やめないよ

フリースクール札幌自由が丘学園

スタッフ 新藤理

 演奏が終わった。kitaraの天井から降る明かりはいつもまぶしい。そして、熱い。照明ひとつにつき電子レンジ一台分の熱を放つと聞いたこともあるから、相当なものなのだろう。夏場はいつも、吹奏楽コンクールに出場してこの熱さを味わっている。

 中学生のときに始めたトロンボーンをいまだに吹いている。初めて出会ってから、なんだかんだでもう四半世紀になるのだから驚いてしまう。中・高・大、そして社会人になってもしぶとく吹き続けているうちに、トロンボーンの演奏は自分の名刺代わりのようなものになっていた。聞く人によって好みは分かれるだろうけど、とにかくそこには自分の個性が詰まっている...そんな音を出せている気がしていた。つい数年前までは。
 実は今、まったくもってそんな楽しい音は出せなくなってしまった。所属していた吹奏楽団で8年ほどトロンボーンの席から離れて指揮台に上がっていた、その影響もあるとは思う。金管楽器の奏者にとって、ブランクは容赦ない障壁だ。でも、それにしたって、この2年ほどは自分も周りもびっくりするくらい、劇的に腕が落ちている。練習が終わるたびにため息をついて楽器を片づける私の姿は、端から見ればずいぶんと老け込んでいることだろう。
 2014年の2月にそれまでずっと続けてきた指揮の活動にピリオドを打ち、トロンボーン吹きに戻った。理由は書き出せばきりがないし、いくら書いたって全然うまく言い表せない気もする。ともあれ、指揮の活動を支えてくれた仲間たちには感謝しかない。でも、正直なところ、指揮者をやめるときにいっそ音楽活動自体もやめてしまおうかと思ったりもした。我ながらわかりやすい「燃え尽き症候群」だ。実際、2月の定期演奏会を終えて、次に練習所に顔を出したのは6月に入ってからだったと思う。つまり、うだうだしたけれど、やめなかった。

 2月の定期演奏会にはたくさんの学園関係者が足を運んでくれていた。とくに現役の生徒たちは、kitaraの大ホールで燕尾服を着て指揮棒を振る私の姿に大いに面食らったことだろう。普段のしまりのない新藤とは何かが違う。週が明けて日常の学園生活が戻ってきても、生徒たちはあれやこれやと感想を口にしてくれた。一人の男の子が「ねえ、あれ来年もまたやるんですよね!?」とうれしそうに聞いてくる。「いやあ、実はもうやめよっかなーと思っててさ」とは、言えなかった。
 
「そう、また来年の2月! 今度は指揮じゃなくてトロンボーンだけどね。次も来てくれな!」
 
ああー、またそうやって軽い約束を。でも、思えば結局この会話がずっと心に引っかかって、それで辞める決心がつかなかったフシはたしかにある。あの舞台の上で、どんなにヘタでもスランプでも、精いっぱい演奏する自分の姿をやっぱり生徒たちには見てほしいのだ。あれ、思ったより大したことないなあ、と思われてもいい。あきらめずに熱中できる何かを持つということを、形にして見せたいのだ。その後もことあるごとに「またコンサートあるんですよね!?」と念を押すように聞く彼の声に背中を押され、調子はまるで上がらないままに、それでもトロンボーンを手放すことはなかった。

 2015年2月。指揮台を降りてから一年。トロンボーン奏者として定期演奏会の舞台に立つ日が近づいてきた。
真っ先に彼に知らせた。
 「S介、今年の演奏会、もうすぐだよ!」
 
「......うわー、モンハンフェス(彼が大好きなゲームのイベント)とかぶってる!!」
 
...え?
 
「ほんっとごめん、今年は行けません」

 がちょーーーーん。

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フリースクールのつくりかた

高村さとみ

 2年前に漂流教室の相馬さんが「フリースクールのスターターキットをつくりたい」と話していたことがある。先日、苫小牧フリースクール検討委員会が主催する「不登校について語りませんか」に参加して、いろんな参加者の声を聞くうちにスターターキットのあるべき姿が浮かんできたので、今回はその話を。

 苫小牧フリースクール検討委員会は、若者支援を仕事にしている人、不登校の元当事者や保護者が集い、苫小牧にもフリースクールをつくれないかと1年程前から話し合いを重ねている。苫小牧には市が運営する適応指導教室はあるもののフリースクールや親の会はない。適応指導教室が合わなくて...という子どもの選択肢のためにはやはりフリースクールはあった方が良いとは思う。実は最近、苫小牧だけでなく道内の数地域からも「フリースクールをつくりたい」という声があがっているのだ。

 しかしいざフリースクールをつくりたいと思っても、リスクの方が先に頭に浮かぶ。利用者は本当に来るのか。家賃や人件費をどう工面するのか。特に経済的なリスクは大きい。今現在フリースクールを運営している団体でも、経済的余裕のあるところなどないのだから。また、不登校といっても適応指導教室やフリースクールを利用していない子どもの方が圧倒的に多い。どのようなプログラムや形態が不登校の子どもにとって利用しやすいかなんてわからないのだ。強いていえばいろいろなプログラム・形態のフリースクールがあればあるほど子どもの選択肢が増えて良い。

 結論から言うとフリースクールのスターターキットはつくれない。運営がまわるような計画をつくるには家賃がいらない・人件費を削るなどの「特別条件」が必要であって、どこでも誰でも当てはまるようなキットとはいかないのだ。フリースクールをつくるには上記のリスクを超えるぐらいの思い切りが必要なのである。

 しかし、親の会であればどうか。というのが今回の苫小牧で見えてきたことである。親の会は、不登校の子どもを持つ保護者、保護者OBOG、不登校について話したい人等々がいれば成り立つ。場所は誰かの自宅でもいいし、月に一度どこかのカフェに集まってもいい。親が楽しそうにしていると、子どもが一緒についてくるときがあるかもしれない。焼肉やカラオケなんかの子どもが好きそうなプログラムを入れたっていい。定期的に行えば、子どもも親の会の時間が楽しみになるかもしれない。そこで友人を見つけるかもしれない。これはもう「フリースクール」といえるものである。ある程度の人数が集まり、子どもからの要望があれば会の回数を増やし、プログラムを考え...と発展させていける。実際にこのようにやっている親の会はあるのだ。このような考えを元に親の会のスターターキットをつくるとしたら...

・賛同する人が2人以上いる
・定期的な開催
・場所は自宅やカフェ、市民会館などを利用
・(大人にとっても)楽しいことをする

 こんなところだろうか。欲をいえば場所に関してはもっと地域の協力者がいてもよいと思う。店や施設で、使っていない時間帯に場所を無料で貸してくれるところ。例えば土日休みの福祉施設。例えば夜だけお客さんが入るごはん屋。そんなところが協力してくれるとよい。フリースクールをメインでやっていくのは難しいが、何かの片手間に子どもや親が集まれる場所をつくる、そんなところは地域に増えていってほしいところだ。

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「多様な学び保障法」を実現するための集会に参加して

亀貝 一義

6月16日(火)16時から16時45分まで、衆議院議員会館で、「多様な教育機会確保法(仮称)制定を目指すフリースクール等院内集会」が開催され、定員いっぱいの200名を超える参加者(「北海道から九州まで」)、16名の国会議員(顧問の河村建夫、座長の馳浩のお二人を含め)も来場されました。大きな盛り上がりだったと言えます。

私はNPO法人フリースクール札幌自由が丘学園の理事長の立場で、この会の趣旨である「多様な学び保障法案(仮称」の立法化促進を求める視点で参加しました。

法案の趣旨について、座長の馳議員は次のように発言しています。

「議員立法で、学習支援計画、理念的なもの、多様な教育を確保するための根拠法をまずは今国会で成立、来年の国会で文部科学省より各法として学校教育法を書き換え、経済的な支援に具体的に踏み込んでもらう」。

議員立法で想定されるものはあくまでも基本線だから、問題は成立以降どういうかたちで具体化できる執行条件をつくるかであり、参加者も皆口々に「皆さんのご意見を」といい、また「議論はこれから」とも強調されていました。

しかしいずれにしても、今後、「学校教育法第一条校」(一般の学校)だけでなく、フリースクールや外国人学校などで学んだ子どもたちも、これまでのように二重学籍でなく、正規の卒業扱いをする、ということになりそうです。ただ「フリースクール」であればどれであってもすべてOKということにはなりません。そこでフリースクールに関する基準をどうするか、はこれからの課題になります。

文科省の担当官も言っていましたが、「これからの作業」がまだまだ残っています、しかし一定のメヤスができつつあります。つまり、「多様な学びかた、多様な学校を前提として考えていこう」ということです。日本の学校教育の大きな転換のきっかけになることでしょう。

当日の簡単な報告、資料等はホームページにも掲載しております。

http://aejapan.org/wp/?p=474

ただこの法案に懸念を表現するグループもいてその発言もありましたが、私には大筋においてこの法案は歓迎されるものと思います。

私も札幌でのフリースクール運動の経験と札幌市のFS補助制度について短時間でしたが発言する機会をもつことができました。

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「桃太郎」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは河へ洗濯に行きました。」

お馴染みのこの出だしで始まる桃太郎のお話。どうでも良さそうな冒頭だが、今回はここに踏みとどまってゆっくりと考えてみたくなった。

おじいさんとおばあさんはご高齢でご近所づきあいもあったのかどうか定かではないが、この後、おむすびころりんの様に他のおじいさんが登場してくる様子もないので、おそらくは山奥で二人でひっそりと暮らしていたに違いない。自給自足に近い生活を高齢でありながら続けていたのだろうと想像すると、日々、何を生業にして、何を食べて、何を着て、どんな家に住んでいたのか、日々必要になるエネルギーをどのように得ていたのかと考え始めると、非常に心配である。子宝に恵まれず、老夫婦だけでの生活を余儀なくされている状態は、福祉が発達していない時代には、そう長くは生きられない過酷な状況を意味することでもあっただろう。

「おじいさんは山へ芝刈りに」とあるので、木こりの様に山の木を切り倒して太い薪を得るということではなく、落ちていた適当なサイズの枝を拾い集めて日々の煮炊きに利用していたのだろう。細い枝は容易に手に入るが、薪の様に火持ちは良くないので、その都度拾いにいかなければならない。日々の生活を自分の体力の範囲で何とか繋いでいるように思われる。また、この芝は唯一の収入源だったのかもしれない。

「おばあさんは河へ洗濯に」とある。当たり前だが、全自動洗濯機などは存在しない。私達の生活では洗濯に行くことがその日一日の仕事にはならず、仕事の合間に行う家事の一つだ。しかし、衣服を持って川まで出かけて洗って絞って乾かすということは、相当な重労働で、少なくとも半日はかかったであろう。私も人生の中で洗濯機を使うことができずに手で洗って手で絞ってしのいだ期間があったが、ジャージを手で洗って絞って乾かすのには3日もかかったものだった。

いずれにしても、この二文から、昔話ののどかな風景も想起されるが、ご高齢の二人暮しの老夫婦が、十分な備えもない状態で、日々何とか命をつないでいる厳しさも伝わってくる。だが一方で、自給自足の生活をする限りは日々の生活をして生きていくことそのものが仕事であり、高齢であっても常に自分の役割を果たし続けることはできるので、現代以上に生きている実感はあったかもしれない。現代のシルバー人材センターでの雇用や退職金、年金での生活とは大きく異なっているにちがいない。

おじいさんとおばあさんは、おそらくは相当な貧困の状況にあり、今日の命をつなぐのに精一杯な生活の中で、河から流れてきた桃を運命的に発見してしまう。そして何と自らの手で迷う様子もなく喜んで桃太郎を養育することとなる。

この、子育てにかかる負担はいかほどであっただろうか。桃から生まれてきた桃太郎とはいえ、子育ての時点では鬼を退治をするほどの英雄になることはまだ誰も予想できなかったはずだ。ひょっとしたら他に親がいるかもしれない。悪人の血を受け継いでいて、手に負えなくなるかもしれない。愛情をかけて育てても、受け取らずに自分たちから去って行ってしまうかもしれない。

お婆さんは当然、母乳が出る時期ではなかったであろう。いちいち乳母を探して頼むか、粥を布にしたして飲ませたのか、24時間体制で赤ん坊を育てることにはどれほどの苦労があったろうか。腕は腱鞘炎にならなかったのか。腰痛にはならなかったのか。赤ん坊を背負いながら河へ洗濯に行ったのだろうか。また、お爺さんは食料や水、家の修復や衣服、日々必要になるエネルギー資源をどのようにかき集めたのだろうか。特に、桃太郎にかかった食費は並大抵の出費ではなかったはずだ。

桃太郎が大きくなっても、鬼ヶ島に行く際に友達がいた訳ではなかったので、交友関係はそう深くはなかったと思われる。桃太郎の日々の教育は学校ではなく、自給自足に近い生活を行っていることその物で、老夫婦から生きる術を自然と学んでいったのだろう。とはいえ、子どもは子ども。手伝いとして戦力になるには時間が必要で、老夫婦は日々の仕事で忙しい中、桃太郎の教育にも時間的なコストがかかり、収入を削減させることにはなっただろう。

鬼退治の際には、胴当て、前垂れを身につけ、そして立派な刀まで持っている。どうやって手に入れたのだろうか。お爺さんが昔武士でなかったとすると、ここでも相当な出費があったと思われる。そして、最後にはお婆さんは、惜しげもなくきびだんごを桃太郎に渡す。ひょっとしたらこれで、桃太郎が帰らぬ人となるかもしれない。老夫婦は自分たちの生活のために残って欲しいとは懇願しなかったようで、桃太郎の夢を励まして見送っている。

この物語がすごいのは、実は桃太郎ではなく、自給自足の極限の生活をしていた老夫婦が、どのような子に育つか全くわからないのに、迷いなく信じて子育てを実践したことではないかと感じる。与えるだけ与えて、見返りさえ要求せず、育ちたいと思う方向に沿ってあげることができている。

桃太郎はそのような老夫婦の献身的な愛情に応えて、信じられないようなわずかな兵力で金銀財宝を持って帰ってくる。それは、最初から老夫婦が期待したことではなかっただろう。

フリースクールにも、時々どんぶらこどんぶらこと桃が流れてくる。その子たちがどんな子なのか私たちにはわからない。しかし、いつも、彼らには犬、キジ、猿といった個性的な仲間ができて、わずかな兵力でそれぞれの人生という名の鬼退治へ旅び立っていく。そして彼らは時々、土産話という金銀財宝を持ってフリースクールに帰ってくるのでした。めでたし、めでたし。

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反省の色は何色

高村さとみ

 みなさん、今年も半分が過ぎました。時の流れが早すぎて恐ろしいです...。今回は自戒の意味も込めて半年を過ぎての反省を書きたいと思います。

 私は常日頃から「相手を批判したくなったときは自分を省みる」ことを心に留めています。その心は。

 人はいろいろな理由で人を批判したくなります。「人の話を聞かなくて嫌い」「気が利かなくて嫌い」「愚痴ばかり言って嫌い」...例を出せばキリがありません。でもちょっと待って!と心の中でささやきます。ひょっとしてそれは「自分の許容範囲が狭い」のでは??嫌いな相手と同時に「人の話を聞かないことを許せない自分」「気が利かないことを許せない自分」「愚痴を許せない自分」が存在しているのです。相手を批判するときは同じくらい自分を批判する覚悟をもたなくてはならないと思います。

 とはいえ、こうしたことを心に留めていていつ何どきも人を批判することのない心の広い私、なわけがありません。自分を省みなくては...と思っていても相手を批判したい気持ちが止められない時もあります。省みることを忘れてしまうこともあります。ただし、そういう時のパターンはだいたい決まっていて、自分に余裕のない時なのです。やらなければいけないことが積み重なって時間の余裕がない時。(高村は複数のことを同時進行で処理することが苦手です。)別な件に気をとられて心に余裕のない時。そんな時には自分を省みる余裕もなく相手の批判に向かってしまいます。わかっていても中々コントロールの利かないところです。

 今年に入ってからも何度も相手を批判する気持ちが起こり、後からそれに自己嫌悪して...ということがありました。よくよく考えると批判したい物事そのものの前に、何かしらの余裕を奪う出来事が起きているのです。「○○で余裕がなかったからな」と思えるのは相手も自分も批判することがないので気持ちとしては楽でいいのですが、残り半年間はもう少し自分を省みることを心がけたいものです。

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カレー・マジック!

 フリースクール札幌自由が丘学園スタッフ

新藤理

 もう何年も前に、このスタッフエッセイ欄「いかに昔からカレーが好きだったか」という話を載せたことがある。ひさびさに読み返してみると、「新藤も5月からは30代。健康に気を遣い、カレーはめったなことでは口にしない決意を固めたのだ」なんてことが書いてあって、あきれてしまった。
 今でも週の半分以上はお昼にカレーを食べている。昼どきに二階に行くといつも濃厚なカレーの香りが漂っている、と学園では評判なのである。そのかぐわしい香りを「カレー臭」と呼ぶ輩があとを絶たないのが腑に落ちないところだ(言うまでもなく、「あきれてしまった」というのはカレー断ちをしようとした昔の自分に対してではない。当時の決意などどこ吹く風でカレーを愛し続けている自分に対して、である)。
 ほくほく顔で食べていると、生徒が「ひと口ちょうだーい」と寄ってくることがある。むむっ、我が命のこのひと皿、気軽に頂戴とは不届き千万...と思うのだが、なんてことはない100円のレトルトカレーである。鷹揚に「うむ、ひと口だけじゃぞ」と分けてあげることにしている。特製ガラムマサラでいつも激辛に仕上げてある私の(レトルトの)カレーは、知らずに食べれば口から火を吹く者もいる。にもかかわらず「今日もひと口!」とつかの間の激辛を求めるリピーターは少なくない。そういえば三月にフリースクールを旅立った卒業生も、「感謝のしるしに」とレトルトカレー(辛さ20倍)をプレゼントしてくれた。カレーは人と人とを結ぶ魔法の料理なのだ。

 カレー好き、そして辛いもの好きが昂じて、一年ほど前からプライベートで「激辛部」という部活(?)のメンバーとして活動している。ふだんは同じ楽団で活動している音楽仲間たちの中から、「辛いものが大好きだけど、他人と食事に行くと自分の嗜好に合わせてもらうことはできないから寂しい」というメンバーが名乗りをあげて結成した集団だ。定期的においしそうな各国料理のお店を探しては「できるだけ辛いものでコースつくってください」とオーダーしている。韓国料理やタイ料理や四川料理やメキシコ料理、そしてもちろんカレー。お店の方も迷惑するかと思いきや、むしろ「辛いものですね、まかせてください!」と乗り気になってくれる。
 そんなふうに熱い活動を続けている激辛部の仲間の一人が、この春札幌を離れることとなった。大学の研究員としてオーストラリアのブリスベンに派遣されるのだという。ひとまず一年限定の研究生活だけど、業績をあげればきっとさらに広く世界中へと羽ばたけるだろう。何かにつけ気の合う彼とのしばしの別れは、誇らしくも切なくもあった。
 旅立ちを間近に控え、すでに部屋を引き払ってしまったため最後の数日は研究室で寝泊まりするという彼を、半ば強引に二晩我が家に泊めた。おもてなしには、心を込めた我が手作りのスープカレー。もしかしたらもう札幌で暮らすことはないかもしれない親友に、札幌の味を忘れずにいてほしいという気持ちから選んだメニューだった。
 寸胴鍋に満杯こしらえたスープカレー、手前味噌ながらしみじみとおいしかった。不思議と辛さは感じなかった。カレーを肴に、大いに飲んで語った二日間。思い残すことはありません、と言ってくれた彼を見送ったあとも、部屋にはスパイスの香りが残る。
 
カレーにまつわる思い出がこうしてまた増えた。人と人とを結ぶ魔法の料理。わりとまじめに、私はカレーに人生を支えてもらっている。ちょっと食べ過ぎかもしれないけど。

 この春自由が丘にやってきた小林さんも、近所に大好きなカレー屋さんをひとつ持っているという。札幌のフリースクール界隈にも、何人かの激辛好きがいる。オルタナティブ教育界の激辛部、結成しちゃおうかな。

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自転車チャリけった

安齊裕香

雪解けが早い今年は、3月末から春のにおいがぷんぷんしました。

卒業生を出した3月は慌ただしく過ぎ、新入生を迎えるこの4月は慌ただしく過ぎていて、なんだかいつも慌ただしいのです。何度も何度も書きますが、生徒が春休みや夏休みだからって職員は休みではないのです。休みに入るたびに聞かれます。休みではありません。

この時期は誰が担任になるんだろう・・・なーんて考えている在校生もいるでしょうね。楽しみですね。入学式が。あと1週間で解明されます。

さて、雪解けの後は、自転車通学が多くなります。私達職員も自転車通勤が始まります。もうしています。もう少し暖かくなると気持ちいいんですよね。風を感じるのが。

そんな自転車にも多々思い出があります。小さい頃に兄を追っかけて転び、気絶して病院送りになった思い出があります。近所の人が見つけてくれたらしいです。ありがたい。

そしてありがたいことに、今の私の自転車は結婚祝いにお友だちがみんなで買ってくれました。仕事帰りに買い物にも寄れるかごが大きめのママチャリです。優れモノです。

小学生の頃はマウンテンバイクに乗っていました。使いこなせませんでした。

だから今、通勤にも買い物にも役に立っているママチャリには大満足です。

大事に使います。

私は自転車をチャリと言っています。大学生の時に地方の友だちが『けった』と言っていました。何のことだかわかりませんでしたが、方言だったんですね。まぁ、けったと言うのは私には浸透しませんでしたが。

セイコーマートはセコマです。マクドナルドはマックです。

同じ日本人なのに使っている言葉が違うのは不思議ですね。そして知らない言葉もたくさんあります。日本人なのに。なぜだ。不思議を考えると全部不思議になってしまいます。

でも夜はぐっすり眠れます。

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人のサイズ

田房絢子

人の髪の毛はどこまでも伸びるのに、眉毛やまつげに限界点があるのは

なぜでしょう。爪だってどこまでも伸びるのに、腕や足に生えている毛が

どこまでも伸びないのはなぜでしょう。

背だって、おいしいものや栄養のあるものをたくさん食べて育ったにも関わらず、

私は小さいままです。中学生から背が変わっていません。限界点です。

悲しいことに、小学校5年生の姪にすでに抜かされそうです。

人のサイズというものはおそらく決まっているのでしょう。

その後私となる、命というものが母のお腹に宿ったときから、

なにかしらの定規がすでに用意されていたのかもしれません。

このサイズを忌々しいと思ったことも多々ありますが、

やっぱりこれは何かしらの啓示なのかもしれません。

生を受けたからには、やはりそこには意味があるのです。

小さいサイズに囚われず、大きな心を持つ人間になりなさいとの意味があるかもしれません。

低い背に囚われず、高きゴールを目指しなさいとの啓示なのかもしれません。

と、いろいろ考えてみるのですが、考えたところで私の背は伸びません。

後はどうにかして横罫を短くするしかなさそうです。

横罫は努力でどうにかなります。

でも、縦罫には限界点があるのに、

横罫は無限だというのは理不尽ですね。

これもまた生を受けた者への何かしらの啓示なのでしょうか。

と、いろいろ考えてみるのですが、考えたところで体重は減りません。

努力あるのみですね。

さて、新しい一年が始まろうとしています。

来年また同じことを言っていないように、心機一転。

何個か目標を立て直したいと思います。みなさんはいかがですか??

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ヤンキーA君とにんじんゼリー

フリースクール札幌自由が丘学園 スタッフ

新藤 理

 久しく食べていないけど時々懐かしくなる食べ物の一つに、にんじんゼリーというデザートがある。原料はにんじんだけど、色も味もオレンジゼリーに似ていておいしい。久しく食べていないのは、なぜか学校給食でしかお目にかからないメニューだからだ。

 中学3年生のとき、教室の壁に貼ってあった「給食だより」の中でにんじんゼリーの作り方が紹介されていた。休み時間にぼんやりとそれを眺めていると、いつの間にか隣にA君が立っていた。Yシャツのボタン全開で、校則違反の茶髪リーゼントをふわふわさせて。
 今よりずっとマジメで気弱だった中3新藤は、普段ほとんど言葉を交わすことのないヤンキーA君の不意の登場に、大いにびびった(余談だが「びびる」というのは「驚く」「焦る」「萎縮する」「恐怖を感じる」といったニュアンスがぎゅっと凝縮された、実に便利な単語だと思う。正式な日本語になる日もきっと遠くはない)。びびって、不自然なほどに全身をビクッとのけぞらせてしまった。A君は「んだよ、そんなびびんなや!」といつもの調子で言う。僕があいまいな表情で(内心おびえながら)黙っていると、A君も黙ってしまった。
 「...うまそうだよな、これ」
 先に口を開いたのはA君だった。
 「え!? あ、ん、うん」
 「なんか、こういうのさ、自分で作れたらよくねえ?」
 「ん、うん、そう...だね...」
 その後もしばらく二人で黙って給食だよりを眺めていたが、やがてA君はフラリとどこかへ行ってしまった。たまり場の男子トイレに向かったのかもしれない。
 いろいろな思いにとらわれて、私は給食だよりの前から動くことができなかった。

 何とも取るに足らない光景だ。おそらくA君は覚えていないだろう。でも、気のせいかもしれないが、A君はあのときなぜか少し寂しげで、そのことが私は今でも忘れられない。

 ヤンキーにはヤンキーの、マジメ君にはマジメ君の、校内での「決められた立ち振る舞い」というものがある。もちろん生徒手帳にはそんなことは書いていないけど、それは校則以上に中学生たちの言動を規制する、不思議な呪縛力を帯びたものだ。あるいは鎧(よろい)のようなものと言ってもいいかもしれない。ヤンキーはいつも威勢よく、周囲を見下ろしながら在らねばならない。マジメ君はヤンキーたちの気に障るような言動を取らないことを前提に、同士たちとともに平和な盛り上がりを模索しなければならない。暴走族の活動が今よりはまだ盛んだった当時、そうした棲み分け・色分けは傍目にもわかりやすいものだった。
 「うまそうだよな、これ」と言ったA君の表情とトーンは、しかし、ヤンキーのそれではなかった。なぜそんな無防備なひと言をポツリとマジメ新藤に向かってつぶやいたのか、今でもよくわからない。にんじんゼリーがそんなにもおいしそうだったのか。ただ、あのときのA君が「決められた立ち振る舞い」から逸脱していたことは確かだ。まっさらなA君の姿、ヤンキーの鎧をはずしたA君の姿を、私は見たのだ。
 あの日以来、A君と新藤は何でも話せる仲になり...なんて美談では、ない。その後の新藤は受験勉強に追われて日に日に眉間のシワを深くしていくばかりだったし、A君は相変わらずの茶髪リーゼントだった。でも、だからこそ今でも思い出し、そしてちょっとだけ悔やんでしまう。あのとき、あからさまにびびってしまったこと、そして「うん、おいしそうだよね、ゼリー好きなの?」くらいの返事すらできなかったことを。

 マジメの鎧。ヤンキーの鎧。サラリーマンの、教師の、保護者の鎧。子ども大人も、人はさまざまな鎧で身を守って生きている。でも、24時間装着していると、気づかないうちに全身がバキバキになる。
 自由が丘の生徒たちが、あのときのA君のように、少しでも鎧を軽くして過ごしていてくれれば、と思う。そして、同じく鎧をはずした仲間に「いっしょにゼリー作って食べよう」と語りかけられる仲になってくれたら、なお嬉しい。

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「踵が上がる自由度」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

スキーというものは、斜面を滑るための道具だ。
「スキー」というと、ゲレンデでリフトを使って登り、斜面を滑ることを楽しむ、「ゲレンデスキー」と呼ばれるスキーを一般的には思い出すだろう。
ゴンドラや高速で登る4人乗りのリフトや等、私が小さい時には考えられなかったような素晴らしい施設が各スキー場には整えられている。子どもたちや大人が週末などを利用して、時間を忘れて楽しく過ごしている。
しかし、案外、そうでない様子も一方では見られる。週末にスキーをしにスキー場に来た家族が、スキー場の駐車場に到着するや、親は子どもたちに呆れたり、疲れたりした様子で、子どもたちを叱りつけている光景を、なぜか目にすることが多い。おそらくは、子どもたちがスキーに行くための準備を自分たちでしようとしなかったりしたこと等が原因だったのだろうか。
せっかくの週末を家族で楽しくスキーに来ているのに、残念なことだと思う。自分が子どもの頃にスキー場に親と行けるということは滅多にない、非常に贅沢なことだった。子どもたちも前向きにスキーに取り組もうとしてもおかしくはないはずだ。そして、親自身も、もっとスキーに来たことを楽しみにしていていいのではないだろうか。

私自身がスキーの乗り始めたのは、小学校に入る頃だった。
今から約40年ほど前の道具で、家も裕福ではなかったので、今のスキーとは比較にならない粗末なスキーを使っていた。
滑走面は、完全に木だった。ワックスだなんて洒落た物はないので、ロウソクを必ず塗ってから滑った。毎回塗らないと、雪が滑走面にこびりついて滑ることができなくなったものだった。
スキー靴も使わなかった。長靴を履いたまま、前半分を皮でできたベルトに差し込んで、もう一方のベルトを靴の踵側に回して締め付けていた。踵は固定されず、浮き上がるようになっていた。
ストックは確か、竹でできていた。2本揃う時もあれば、兄が使っている時は本数が足りなくて1本のストックを両手で持って、それで特に不自由も感じずに使いこなしていたように思う。
子どもの頃、スキーの役割は、斜面を滑ることよりも、主に平地の移動だった。
自転車が使えない冬場は、子どもは行動範囲が狭くなるが、スキーを使うと、楽しみながら、より遠くに行けるようになったので、子どもにとっては貴重な移動手段だった。
自分の家からスキーで出発して、仲間が集まっている斜面まで行き、斜面を滑って遊ぶ。リフトなんてないし、圧雪もされていないから、新雪の斜面を滑ったら階段登降で圧雪し、自分たちで徐々にゲレンデを広げていき、また滑る。徐々にスキー場ができていくので、徐々に仲間も増える。スキーに飽きたら、すぐにスキーを脱いで長靴のまま遊べた。尻滑りや柔らかい雪の上での空中回転など、スキーを中心とした雪まみれになる遊びを、子どもの頃に思う存分に楽しむことができていた。時間を忘れて、暗くなるまでたっぷり遊んだものだった。

私が中学に上がる頃にはスキー場もかなり整備され、各家庭が車を所有するようになっていた。
スキーの道具も目覚ましく進化して、ワンタッチで踵も着脱できる金具流れ止め、足首をしっかり固定できる現在のスキー靴と同様の物が登場して、どれも画期的だった。それまで滑ることが難しかった急斜面などもスムーズに滑ることができるようになった。私もそんなゲレンデスキーの素晴らしさに夢中になった者の一人である。そのせいか、私の世代の子どもたちはスキーの滑走技術を身につけることには非常に貪欲で、パラレルやウェーデルンができるようになることは、友達との間で大きな勲章だった。家は貧しかったが、他の物を買わなくてもいいから、性能のいいスキーだけは何とかして購入してもらおうと親に懇願していた。
ところが、私の息子と娘などは、上手に滑るようになりたいとはほとんど思わず、楽しんで滑ることができればいいと割り切っている。何度も滑り方を直して、上手に滑ることができようにアドバイスしてやりたかったが、息子たちは本当に関心がなかったようだ。スキーに対する思い入れは自分の時代とは異なっているのだろうか。

私が子どもの頃は苦労して苦労して近くの斜面まで踵の上がるスキーを使って移動して自分で圧雪してスキーを楽しんでいた。
しかし、文化の発展と共に、車で移動して、リフトを使ってより高い山に登って、より発達した道具で急斜面を滑ることができるようになった。
今考えると、自分達の世代は、文化の発展とリンクしながら自分の成長も感じることができた、これはこれで非常に恵まれた世代だったのだろう。
私は結局、ゲレンデスキーでは飽き足りず、再び踵の上がるクロスカントリースキーに没頭するようになり、47歳になった今日でも童心に帰って毎週スキーで外遊びを楽しんでいる。今年の2月に行われた湧別原野85kmスキーマラソンにも出場して4時間台でゴールすることができた。人生は全て学びで、生きている限り成長し続けることを改めて実感した。これらは用具の進化と共に自分の成長を噛み締められたことも影響しているかもしれない。

今の子どもたちも、本当は、自分の手の届く範囲で、自分のやりとげられる範囲の中で達成感や冒険心を高めながら自分のペースで成長していきたいのだろうと思う。しかし、可哀想なことに、現代社会で道路でスキーに乗ることは、間違いなく咎められてしまうことだ。また、通常の靴で履けて、踵が上がる自由度の高いスキーは一般的には存在しない。つまり、多くの場合、スキーは、スキー場でしかできなくなってしまったのだ。また、近所の坂で遊んだとしても、スキーを脱げば足首が固定されてしまっているので、まともに歩行することもできない。だから、大人が用意した自家用車で連れて行ってもらえない限り、子どもたちはスキーを楽しむことができないのだ。自分がスキーで遊びたいと思った時にはできず、週末なって今日はスキーに行きたくないと感じても、親との約束は守らねばならない。秩序のあるスキー場では尻滑りも空中回転もできない。型にはまった遊び方はできても、子どもが本当にしたいと思っている「雪にまみれた遊び」はなかなか実現していかないのだ。そのような中で、大人が想像するスキーと、子どもが経験してきたスキーとではズレが生じているように思えるのだ。

私たちから考えて、たくさんの「良い」と思われる条件を整えたレールを子どもの前に敷く。
子どもたちは喜んで、主体的にこのレールに乗っている場合もある。
しかし、ここはいつも噛み合っているとは限らない。
このレールと、子どもの本来の歩みにズレが生じることがある。

若者にはレールがなければ指針を見失うので、道を見失うことがある。
しかし、指針が形骸化して義務的になれば、今度は歩みの自由度を失う。
学習には動機づけが必要だが、義務感が動機づけとして先行する学びとは何なのだろう。
現在の学校教育がその端的な例である。
学習指導要領は学びを進める上で指針として重要だ。だから、方法を示すためのもので「要領」と読んでいる。しかし、法的に拘束力を持たせた時点で、子どもの心からは遊離してしまった。
優れた方法で指導するための子どもには秘密の虎の巻だったのに、拘束力を持たせることで、教育内容や子どもを枠にあてはめて身動きが取れない状況をつくってしまっている。踵が上がることをゆるさなくなってしまったために、制限のある、自由度が低い活動しかできなくなっているのだ。

秩序が多く、何事にも制約が多くなってしまった現代に、もう一度踵の上がるスキーを復活させることは非常に難しいことである。しかし、こんな話を書いている内に、何だかこの金具が欲しくなってきた。
「カンダハー」と呼ばれていたこの締め付け具、まだ通信販売などで売っている。
このスキーで自宅の江別から札幌までの冬の通勤を毎日通うことができれば、巷で話題になり、道路交通法も見直され、ひょっとしたら北海道の冬の市民の脚として浸透する時代がくるかもしれない。

よし。来年のフリースクールのスキーの授業は、「カンダハー」で通学することからはじめよう!(本当か?)

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 ↑「カンダハー」と呼ばれていた締め付け具。

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