2015年が終わる

                  NPO法人フリースクール札幌自由が丘学園 理事長

                         札幌自由が丘学園三和高等学校 校長   亀貝 一義

今日12月28日(月)、一般に言う「御用納め」。

誰もがいう「月日の経つのは早い」ことを実感する年末。今年はよく言われました、「戦後70年」と。

札幌自由が丘学園で言えば、フリースクールが1993年、高校が2009年のスタートだったから、いわゆる区切りの年ではなかったのですが、二つとも着実に年月を重ねてきていることは実感しています。

個人的な思い出ですが、1990年に「北の大地に自由と共同の学校」を築くべく決意して30年間勤めた高校を退職しました。この夢は多くの人たちの参加と協力で着実に広がり実を結んできています。これが「札幌自由が丘学園」です。来年2016年(平成28年)、この年を私たちはどう展望するか、と問われると、フリースクールも三和高校もこれまでつくり上げてきた誰もが納得できる学校の意義をいっそう明確に、そして社会的にも大きな実績を示していきたいと答えます。

全国的にも私たちと軌を一にする人たちと協力共同を築くことができつつあります。そういう積み上げが、今国会で議論されだした「義務教育の段階に相当する普通教育の多様な機会の確保に関する法案」(教育の多様な機会確保法案)です。

少なくとも小中学校段階で、一般の学校になじめない子どもたちの居場所・学びの場であるフリースクールを「公」(国、自治体、教育委員会など)が教育の場として認定しようという動きになっています。私たちの求めてきたものと同じでないにしても、不登校とフリースクールが全くノーサポート状態であったことを考えると大きな一歩になることは間違いありません。この法案では、この施策を実施するために財政上の措置を講ずるよう努める、とうたっています。しかしこの措置は法律制定後3年以内なのでちょっと先ですが、ある光は見えてきました。

三和高校への注目と認識も広がってきています。日本最北にしっかりと信頼を確保している通信制高校の役割はますます拡大しています。

来年2016年はこの二つの意義をさらにはっきりと輝かせる年にしていきたいと思う年末です。

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「多様な教育機会確保法」の成立を期待したい

- 不登校の子どもたちの多様な学びを認めフリースクールへの公的支援体制を-

NPO法人フリースクール札幌自由が丘学園理事長 亀貝一義

先の通常国会で成立を期待されていたのですが、審議未了になりました。次の国会(臨時国会?)で可決成立が見込まれています。

これは「義務教育の段階に相当する普通教育の多様な機会の確保に関する法律(案)」というのが正式名称です。

これについて、私は10年間以上前から(1997年に札幌自由が丘が全道的に推進した署名運動が最初)「フリースクールで学ぶ多くの子どもたちの学び方を公認し、同時にこの学びをサポートしているフリースクールへの公的支援体制を確立すべき」と要求してきましたから、その経緯から言って、できるだけ早く成立されるように要望し期待しています。

国会では、フリースクールネットワークなどによって、超党派のフリースクール議員連盟が2008年に結成されて上記の趣旨を制度化するように取り組んできました。

この確保法案は、12万人にのぼる不登校の小中生のために、国と地方自治体の責任(地方教育委員会)で、学校以外の学び、居場所を確保しようという趣旨です。教育委員会などがこの方法を検討する際に、今不登校の子どもたちをサポートしている「民間の団体その他の関係者の相互の密接な連携の下に行われるようにすること」(第2条)という前提をもっています。

10月27日、文科省は昨年のいじめ件数が19万件、過去最多と発表しました。学校に行けない、行かない子どもたちはますます増えていくでしょう。この子どもたちにとって必要な居場所、学びの場としてのフリースクールの意味はさらに大きくなっていきます。

私は、明治以来の学校教育のしくみをもっと柔軟にすること、つまり公教育の微調整が必要と訴えてきました。すなわち「多様な学びの場、多様な教育機会」が準備されて当然ということです。この法案は、そのためにプラスになるものだと思います。

教育委員会が不登校の子どもの保護者に対する助言など、ある種の介入の面が生まれるかも知れません。そういう批判もあるようです。

しかしこれも例えば営利目的の「業者」の参入を抑えるという意味もあると思います。

法案の趣旨として「子どもの権利条約」の理念をうたっています。

私はこの法案はこれまでの私たちの取り組みの成果の面が大きいと思っています。

法案が成立してから、現実対応を具体化するために行政機関はフリースクールなどと緊密な連携を行うことも行っています。

今ある問題を一歩でも二歩でも改善できるようなしくみを考え、そのために可能な方策を考えていこうというこの法案に賛同するものです。

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ご自由にお読み下さい

高村さとみ

フリースクールは果たしてどうあるべきか。プログラムはある方が良いか。ない方が良いか。先日、双方の視点からの意見を聞く機会がありました。あまり詳しく書くことはできないのですが、「完全に自由、好きなことをやっていいと言われても困る」という意見がおもしろかったです。

えー。好きなゲームでもして、音楽聴いて。絵を描いたり料理したり、私だったらやりたいことがたくさんあるけどなぁ。などと私は思ったりするのですが、どうやらそういうわけにもいかないそうです。「やることをやった上での自由時間だから楽しめる」とも言っていました。なるほど。私も毎日毎時間毎分毎秒を好きにしていいといわれたら、今ほど自由時間を楽しめないのかもしれません。特別な楽しみである自由時間が日常化平凡化してしまうというか。でも自由時間もっと欲しい。

フリースクールでは「創造活動」という時間が週に2回あります。これは何をするかを自分で決める、という時間です。これまでには卓球、ギター、ねこ研究会やコント研究会などバラエティに富んだ活動がされてきました。しかし、確かに子どもたちが楽しみにしている時間ではあるのですが、「やりたいことがない」「何をしていいかわからない」という声もちらほらと出るようになりました。自分のやりたいことが特にないので他の子に合わせる、という子もいます。

今年、ある研究大会でキャンプ事業を行っている団体のお話を聞きました。もう20数年夏休みキャンプを企画していて、キャンプのスケジュールが数例資料に載っていました。それがとても極端なのです。昔のキャンプは分刻みのスケジュールです。○時○分にキャンプ場に到着→○時○分に荷物を置く→○時○分にテント設営の仕方を説明...等々。内容も子ども通貨を発行して、テントや料理の材料を競り方式で購入させるなど、とても凝っていました。しかし今年予定しているプログラムを見てみると、○時キャンプ場到着→自由時間、以上。とてもシンプルというかそれ以上に何もないというか。その団体の方のお話によると、「こんなプログラムをしたい」「あんな経験をさせたい」というのは全て大人のエゴなのではないかと思うようになったそうです。子どもはこちらが何も意図しなくても勝手に動き、勝手に学ぶのだと。テントを張る時間も料理のやり方も、子どもたちがそれぞれ考え話し合って決めればいい。信じていれば子どもは力を発揮する。とのことでした。なるほどと思ったのはそんなフリーダムな中に「キャンプ図書館」なるものが設置されているところ。テーブルに「サバイバル術」「野草図鑑」等々の本が並べてあるのです。全くのゼロの状態から発想していくのは難しいので、知りたいことを調べられるようにしているのだそうです。

自由に過ごすためには、その前段階の学びがいるのかもしれません。ちょっとお堅いかな。先ほど私が自由時間にしたいと書いたゲーム、音楽、絵、料理も「自分のやりたいことであると学ぶ」経験が過去のいつかにあったはず。恐らくプログラムのあるフリースクールは興味を持つものも持たないものもあるけれど、いろいろな経験をする中で自分のやりたいことを見つけ出す。プログラムのないフリースクールは何もしなくとも安心していられる空間の中で、人と関わりながら自身に向き合いながら自分のやりたいことを見つけ出す。

そう考えるとプログラムがあろうとなかろうと結局は同じところに行き着いているのかもしれません。

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本校の町「和寒町」が開村100周年を迎えた

札幌自由が丘学園三和高等学校校長 亀貝一義

三和高校の本校のある町、そして認可権をもつ和寒町が「開村」して100周年を迎えた。
この7月29日、同町開村100周年の記念行事があり、高校を代表してこの行事に参加し、お祝いの集いにも参加する機会を得た。
和寒に関係するたくさんの人たちの中には、札幌自由が丘学園三和高校と縁のある人も少なくなかった。スクーリングでお世話になるかたがた、役場や教育委員会のかたがた。お礼と挨拶を交わしながらこれからもまたよろしくとお願いと、語り合うことができた。そして和寒町では、「三和高校を応援する会」(三和校後援会)を企画してくれているとのこと。

和寒町の今の人口は4千人を切っている。ところで、資料によると開村した1915(大正4)年当時には7,700余人を数えていた。隣村の剣淵村からの独立だった。

90年前、開村10周年の記念式典(1925(大正14)年)の時、和寒村の人口は8,800余人で今の2倍を超えていた。特に除虫菊は蚊取り線香の原料であるが、和寒はこの重要な産地の役割を果たしていた。私が子どもの頃、この菊の白い花が畑一面に咲き誇っていたことを思い出す。

今、日本全体で人口減が進む。中央も地方も「再生」とか「人口増」を目標とした政策をもっているが、効果はいずれも芳しくない。どうしたらいいのか。

単純なことは、子どもを産めば産めばほど暮らしがよくなるようにすればいいのだ。子ども一人当たりの「手当」を、大人一人の初任給程度まで増やす。そういう政策はなくただ「少子化対策担当大臣」などをおいても「一人の大臣」ポストを用意してあるだけの話だ。

和寒村開村100周年記念行事に参加して気になったことである。

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やめないよ

フリースクール札幌自由が丘学園

スタッフ 新藤理

 演奏が終わった。kitaraの天井から降る明かりはいつもまぶしい。そして、熱い。照明ひとつにつき電子レンジ一台分の熱を放つと聞いたこともあるから、相当なものなのだろう。夏場はいつも、吹奏楽コンクールに出場してこの熱さを味わっている。

 中学生のときに始めたトロンボーンをいまだに吹いている。初めて出会ってから、なんだかんだでもう四半世紀になるのだから驚いてしまう。中・高・大、そして社会人になってもしぶとく吹き続けているうちに、トロンボーンの演奏は自分の名刺代わりのようなものになっていた。聞く人によって好みは分かれるだろうけど、とにかくそこには自分の個性が詰まっている...そんな音を出せている気がしていた。つい数年前までは。
 実は今、まったくもってそんな楽しい音は出せなくなってしまった。所属していた吹奏楽団で8年ほどトロンボーンの席から離れて指揮台に上がっていた、その影響もあるとは思う。金管楽器の奏者にとって、ブランクは容赦ない障壁だ。でも、それにしたって、この2年ほどは自分も周りもびっくりするくらい、劇的に腕が落ちている。練習が終わるたびにため息をついて楽器を片づける私の姿は、端から見ればずいぶんと老け込んでいることだろう。
 2014年の2月にそれまでずっと続けてきた指揮の活動にピリオドを打ち、トロンボーン吹きに戻った。理由は書き出せばきりがないし、いくら書いたって全然うまく言い表せない気もする。ともあれ、指揮の活動を支えてくれた仲間たちには感謝しかない。でも、正直なところ、指揮者をやめるときにいっそ音楽活動自体もやめてしまおうかと思ったりもした。我ながらわかりやすい「燃え尽き症候群」だ。実際、2月の定期演奏会を終えて、次に練習所に顔を出したのは6月に入ってからだったと思う。つまり、うだうだしたけれど、やめなかった。

 2月の定期演奏会にはたくさんの学園関係者が足を運んでくれていた。とくに現役の生徒たちは、kitaraの大ホールで燕尾服を着て指揮棒を振る私の姿に大いに面食らったことだろう。普段のしまりのない新藤とは何かが違う。週が明けて日常の学園生活が戻ってきても、生徒たちはあれやこれやと感想を口にしてくれた。一人の男の子が「ねえ、あれ来年もまたやるんですよね!?」とうれしそうに聞いてくる。「いやあ、実はもうやめよっかなーと思っててさ」とは、言えなかった。
 
「そう、また来年の2月! 今度は指揮じゃなくてトロンボーンだけどね。次も来てくれな!」
 
ああー、またそうやって軽い約束を。でも、思えば結局この会話がずっと心に引っかかって、それで辞める決心がつかなかったフシはたしかにある。あの舞台の上で、どんなにヘタでもスランプでも、精いっぱい演奏する自分の姿をやっぱり生徒たちには見てほしいのだ。あれ、思ったより大したことないなあ、と思われてもいい。あきらめずに熱中できる何かを持つということを、形にして見せたいのだ。その後もことあるごとに「またコンサートあるんですよね!?」と念を押すように聞く彼の声に背中を押され、調子はまるで上がらないままに、それでもトロンボーンを手放すことはなかった。

 2015年2月。指揮台を降りてから一年。トロンボーン奏者として定期演奏会の舞台に立つ日が近づいてきた。
真っ先に彼に知らせた。
 「S介、今年の演奏会、もうすぐだよ!」
 
「......うわー、モンハンフェス(彼が大好きなゲームのイベント)とかぶってる!!」
 
...え?
 
「ほんっとごめん、今年は行けません」

 がちょーーーーん。

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フリースクールのつくりかた

高村さとみ

 2年前に漂流教室の相馬さんが「フリースクールのスターターキットをつくりたい」と話していたことがある。先日、苫小牧フリースクール検討委員会が主催する「不登校について語りませんか」に参加して、いろんな参加者の声を聞くうちにスターターキットのあるべき姿が浮かんできたので、今回はその話を。

 苫小牧フリースクール検討委員会は、若者支援を仕事にしている人、不登校の元当事者や保護者が集い、苫小牧にもフリースクールをつくれないかと1年程前から話し合いを重ねている。苫小牧には市が運営する適応指導教室はあるもののフリースクールや親の会はない。適応指導教室が合わなくて...という子どもの選択肢のためにはやはりフリースクールはあった方が良いとは思う。実は最近、苫小牧だけでなく道内の数地域からも「フリースクールをつくりたい」という声があがっているのだ。

 しかしいざフリースクールをつくりたいと思っても、リスクの方が先に頭に浮かぶ。利用者は本当に来るのか。家賃や人件費をどう工面するのか。特に経済的なリスクは大きい。今現在フリースクールを運営している団体でも、経済的余裕のあるところなどないのだから。また、不登校といっても適応指導教室やフリースクールを利用していない子どもの方が圧倒的に多い。どのようなプログラムや形態が不登校の子どもにとって利用しやすいかなんてわからないのだ。強いていえばいろいろなプログラム・形態のフリースクールがあればあるほど子どもの選択肢が増えて良い。

 結論から言うとフリースクールのスターターキットはつくれない。運営がまわるような計画をつくるには家賃がいらない・人件費を削るなどの「特別条件」が必要であって、どこでも誰でも当てはまるようなキットとはいかないのだ。フリースクールをつくるには上記のリスクを超えるぐらいの思い切りが必要なのである。

 しかし、親の会であればどうか。というのが今回の苫小牧で見えてきたことである。親の会は、不登校の子どもを持つ保護者、保護者OBOG、不登校について話したい人等々がいれば成り立つ。場所は誰かの自宅でもいいし、月に一度どこかのカフェに集まってもいい。親が楽しそうにしていると、子どもが一緒についてくるときがあるかもしれない。焼肉やカラオケなんかの子どもが好きそうなプログラムを入れたっていい。定期的に行えば、子どもも親の会の時間が楽しみになるかもしれない。そこで友人を見つけるかもしれない。これはもう「フリースクール」といえるものである。ある程度の人数が集まり、子どもからの要望があれば会の回数を増やし、プログラムを考え...と発展させていける。実際にこのようにやっている親の会はあるのだ。このような考えを元に親の会のスターターキットをつくるとしたら...

・賛同する人が2人以上いる
・定期的な開催
・場所は自宅やカフェ、市民会館などを利用
・(大人にとっても)楽しいことをする

 こんなところだろうか。欲をいえば場所に関してはもっと地域の協力者がいてもよいと思う。店や施設で、使っていない時間帯に場所を無料で貸してくれるところ。例えば土日休みの福祉施設。例えば夜だけお客さんが入るごはん屋。そんなところが協力してくれるとよい。フリースクールをメインでやっていくのは難しいが、何かの片手間に子どもや親が集まれる場所をつくる、そんなところは地域に増えていってほしいところだ。

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「多様な学び保障法」を実現するための集会に参加して

亀貝 一義

6月16日(火)16時から16時45分まで、衆議院議員会館で、「多様な教育機会確保法(仮称)制定を目指すフリースクール等院内集会」が開催され、定員いっぱいの200名を超える参加者(「北海道から九州まで」)、16名の国会議員(顧問の河村建夫、座長の馳浩のお二人を含め)も来場されました。大きな盛り上がりだったと言えます。

私はNPO法人フリースクール札幌自由が丘学園の理事長の立場で、この会の趣旨である「多様な学び保障法案(仮称」の立法化促進を求める視点で参加しました。

法案の趣旨について、座長の馳議員は次のように発言しています。

「議員立法で、学習支援計画、理念的なもの、多様な教育を確保するための根拠法をまずは今国会で成立、来年の国会で文部科学省より各法として学校教育法を書き換え、経済的な支援に具体的に踏み込んでもらう」。

議員立法で想定されるものはあくまでも基本線だから、問題は成立以降どういうかたちで具体化できる執行条件をつくるかであり、参加者も皆口々に「皆さんのご意見を」といい、また「議論はこれから」とも強調されていました。

しかしいずれにしても、今後、「学校教育法第一条校」(一般の学校)だけでなく、フリースクールや外国人学校などで学んだ子どもたちも、これまでのように二重学籍でなく、正規の卒業扱いをする、ということになりそうです。ただ「フリースクール」であればどれであってもすべてOKということにはなりません。そこでフリースクールに関する基準をどうするか、はこれからの課題になります。

文科省の担当官も言っていましたが、「これからの作業」がまだまだ残っています、しかし一定のメヤスができつつあります。つまり、「多様な学びかた、多様な学校を前提として考えていこう」ということです。日本の学校教育の大きな転換のきっかけになることでしょう。

当日の簡単な報告、資料等はホームページにも掲載しております。

http://aejapan.org/wp/?p=474

ただこの法案に懸念を表現するグループもいてその発言もありましたが、私には大筋においてこの法案は歓迎されるものと思います。

私も札幌でのフリースクール運動の経験と札幌市のFS補助制度について短時間でしたが発言する機会をもつことができました。

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「桃太郎」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは河へ洗濯に行きました。」

お馴染みのこの出だしで始まる桃太郎のお話。どうでも良さそうな冒頭だが、今回はここに踏みとどまってゆっくりと考えてみたくなった。

おじいさんとおばあさんはご高齢でご近所づきあいもあったのかどうか定かではないが、この後、おむすびころりんの様に他のおじいさんが登場してくる様子もないので、おそらくは山奥で二人でひっそりと暮らしていたに違いない。自給自足に近い生活を高齢でありながら続けていたのだろうと想像すると、日々、何を生業にして、何を食べて、何を着て、どんな家に住んでいたのか、日々必要になるエネルギーをどのように得ていたのかと考え始めると、非常に心配である。子宝に恵まれず、老夫婦だけでの生活を余儀なくされている状態は、福祉が発達していない時代には、そう長くは生きられない過酷な状況を意味することでもあっただろう。

「おじいさんは山へ芝刈りに」とあるので、木こりの様に山の木を切り倒して太い薪を得るということではなく、落ちていた適当なサイズの枝を拾い集めて日々の煮炊きに利用していたのだろう。細い枝は容易に手に入るが、薪の様に火持ちは良くないので、その都度拾いにいかなければならない。日々の生活を自分の体力の範囲で何とか繋いでいるように思われる。また、この芝は唯一の収入源だったのかもしれない。

「おばあさんは河へ洗濯に」とある。当たり前だが、全自動洗濯機などは存在しない。私達の生活では洗濯に行くことがその日一日の仕事にはならず、仕事の合間に行う家事の一つだ。しかし、衣服を持って川まで出かけて洗って絞って乾かすということは、相当な重労働で、少なくとも半日はかかったであろう。私も人生の中で洗濯機を使うことができずに手で洗って手で絞ってしのいだ期間があったが、ジャージを手で洗って絞って乾かすのには3日もかかったものだった。

いずれにしても、この二文から、昔話ののどかな風景も想起されるが、ご高齢の二人暮しの老夫婦が、十分な備えもない状態で、日々何とか命をつないでいる厳しさも伝わってくる。だが一方で、自給自足の生活をする限りは日々の生活をして生きていくことそのものが仕事であり、高齢であっても常に自分の役割を果たし続けることはできるので、現代以上に生きている実感はあったかもしれない。現代のシルバー人材センターでの雇用や退職金、年金での生活とは大きく異なっているにちがいない。

おじいさんとおばあさんは、おそらくは相当な貧困の状況にあり、今日の命をつなぐのに精一杯な生活の中で、河から流れてきた桃を運命的に発見してしまう。そして何と自らの手で迷う様子もなく喜んで桃太郎を養育することとなる。

この、子育てにかかる負担はいかほどであっただろうか。桃から生まれてきた桃太郎とはいえ、子育ての時点では鬼を退治をするほどの英雄になることはまだ誰も予想できなかったはずだ。ひょっとしたら他に親がいるかもしれない。悪人の血を受け継いでいて、手に負えなくなるかもしれない。愛情をかけて育てても、受け取らずに自分たちから去って行ってしまうかもしれない。

お婆さんは当然、母乳が出る時期ではなかったであろう。いちいち乳母を探して頼むか、粥を布にしたして飲ませたのか、24時間体制で赤ん坊を育てることにはどれほどの苦労があったろうか。腕は腱鞘炎にならなかったのか。腰痛にはならなかったのか。赤ん坊を背負いながら河へ洗濯に行ったのだろうか。また、お爺さんは食料や水、家の修復や衣服、日々必要になるエネルギー資源をどのようにかき集めたのだろうか。特に、桃太郎にかかった食費は並大抵の出費ではなかったはずだ。

桃太郎が大きくなっても、鬼ヶ島に行く際に友達がいた訳ではなかったので、交友関係はそう深くはなかったと思われる。桃太郎の日々の教育は学校ではなく、自給自足に近い生活を行っていることその物で、老夫婦から生きる術を自然と学んでいったのだろう。とはいえ、子どもは子ども。手伝いとして戦力になるには時間が必要で、老夫婦は日々の仕事で忙しい中、桃太郎の教育にも時間的なコストがかかり、収入を削減させることにはなっただろう。

鬼退治の際には、胴当て、前垂れを身につけ、そして立派な刀まで持っている。どうやって手に入れたのだろうか。お爺さんが昔武士でなかったとすると、ここでも相当な出費があったと思われる。そして、最後にはお婆さんは、惜しげもなくきびだんごを桃太郎に渡す。ひょっとしたらこれで、桃太郎が帰らぬ人となるかもしれない。老夫婦は自分たちの生活のために残って欲しいとは懇願しなかったようで、桃太郎の夢を励まして見送っている。

この物語がすごいのは、実は桃太郎ではなく、自給自足の極限の生活をしていた老夫婦が、どのような子に育つか全くわからないのに、迷いなく信じて子育てを実践したことではないかと感じる。与えるだけ与えて、見返りさえ要求せず、育ちたいと思う方向に沿ってあげることができている。

桃太郎はそのような老夫婦の献身的な愛情に応えて、信じられないようなわずかな兵力で金銀財宝を持って帰ってくる。それは、最初から老夫婦が期待したことではなかっただろう。

フリースクールにも、時々どんぶらこどんぶらこと桃が流れてくる。その子たちがどんな子なのか私たちにはわからない。しかし、いつも、彼らには犬、キジ、猿といった個性的な仲間ができて、わずかな兵力でそれぞれの人生という名の鬼退治へ旅び立っていく。そして彼らは時々、土産話という金銀財宝を持ってフリースクールに帰ってくるのでした。めでたし、めでたし。

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反省の色は何色

高村さとみ

 みなさん、今年も半分が過ぎました。時の流れが早すぎて恐ろしいです...。今回は自戒の意味も込めて半年を過ぎての反省を書きたいと思います。

 私は常日頃から「相手を批判したくなったときは自分を省みる」ことを心に留めています。その心は。

 人はいろいろな理由で人を批判したくなります。「人の話を聞かなくて嫌い」「気が利かなくて嫌い」「愚痴ばかり言って嫌い」...例を出せばキリがありません。でもちょっと待って!と心の中でささやきます。ひょっとしてそれは「自分の許容範囲が狭い」のでは??嫌いな相手と同時に「人の話を聞かないことを許せない自分」「気が利かないことを許せない自分」「愚痴を許せない自分」が存在しているのです。相手を批判するときは同じくらい自分を批判する覚悟をもたなくてはならないと思います。

 とはいえ、こうしたことを心に留めていていつ何どきも人を批判することのない心の広い私、なわけがありません。自分を省みなくては...と思っていても相手を批判したい気持ちが止められない時もあります。省みることを忘れてしまうこともあります。ただし、そういう時のパターンはだいたい決まっていて、自分に余裕のない時なのです。やらなければいけないことが積み重なって時間の余裕がない時。(高村は複数のことを同時進行で処理することが苦手です。)別な件に気をとられて心に余裕のない時。そんな時には自分を省みる余裕もなく相手の批判に向かってしまいます。わかっていても中々コントロールの利かないところです。

 今年に入ってからも何度も相手を批判する気持ちが起こり、後からそれに自己嫌悪して...ということがありました。よくよく考えると批判したい物事そのものの前に、何かしらの余裕を奪う出来事が起きているのです。「○○で余裕がなかったからな」と思えるのは相手も自分も批判することがないので気持ちとしては楽でいいのですが、残り半年間はもう少し自分を省みることを心がけたいものです。

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カレー・マジック!

 フリースクール札幌自由が丘学園スタッフ

新藤理

 もう何年も前に、このスタッフエッセイ欄「いかに昔からカレーが好きだったか」という話を載せたことがある。ひさびさに読み返してみると、「新藤も5月からは30代。健康に気を遣い、カレーはめったなことでは口にしない決意を固めたのだ」なんてことが書いてあって、あきれてしまった。
 今でも週の半分以上はお昼にカレーを食べている。昼どきに二階に行くといつも濃厚なカレーの香りが漂っている、と学園では評判なのである。そのかぐわしい香りを「カレー臭」と呼ぶ輩があとを絶たないのが腑に落ちないところだ(言うまでもなく、「あきれてしまった」というのはカレー断ちをしようとした昔の自分に対してではない。当時の決意などどこ吹く風でカレーを愛し続けている自分に対して、である)。
 ほくほく顔で食べていると、生徒が「ひと口ちょうだーい」と寄ってくることがある。むむっ、我が命のこのひと皿、気軽に頂戴とは不届き千万...と思うのだが、なんてことはない100円のレトルトカレーである。鷹揚に「うむ、ひと口だけじゃぞ」と分けてあげることにしている。特製ガラムマサラでいつも激辛に仕上げてある私の(レトルトの)カレーは、知らずに食べれば口から火を吹く者もいる。にもかかわらず「今日もひと口!」とつかの間の激辛を求めるリピーターは少なくない。そういえば三月にフリースクールを旅立った卒業生も、「感謝のしるしに」とレトルトカレー(辛さ20倍)をプレゼントしてくれた。カレーは人と人とを結ぶ魔法の料理なのだ。

 カレー好き、そして辛いもの好きが昂じて、一年ほど前からプライベートで「激辛部」という部活(?)のメンバーとして活動している。ふだんは同じ楽団で活動している音楽仲間たちの中から、「辛いものが大好きだけど、他人と食事に行くと自分の嗜好に合わせてもらうことはできないから寂しい」というメンバーが名乗りをあげて結成した集団だ。定期的においしそうな各国料理のお店を探しては「できるだけ辛いものでコースつくってください」とオーダーしている。韓国料理やタイ料理や四川料理やメキシコ料理、そしてもちろんカレー。お店の方も迷惑するかと思いきや、むしろ「辛いものですね、まかせてください!」と乗り気になってくれる。
 そんなふうに熱い活動を続けている激辛部の仲間の一人が、この春札幌を離れることとなった。大学の研究員としてオーストラリアのブリスベンに派遣されるのだという。ひとまず一年限定の研究生活だけど、業績をあげればきっとさらに広く世界中へと羽ばたけるだろう。何かにつけ気の合う彼とのしばしの別れは、誇らしくも切なくもあった。
 旅立ちを間近に控え、すでに部屋を引き払ってしまったため最後の数日は研究室で寝泊まりするという彼を、半ば強引に二晩我が家に泊めた。おもてなしには、心を込めた我が手作りのスープカレー。もしかしたらもう札幌で暮らすことはないかもしれない親友に、札幌の味を忘れずにいてほしいという気持ちから選んだメニューだった。
 寸胴鍋に満杯こしらえたスープカレー、手前味噌ながらしみじみとおいしかった。不思議と辛さは感じなかった。カレーを肴に、大いに飲んで語った二日間。思い残すことはありません、と言ってくれた彼を見送ったあとも、部屋にはスパイスの香りが残る。
 
カレーにまつわる思い出がこうしてまた増えた。人と人とを結ぶ魔法の料理。わりとまじめに、私はカレーに人生を支えてもらっている。ちょっと食べ過ぎかもしれないけど。

 この春自由が丘にやってきた小林さんも、近所に大好きなカレー屋さんをひとつ持っているという。札幌のフリースクール界隈にも、何人かの激辛好きがいる。オルタナティブ教育界の激辛部、結成しちゃおうかな。

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