんどん街の姿が変わっていくのも感じる今日この頃です。

あんまり街並みに関心のなかった高校時代の私が覚えている街並みも、
今の街並みも私たちが暮らす街なんだなと思う。

変化することは悪いことではないけれど、
どんどん変わっていく様子にちょっとさみしく感じる時もある。
少しでもたくさんの街の姿を見ておこうと思う。
また、新しい発見があるだろう。

チャリ通は街を知る絶好の機会だ。

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副担任

                                          三和高校 副担任 田房絢子

修学旅行が終わった。今回も副担任として同行。担任とは違った目線から生徒を見ているので、毎回のことだけど担任とはちょっと違った味わいがある修学旅行となった。

初めて修学旅行に同行したのは2004年。高等部で言うと2期生だった。担任外で同行したので、陣頭指揮をとったり、ミーティングをしたりというのを後ろから見ていた。自由が丘の修学旅行とはどういったものかを学ぶ初めての機会でもあった。

その翌年、初めて担任としての修学旅行。当時の流れでは生徒たちと行き先を決めていたので、その年は関西になった。今でもあのクラスは沖縄・与論島ではなく、関西で正解だったねと笑い話になる。どこか地味な3期生。若さはち切れない3期生。全員で八ッ橋作り体験をしたのを思い出す。作務衣みたいな作業着に白い作業帽子。お互いにその姿を見て笑い合っていた。清水寺に行っておみくじをひいたら凶が出たから引き直した。いろいろなお寺を見て回った。奈良では鹿の大群に囲まれて服を噛まれて大笑いした。

そんな愉快なメンバーが自主研修の時には無事で帰ってくるか心配で心配でいてもたってもいられなかった。行き先はわかってはいるけど、なにかあったらどうしよう。変な人たちに絡まれないだろうか。道に迷ったらどうしよう…。今思えば「そんなこと」で済ませられることが、当時の私にとっては「大事(おおごと)」だった。「そんなに心配しなくても大丈夫」と何度も何度も現副校長になだめられたのを覚えている。そしてそんな心配をよそに、無事に帰還し武勇伝を聞かせてくれる彼らの姿を逞しく思ったのをはっきりと覚えている。かわいい子には旅をさせろというのはこういうことか…。

初めての担任として多くを教えられたクラスだった。そんな彼らももう20代半ばになろうとしている。社会に飛び出してがんばっている子も、紆余曲折して踏ん張ろうとしている子も、パパやママになって子どもを連れて遊びに来てくれる子もいる。担任として引率した初めての修学旅行。彼らの心にはどんな風に残っているだろうか。

修学旅行。高校生活において一番・二番を争うくらいのビックイベントである。それを一歩後ろから見守る副担任であることを嬉しくも思うし、ちょっと少し寂しくも思う。そしてちょっと寂しいから、ここぞとばかりにあらゆる所で生徒と戯れようと目論んでいる「副担任」の私である。

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