妖怪のせいなのね!?

フリースクールスタッフ 新藤理

放送が終わって一年以上経った今も「あまちゃん」を観ることがよくある。ストーリーや役者の素晴らしさもさることながら、「あまちゃん」は劇中の音楽がどれもいい。絶妙な(いい意味での)乱雑さ、変テコさがクセになるのだ。学園でも「あまちゃんにハマった」という生徒は何人もいて、放送当時は誰かが持ってきたサウンドトラックCDがフリースクールを賑わせていた。
「あまちゃん」の音楽を担当したのは大友良英さん。映画・ドラマの音楽も作っているが、元々は即興でノイズミュージックを鳴らす実験音楽家だ。その大友さんがこの夏、札幌で大々的な盆踊り大会を開催した。札幌国際芸術祭の一環として、北3条広場に巨大な風呂敷とやぐらを登場させ、「あまちゃんバンド」のミュージシャンたちとともに演奏された音頭の数々。その生のサウンドは、集まった市民を思いきり踊らせていた。みんな汗だくで、無我夢中だった。
盆踊りは地域のつながりを確かめながらみんなで明るく祖先を偲ぶイベントとして日本人にはお馴染みのものだけど、実はとても個人的な営みなのではないか。実はその日ちょっと気が沈んでいた私は、盆踊りの果てしない反復の中で、思いきり身体を動かしているのに心はどんどんおだやかになっていくのを感じていた。なんだか、たくさんの失敗も後悔も、すべてが赦され、洗い流されていくような感覚があった。15時から始まった盆踊り、それがすべて終わる20時まで私は踊りきった。会場に高校時代からの友人がいたことを後で聞いたが、「あまりにも真剣にトランス状態で踊っていてとても声はかけられなかった」らしい...

先日の学園祭で、私は「発表部門」という新たな部門を担当することになった。中高生が一緒になって一つの出し物を制作するチームだ。
初めて集まった時から「自分たちだけじゃなく、会場みんなで楽しめる出し物をしたい」と言っていた彼らに、私は半ば本気で「みんなで盆踊りやったら楽しいぞ!」と提案をしてみた。残念ながら(?)その案は通らず、しかし踊りでみんなを巻き込んで盛り上がろうというコンセプトは生き残った。そして、客席全体で一緒に踊れるダンスとして選ばれたのは「ようかい体操第一」だった。
おもに小学生に大人気の「妖怪ウォッチ」から生まれたこの体操。夏にフリースクールの生徒たちとともに保育園を訪問した時も大人気だった(重ねて言うが、取り組むのは学園の中高生たちである)。いったいどうなることかと思ったが、演目が決まってからのチームの取り組みは、見事だった。練習の時から、みんな実に生き生きと楽しく、そして真剣に踊っている。私も一緒になって踊ってみると、なるほど、大ブームを巻き起こしただけのことはあって、実によくできた体操なのだ。身体のコントロールと解放、力をためるところと発散するところ、そのバランスが絶妙だ。振り付けは、かの有名振り付け師・ラッキィ池田さん。そして流れる音楽もなんだか変テコで、そこがクセになるといえなくもない。これは大人も子どももみんな楽しく踊れるだろう。私はいつの間にか生徒たちを凌ぐ勢いで(?)ようかい体操にのめり込んでいった。

学園祭の本番、もう一つの演目「銀河鉄道999」(こちらはスタイリッシュなダンス。これももちろんみんな真剣に練習していた)に続いてようかい体操が始まった。ざわめく会場、やけにマジメな顔つきで踊る発表部門のメンバーたち。しかし、舞台から「ジバニャン・ロボニャン」が登場するといよいよ観客たちも盛り上がり始めた。半ばむりやりに客席から生徒たちを引っ張りだし、ステージで一緒に踊らせるジバニャンとロボニャン。あやふやな振り付けで、照れながらも一緒に踊ってくれる学園の仲間たち。スピーカーから流れる割れ気味の音楽に合わせて踊りながら思う。これはいつかの盆踊りと同じ光景だ。みんながそれぞれに、自分なりの楽しみ方で、それでもゆるやかな結びつきを感じながら、思う存分輝いている。
三回もくり返されたようかい体操を終えて、発表部門のメンバーは汗だくだった。まさか思いもよらなかっただろう。あの変テコな体操と音楽が、自分たちのこの秋の思い出を決定的に彩るテーマソングになろうとは。そのあり方は、なんだか一年前の「あまちゃん」との出会いにもちょっと似ている気がする。音楽も踊りも、変わった形をしたものほど、心に刺さって抜けなかったりするものだ。今でもあの音楽が流れれば、生徒たちも私もすぐに踊り出すに違いない。「踊りたくなるのは妖怪のせい」と恥ずかしさを捨てて。

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「同期会」の喜びと悲しみと

亀貝一義

私たちの年代(70歳代)になると、よく同期会が行われる。私など「おまえはまだ現役で忙しいだろうから幹事はやらなくてもいいよ」と言われるから世話役の仕事はないが、集まりにはできるだけ参加することにしている。
小中高校、大学の同期会、さらに学生寮にいたこともあって、この同窓会も呼びかけられる。また自分の同期会同窓会だけでなく、札幌市内の私立高校に30年間勤めていたこともあって、その「クラス会」の案内もある。この高校は当時は女学校だったから「可愛い教え子」もいまは孫をもつ「おばあちゃん」だ。

同期会も同窓会もクラス会も、集まる人たちは皆ケッコーな年の人たちだ。「お互い年をとったね」から話が始まり、必ずと言っていいように「先に逝った友人たちを忍び、黙祷(もくとう)!」が始まりのマナーになる。
いずれ「自分も黙祷の対象になるのか」と心の中で思う。そして先に逝った○○君、◎◎さんを思いながら半世紀以上前のいくつかの小さい思い出が頭の中をよぎる。

学生寮で同室だったK君は、おだやかでまじめな顔をして女性の話を静かにしていた。一区切りついたところで「面白い話だった」との感想だった。1オクターブ鈍い私などいつも苦笑されていたと思っている。
テレビもないし、ラジオだって思うように聞く機会を持たなかった学生時代、読書と、寮内での談話が楽しみだったのかもしれない。そういう半世紀以上前を思い出させられる昨今である。

もう60歳を超えている昔の麗(うるわ)しい教え子たちは、今も高校時代の担任だった私が何を言って嘆いていたか、などを楽しそうに言う。しかし同じ教室で明るい笑顔で歩調を合わせていた○ちゃんは乳癌で死んだということをきくと悲しい。

先に逝った友だちや教え子たちの分もしっかり生きなければ、という気持ちも強くなる昨今...。

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セール

桑名八重
巷では夏物セール真っ盛り。
買い物の好きな人には楽しみなシーズンですね。
私はあまりセールには行かない方です。
なぜなら、人の多さに疲れてしまうからです。
必需品がセールになっているときは重い腰を上げて出かけますが・・・。
セールに行かない私の洋服調達方法は、
1、おさがり(未だに姉から)
2、流行に左右されないものを定価から下がった時点で購入
って感じです。
先日、色々と事情があり服を買おう!と思い、ちょっと駅ビルなんか寄ってみました。
(やはり人が多くて疲れてしまいましたが)
いろいろ見ながら、ふと気がついたことがあります。
“夏物セール”ってほとんど半そで・・・。
今日は30℃越えで暑いけれど、もうほとんど半そでは必要ないんじゃないか・・・。
お盆過ぎたら着ないよなぁ。
そう思ったら、買い物をしよう!という決意は早くも崩れ、結局日用品の雑貨をちょろっと購入して終了。
長そでの商品がもう少し出てから、必要なものを買おうと決めました。
セールって基本的にその場で即決で決めていくもの。
どちらかと言うと、お買い物は「悩んで悩んで、本当に気に入ったものを高くても買う。そして長く使う。」タイプの私としては苦手なんだと思います。
セールが楽しい!って人の気持ちもわかるけど、セールは性に合わないんだなぁ・・・とつくづく思いました。
暑い中、生徒・スタッフとの洋服購入の話でふと思い出しました。
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特に実のない近況

安齊 裕香

スクーリングも終わり、夏休みに突入しています。
みなさまどうお過ごしでしょうか?
もうすぐお盆。
実家に帰って自分の部屋を片付けようと思いつつ、渋り続けて早5年。
いい加減服やらおもちゃやら片付けないと・・・。
年に3~4回のペースで実家に帰るが、やっぱりダラダラしてしまうし、親に甘えてしまうんですよね~。もうそろそろやってあげる立場でもあるのはわかってはいるが、まだまだ親が元気だと甘えます。ごはんは出てくる、洗濯もしてくれる、『なんて幸せなんだ』と感じます。いつも自分でやっていることがやってもらえるって素敵ですね。本当にありがたい。
朝昼晩自分でごはんを作っていると、誰かに作ってもらいたくなるんですね。
たまに風邪引かないかな~なんて思ってしまうことも・・・。
先日骨折した時は旦那がお弁当も夜ごはんも作ってくれて、ずいぶん助かったなぁ。
たまにこんなのもいいなぁと思いつつ、こういうことがあるからまた頑張れるんだなぁと感じます。
実家から帰って来る時も、『現実の世界に戻るんだなぁ~』と感じつつも、また実家に帰ることを楽しみにしているから頑張れるのですね。
なにか楽しみがあると頑張れます。
今は毎週末が楽しみ。
週末のマッサージと焼き肉を楽しみに毎日お仕事頑張っております。
はい。私は元気です。
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友だちの境界

高村さとみ

どこまでが友だちでどこからが友だちでないのか。

これは難しい問題です。というか、私にとってはあまり考える機会のない問題でした。

今回エッセイをこのテーマで書こうと思ったのは、フリースクールの子どもたちと接していて考えさせられることがあるからです。

今年の子どもたちは良い意味でグループになっていないのが特徴です。特定の人とばかり一緒にいるのではなく、どの人とでも関わることができる。これはとても良いことだと私は思っているのですが、時折こんな声が聞こえてきます。

「友だちがほしい!」

はて、普段話している人たちは友だちではないのでしょうか?どうやら私の考える「友だち」と子どもたちの考える「友だち」の感覚にズレがあるようです。

このテーマを考える時に思い出すのが、学校でのお菓子配りのことです。お土産でもバレンタインの友チョコでもいいのですが、学校でこのようなお菓子を配ろうというとき、個数によって無意識のうちに自分と関わる人たちをランクづけてしまうことがあります。みんなに配れるよう個数を用意していれば話は別ですが、1個のときは一番の親友に。5個だと仲の良いグループの子たちに。10個だと女子だけに。というのはよくある話です。

前述の「友だちがほしい!」はおそらくお菓子が1個のときに渡す、何でも話せるような親友が欲しいという意味だと思うのですが、これまたそういった存在を私自身は欲しいと感じていないのでなかなかその気持ちが理解し難いのです。

例えば私が悩みA、悩みB、悩みCを抱えているとして。特別な存在がいないからこれらの悩みを話す相手がいないということにはなりません。広く浅い関係の中にAを話せる人、Bを話せる人、Cを話せる人がそれぞれにいるのです。しかし、どうも子どもたちの話を聞いていると、「AもBもCも話せる友だちが欲しい」と言っているように感じます。

…書いているうちにフリースクール論に近くなってきました。私は、フリースクールは小さい規模でいいので、各地に数多くあればいいと思っています。たくさんあれば自分に合ったフリースクールを選ぶことができますし、フリースクールAが実際には合わなかったときにフリースクールBに移ることもできます。

浅くとも広い人間関係の方が自分の話したいことを話すことができ精神的にも安定するのではないか、と私は思うのです。ただ、ひょっとしたら子どもたちは深い関係を築かなければAもBもCも話せないと感じているのかもしれません。あるいは同じAの話をするにしてももっともっと深いところまで話したいと感じているのかもしれません。

とはいえ、どの人とでも関わることのできる関係をつくるということは、自分の気持ちだけでどうにかなるものではありません。実は今の関係性は貴重でもっと大切にした方が良いのだと、後から振り返って気づくのではなく、今から自覚していって欲しいと考えるこの頃です。

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火をいじる

安齊 裕香
趣味が焼肉なのは生徒にも結構浸透してきた。
あたたかくなってから今のところ週末はBBQ。なにか焼けるものがあると焼きたくなっちゃうんですね~。幸せ~。
友だちが参加したり、近所の人が参加したり。
お花見はしていないけど、昼間からゆっくりしてビール飲んで肉焼いている時間が好き。
小学校の頃はキャンプの時なんかボーっと火を見ていた気がする。私の時代はキャンプファイヤーがOKの時代。あの火を囲むことが幻想的というか、非現実的な感じがして好きだった。
農家だった祖父母の家は薪ストーブだったから薪を割って、火をつけて、燃えそうなものを燃やして・・・、泊まりに行った時の楽しみの一つだった。部屋の暖まり方も今のヒーターと全然違うなと思う。家があったかい感じがしてとても居心地がよかった。
小学校1年生の時は雨の日に寒いからって外でマッチをつけて遊んでいたら親に見つかってひどく怒られた。今考えるとそりゃそうだ。
花火も好き。夏の花火も好きだけど冬の花火も好き♪でも自分で洗濯とか家事をするようになって、花火の後の服のにおいがとても気になるようになった。
たぶんみんなで火を囲んであったかくなることが好きなんだ。
夏サイコー★☆
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さくらさく

田房絢子

ほんのつい先日からやっと暖かくなってきました。

今月の初めの頃に、春は本当にくるんだろうかと思っていたのが嘘みたいです。

でも夕方との気温差で体調管理が難しい・・・学園にも風邪引きさんがちらほらいます。

季節を感じるというのが、なんだか心を和ませてくれると知ったのもつい先日。

穏やかな春の陽気が少しずつ心の冬模様を溶かしてくれます。

秋から冬に変わるときにはない、心がほっとする季節の移り変わりですね。

桜も少しずつ花を咲かせ、街頭では色とりどりの花びらが青い空に彩りを添えます。

植物に詳しくないのでどれが何の桜かはわかりませんが、とにかく心を和ませてくれる色です。

日本人のDNAに刷り込まれているんでしょうか。桜は日本人にとって大切な花ですね。

でもこんな事を言っていますが、私にとってゆっくりと桜を見上げたのは初めてと言って良いくらいです。

通勤路には桜がなかったのと、休日に桜を愛でるようなことをしたことがなかったので・・・。

だから今年は発見の年。

もったいないので、これからはそんな季節の移り変わりに触れる機会を増やそうと思います。

さくらさく。この言葉がやっと札幌にもやってきました。

なんだか北海道がムズムズと動き出してきたような気がします。

次の冬までどんな楽しいことができるかなと、わくわくし始めた4月の終わりになりました。

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「なぜ勉強するの?」

高村さとみ

「なぜ勉強するの?」

子どもと関わる機会のある方だったら一度はこの質問を耳にしたことがあるのではないでしょうか。また、自身が子どものころはこう思っていた、という方もいるはずです。

私自身が中高生のころは、決して勉強は好きではありませんでしたが、「高校や大学へ行くためには仕方ないよね」といくらか割り切って勉強していたと記憶しています。そして大人になった今。フリースクールの子どもたちからこの質問があると「私は大人になってから勉強の楽しさがわかったけど、中学生のあなたが勉強をおもしろくないと思う気持ちもわかる。高校や専門学校、大学に進むときにある試験は、苦手なことにも一生懸命取り組む力を見ている、今はそう考えてみたらいいんじゃないかな。」と、こんなことを話していました。これまでは。

最近はこの質問について、子どもたちに何かを解答しようと思わなくていいのではないだろうか、ということを考えているので、今回はそのことについて書きたいと思います。

子どもと話しをしていると「なぜ勉強するの?」に類似した話がいくつかでてきます。

「仕事に使う勉強だけしていればいいんじゃない?」「この勉強は将来何の役に立つの?」「将来外国には行かないから英語は必要ない!」などなど。

子どもは本当に必要な勉強だけを望んでいるのでしょうか。必要な勉強とは何なのでしょうか。そもそも人は仕事をするために勉強をしているのでしょうか。

必要な勉強など誰にもわからない、必要だから勉強するのではない、というのが私の結論です。例えば誰もが日常で使う足し算・引き算。足し算・引き算は必要な勉強だ、ということに異議を唱える人はいないと思いますが、小学1年生の時点で「足し算・引き算は大人になっても必要なものだから勉強しなくちゃ」と思って勉強している人はいないでしょう。この勉強は必要だ、とは案外勉強し終わってから気づくものなのではないでしょうか。

また、「必要な勉強をすればいい」と言っている子も、好きなこと・得意なこと・興味があることは(「必要だ」という条件がなくたって)「楽しいから」という理由で勉強しています。質問をしてくる子どもだって本当に必要な勉強だけを望んでいるわけではないということです。

これらの話題のときに思い出す話があります。私が好きな漫画「高杉さん家のおべんとう」は、女の子を引き取ることになった社会学者がお弁当づくりを通してその女の子と心を通わせていく、というのが基本のストーリーなのですが、ある回にラオスへ二人で研究調査に行く話があるのです。その時ラオスの人の生活のことを「米作りが中心の村だけど、天気がヘソを曲げたらすぐに台無しになる。でもそんな時は水に浸かればそこで魚を捕る、水がなくなればそこで虫を捕る。自然の都合に合わせてできることをたくさん持っている」という言葉で表していました。また、「こういう暮らし方は大儲けはできなくても、何もなくなって破綻することはない」とも。

日本もすでに、いい高校に入ればいい大学に行ける、いい大学に入ればいい就職ができる、いい職に就けば一生安泰なんて時代ではなくなっています。だとすれば勉強は(例えば高校に行くため、のように)一つの目的に向かってするのではなく、何かがダメになったときに次の選択をするため、という幹から枝葉をたくさん伸ばしていくためのものであっていいのではないか。そんなことを考えるようになりました。

というわけで最初の話題に戻ると、「なぜ勉強するの?」に誰かが、私が、答えをだそうとなんてしてはいけません。一緒に考えるかあるいは「何でだろうねえ」とニヤニヤするのが正解です。

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「新しい年」と自分なりのこれから

亀貝 一義
1月よりも4月が「新年」に思える。
3月、これまで何年かつきあっていた人たちと「卒業」や「離任」「引っ越し」などで別離を余儀なくされる。そして4月、新しい出会いがたくさん生まれる。新らしい生徒たち、その他いろいろなところでの新しい出会いなど。3月の寂しさは忘れ、新しい出会いによって心が高まる。
(わが学園では今年は今のところ、スタッフの大きな入れ替えはない。)
年々子どもの数が減っていく。新入生も減ってくるかも知れない。しかし今のところわが学園は、中学生のフリースクールと、高校合わせて140人ちかい生徒を擁する。着実に「発展」形をたどっていると言える。フリースクールが20年、高校は5年の歩みを重ねている。
新しい年の始まりを確認することは同時に自分の未来が着実に減少していくことを確認することでもあろう。若干寂しさを感じさせる文になるのだが…。
今日の朝日新聞の「天声人語」は、アメリカの詩人ウルマンの「青春」を引用した思いを載せている。
「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる」と続く。
若さと元気は、手っ取り早くいえばまず「歩く」ことが土台、仕事などでの「目標」(上でいう理想)が灯火か、家族を含めてそしていろいろな人とのふれ合い、そういったもろもろが生きがいにつながっていくのだろう。
今日高齢者の割合がどんどん高くなっていくと報道されている。いわれなくとも分かっているが、じゃあどうするのか、自分なりに元気で、自分の役割を積極的にすすめることだろう、かと思ったりしている。
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机周り

桑名八重
以前、このエッセイで「断舎離」について書いた。
その続きを少し。
モノを「片付ける」っていうことが正直苦手でした。
なんで苦手なのか、よくわかっていなかったのですが最近、自分なりに分析してみた。
①貧乏症・・・いつか使うだろうってとりあえず取っておく(使うことはまずない)。
②ものを捨てることへの罪悪感
大きくこの2点だと思う。
ただ、いつまでもモノを貯めこむための膨大なスペースなんてあるわけもなく、なんとかしなきゃ!
という状況になり、思いっきりモノを処分すること半年。
この「片付かない」状況にも変化がおきた。
とにかく、不要なものを増やさない。
一つ買ったら、ひとつ処分。← かなり徹底してます。
悩んで処分できないモノは、目につくところに置いておく。← 周りが片付いていると、この処分できないモノが邪魔に感じてきて、最後に「もういいや!」となって片付きました。(自分の部屋は・・・)
これまでの人生「収集癖」には基本的に無縁だと思っていたのですが、
やはりいろんなモノ(大抵仕舞っているだけの)に囲まれていると実感しました。
本当に必要なものだけ所有する。
これが理想なんだけど、いかんせん、貧乏症はそう簡単には消えず色々なところで顔を出す。
こころ安らぐ雑貨に一目ぼれしてしまうし、頂き物は無下にできない。
必要なモノと不要なモノの線引きがまだまだ私には大変なのかもしれない。
以前にくらべモノとの付き合い方が変わってきたとはいえ、まだまだ道半ば。
今年度の目標は『職場の机周りの現状維持』。
レイアウト変更を機にかなり一生懸命片付けました!(片付いたかどうかは人によって判断が違うでしょうが・・・)
これを維持しつつ、もう少しモノを減らしていきたいと思う今日この頃です。
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