特に実のない近況

安齊 裕香

スクーリングも終わり、夏休みに突入しています。
みなさまどうお過ごしでしょうか?
もうすぐお盆。
実家に帰って自分の部屋を片付けようと思いつつ、渋り続けて早5年。
いい加減服やらおもちゃやら片付けないと・・・。
年に3~4回のペースで実家に帰るが、やっぱりダラダラしてしまうし、親に甘えてしまうんですよね~。もうそろそろやってあげる立場でもあるのはわかってはいるが、まだまだ親が元気だと甘えます。ごはんは出てくる、洗濯もしてくれる、『なんて幸せなんだ』と感じます。いつも自分でやっていることがやってもらえるって素敵ですね。本当にありがたい。
朝昼晩自分でごはんを作っていると、誰かに作ってもらいたくなるんですね。
たまに風邪引かないかな~なんて思ってしまうことも・・・。
先日骨折した時は旦那がお弁当も夜ごはんも作ってくれて、ずいぶん助かったなぁ。
たまにこんなのもいいなぁと思いつつ、こういうことがあるからまた頑張れるんだなぁと感じます。
実家から帰って来る時も、『現実の世界に戻るんだなぁ~』と感じつつも、また実家に帰ることを楽しみにしているから頑張れるのですね。
なにか楽しみがあると頑張れます。
今は毎週末が楽しみ。
週末のマッサージと焼き肉を楽しみに毎日お仕事頑張っております。
はい。私は元気です。
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友だちの境界

高村さとみ

どこまでが友だちでどこからが友だちでないのか。

これは難しい問題です。というか、私にとってはあまり考える機会のない問題でした。

今回エッセイをこのテーマで書こうと思ったのは、フリースクールの子どもたちと接していて考えさせられることがあるからです。

今年の子どもたちは良い意味でグループになっていないのが特徴です。特定の人とばかり一緒にいるのではなく、どの人とでも関わることができる。これはとても良いことだと私は思っているのですが、時折こんな声が聞こえてきます。

「友だちがほしい!」

はて、普段話している人たちは友だちではないのでしょうか?どうやら私の考える「友だち」と子どもたちの考える「友だち」の感覚にズレがあるようです。

このテーマを考える時に思い出すのが、学校でのお菓子配りのことです。お土産でもバレンタインの友チョコでもいいのですが、学校でこのようなお菓子を配ろうというとき、個数によって無意識のうちに自分と関わる人たちをランクづけてしまうことがあります。みんなに配れるよう個数を用意していれば話は別ですが、1個のときは一番の親友に。5個だと仲の良いグループの子たちに。10個だと女子だけに。というのはよくある話です。

前述の「友だちがほしい!」はおそらくお菓子が1個のときに渡す、何でも話せるような親友が欲しいという意味だと思うのですが、これまたそういった存在を私自身は欲しいと感じていないのでなかなかその気持ちが理解し難いのです。

例えば私が悩みA、悩みB、悩みCを抱えているとして。特別な存在がいないからこれらの悩みを話す相手がいないということにはなりません。広く浅い関係の中にAを話せる人、Bを話せる人、Cを話せる人がそれぞれにいるのです。しかし、どうも子どもたちの話を聞いていると、「AもBもCも話せる友だちが欲しい」と言っているように感じます。

…書いているうちにフリースクール論に近くなってきました。私は、フリースクールは小さい規模でいいので、各地に数多くあればいいと思っています。たくさんあれば自分に合ったフリースクールを選ぶことができますし、フリースクールAが実際には合わなかったときにフリースクールBに移ることもできます。

浅くとも広い人間関係の方が自分の話したいことを話すことができ精神的にも安定するのではないか、と私は思うのです。ただ、ひょっとしたら子どもたちは深い関係を築かなければAもBもCも話せないと感じているのかもしれません。あるいは同じAの話をするにしてももっともっと深いところまで話したいと感じているのかもしれません。

とはいえ、どの人とでも関わることのできる関係をつくるということは、自分の気持ちだけでどうにかなるものではありません。実は今の関係性は貴重でもっと大切にした方が良いのだと、後から振り返って気づくのではなく、今から自覚していって欲しいと考えるこの頃です。

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火をいじる

安齊 裕香
趣味が焼肉なのは生徒にも結構浸透してきた。
あたたかくなってから今のところ週末はBBQ。なにか焼けるものがあると焼きたくなっちゃうんですね~。幸せ~。
友だちが参加したり、近所の人が参加したり。
お花見はしていないけど、昼間からゆっくりしてビール飲んで肉焼いている時間が好き。
小学校の頃はキャンプの時なんかボーっと火を見ていた気がする。私の時代はキャンプファイヤーがOKの時代。あの火を囲むことが幻想的というか、非現実的な感じがして好きだった。
農家だった祖父母の家は薪ストーブだったから薪を割って、火をつけて、燃えそうなものを燃やして・・・、泊まりに行った時の楽しみの一つだった。部屋の暖まり方も今のヒーターと全然違うなと思う。家があったかい感じがしてとても居心地がよかった。
小学校1年生の時は雨の日に寒いからって外でマッチをつけて遊んでいたら親に見つかってひどく怒られた。今考えるとそりゃそうだ。
花火も好き。夏の花火も好きだけど冬の花火も好き♪でも自分で洗濯とか家事をするようになって、花火の後の服のにおいがとても気になるようになった。
たぶんみんなで火を囲んであったかくなることが好きなんだ。
夏サイコー★☆
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さくらさく

田房絢子

ほんのつい先日からやっと暖かくなってきました。

今月の初めの頃に、春は本当にくるんだろうかと思っていたのが嘘みたいです。

でも夕方との気温差で体調管理が難しい・・・学園にも風邪引きさんがちらほらいます。

季節を感じるというのが、なんだか心を和ませてくれると知ったのもつい先日。

穏やかな春の陽気が少しずつ心の冬模様を溶かしてくれます。

秋から冬に変わるときにはない、心がほっとする季節の移り変わりですね。

桜も少しずつ花を咲かせ、街頭では色とりどりの花びらが青い空に彩りを添えます。

植物に詳しくないのでどれが何の桜かはわかりませんが、とにかく心を和ませてくれる色です。

日本人のDNAに刷り込まれているんでしょうか。桜は日本人にとって大切な花ですね。

でもこんな事を言っていますが、私にとってゆっくりと桜を見上げたのは初めてと言って良いくらいです。

通勤路には桜がなかったのと、休日に桜を愛でるようなことをしたことがなかったので・・・。

だから今年は発見の年。

もったいないので、これからはそんな季節の移り変わりに触れる機会を増やそうと思います。

さくらさく。この言葉がやっと札幌にもやってきました。

なんだか北海道がムズムズと動き出してきたような気がします。

次の冬までどんな楽しいことができるかなと、わくわくし始めた4月の終わりになりました。

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「なぜ勉強するの?」

高村さとみ

「なぜ勉強するの?」

子どもと関わる機会のある方だったら一度はこの質問を耳にしたことがあるのではないでしょうか。また、自身が子どものころはこう思っていた、という方もいるはずです。

私自身が中高生のころは、決して勉強は好きではありませんでしたが、「高校や大学へ行くためには仕方ないよね」といくらか割り切って勉強していたと記憶しています。そして大人になった今。フリースクールの子どもたちからこの質問があると「私は大人になってから勉強の楽しさがわかったけど、中学生のあなたが勉強をおもしろくないと思う気持ちもわかる。高校や専門学校、大学に進むときにある試験は、苦手なことにも一生懸命取り組む力を見ている、今はそう考えてみたらいいんじゃないかな。」と、こんなことを話していました。これまでは。

最近はこの質問について、子どもたちに何かを解答しようと思わなくていいのではないだろうか、ということを考えているので、今回はそのことについて書きたいと思います。

子どもと話しをしていると「なぜ勉強するの?」に類似した話がいくつかでてきます。

「仕事に使う勉強だけしていればいいんじゃない?」「この勉強は将来何の役に立つの?」「将来外国には行かないから英語は必要ない!」などなど。

子どもは本当に必要な勉強だけを望んでいるのでしょうか。必要な勉強とは何なのでしょうか。そもそも人は仕事をするために勉強をしているのでしょうか。

必要な勉強など誰にもわからない、必要だから勉強するのではない、というのが私の結論です。例えば誰もが日常で使う足し算・引き算。足し算・引き算は必要な勉強だ、ということに異議を唱える人はいないと思いますが、小学1年生の時点で「足し算・引き算は大人になっても必要なものだから勉強しなくちゃ」と思って勉強している人はいないでしょう。この勉強は必要だ、とは案外勉強し終わってから気づくものなのではないでしょうか。

また、「必要な勉強をすればいい」と言っている子も、好きなこと・得意なこと・興味があることは(「必要だ」という条件がなくたって)「楽しいから」という理由で勉強しています。質問をしてくる子どもだって本当に必要な勉強だけを望んでいるわけではないということです。

これらの話題のときに思い出す話があります。私が好きな漫画「高杉さん家のおべんとう」は、女の子を引き取ることになった社会学者がお弁当づくりを通してその女の子と心を通わせていく、というのが基本のストーリーなのですが、ある回にラオスへ二人で研究調査に行く話があるのです。その時ラオスの人の生活のことを「米作りが中心の村だけど、天気がヘソを曲げたらすぐに台無しになる。でもそんな時は水に浸かればそこで魚を捕る、水がなくなればそこで虫を捕る。自然の都合に合わせてできることをたくさん持っている」という言葉で表していました。また、「こういう暮らし方は大儲けはできなくても、何もなくなって破綻することはない」とも。

日本もすでに、いい高校に入ればいい大学に行ける、いい大学に入ればいい就職ができる、いい職に就けば一生安泰なんて時代ではなくなっています。だとすれば勉強は(例えば高校に行くため、のように)一つの目的に向かってするのではなく、何かがダメになったときに次の選択をするため、という幹から枝葉をたくさん伸ばしていくためのものであっていいのではないか。そんなことを考えるようになりました。

というわけで最初の話題に戻ると、「なぜ勉強するの?」に誰かが、私が、答えをだそうとなんてしてはいけません。一緒に考えるかあるいは「何でだろうねえ」とニヤニヤするのが正解です。

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「新しい年」と自分なりのこれから

亀貝 一義
1月よりも4月が「新年」に思える。
3月、これまで何年かつきあっていた人たちと「卒業」や「離任」「引っ越し」などで別離を余儀なくされる。そして4月、新しい出会いがたくさん生まれる。新らしい生徒たち、その他いろいろなところでの新しい出会いなど。3月の寂しさは忘れ、新しい出会いによって心が高まる。
(わが学園では今年は今のところ、スタッフの大きな入れ替えはない。)
年々子どもの数が減っていく。新入生も減ってくるかも知れない。しかし今のところわが学園は、中学生のフリースクールと、高校合わせて140人ちかい生徒を擁する。着実に「発展」形をたどっていると言える。フリースクールが20年、高校は5年の歩みを重ねている。
新しい年の始まりを確認することは同時に自分の未来が着実に減少していくことを確認することでもあろう。若干寂しさを感じさせる文になるのだが…。
今日の朝日新聞の「天声人語」は、アメリカの詩人ウルマンの「青春」を引用した思いを載せている。
「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる」と続く。
若さと元気は、手っ取り早くいえばまず「歩く」ことが土台、仕事などでの「目標」(上でいう理想)が灯火か、家族を含めてそしていろいろな人とのふれ合い、そういったもろもろが生きがいにつながっていくのだろう。
今日高齢者の割合がどんどん高くなっていくと報道されている。いわれなくとも分かっているが、じゃあどうするのか、自分なりに元気で、自分の役割を積極的にすすめることだろう、かと思ったりしている。
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机周り

桑名八重
以前、このエッセイで「断舎離」について書いた。
その続きを少し。
モノを「片付ける」っていうことが正直苦手でした。
なんで苦手なのか、よくわかっていなかったのですが最近、自分なりに分析してみた。
①貧乏症・・・いつか使うだろうってとりあえず取っておく(使うことはまずない)。
②ものを捨てることへの罪悪感
大きくこの2点だと思う。
ただ、いつまでもモノを貯めこむための膨大なスペースなんてあるわけもなく、なんとかしなきゃ!
という状況になり、思いっきりモノを処分すること半年。
この「片付かない」状況にも変化がおきた。
とにかく、不要なものを増やさない。
一つ買ったら、ひとつ処分。← かなり徹底してます。
悩んで処分できないモノは、目につくところに置いておく。← 周りが片付いていると、この処分できないモノが邪魔に感じてきて、最後に「もういいや!」となって片付きました。(自分の部屋は・・・)
これまでの人生「収集癖」には基本的に無縁だと思っていたのですが、
やはりいろんなモノ(大抵仕舞っているだけの)に囲まれていると実感しました。
本当に必要なものだけ所有する。
これが理想なんだけど、いかんせん、貧乏症はそう簡単には消えず色々なところで顔を出す。
こころ安らぐ雑貨に一目ぼれしてしまうし、頂き物は無下にできない。
必要なモノと不要なモノの線引きがまだまだ私には大変なのかもしれない。
以前にくらべモノとの付き合い方が変わってきたとはいえ、まだまだ道半ば。
今年度の目標は『職場の机周りの現状維持』。
レイアウト変更を機にかなり一生懸命片付けました!(片付いたかどうかは人によって判断が違うでしょうが・・・)
これを維持しつつ、もう少しモノを減らしていきたいと思う今日この頃です。
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バレンタイン

安齊 裕香
恋をしている子はドキドキなのかな・・・?
近頃のバレンタインは友チョコが流行り?本命とかはあまりない様子。うちの生徒もチョコやクッキー、ケーキまで手作りしてきてくれます。ありがたい。
私が初めてきちんとしたチョコを作ったのは小学校6年生で、友だちと作ってみた。結局自分たちで食べたけど・・・。その時まで作るなんて考えもしなくて、友だちが作るから一緒に作った感じ。知らなかったし、チョコを溶かすなんて。わからなくてなんとなくやってみようと思ったいつだかの時なんて、水を入れてみたし。全然固まらなかったし。
そんなこともあって、中学高校では買ったものを彼氏や親に渡すのが続く。作る気にもならなかったし、そんな時間があるならあそばなきゃ~と思っていた。だから手作りする人はスゴイな~って思っていた。
大人になって、料理をするようになって感じるのは、お菓子作りは難しい。おおざっぱな自分には買った方が平和に思える。
ここ何年かで節約しようと思ってクリスマスケーキを数回作ってみたけど、こんなもんか~くらいな感じ。旦那さんもホワイトデーかなんかにケーキを作ってくれたけど、そっちの方が美味しかった。それでもっと作る気は失せる。
バレンタインデーは、ここ何年かは生チョコを作って旦那さんに渡している。これだけは上手くできる。
手作りの愛情で美味しさは増すとは思うし、実際貰うと本当に美味しい。
でも思うのは、自分で食べるときはケーキやお菓子は買った方が美味しい。
だから私は・・・無理はしないようにしよッ。
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徒然なるまま・・・1月

桑名八重
2013年度の年末年始はとっても長かった・・・。世間的にも9連休。有休などを使えばもっと。
私たち札幌自由が丘学園の職員も9連休。
年明けの6日。お仕事はじめは辛かった。
休み癖ってすぐにつくんだなぁと再度実感した。
さて、「仕事はじめ」について親戚が集まった時話題になった。
60代の母や叔母がいうには、「仕事はじめ=振り袖」だそうだ。
30代の姉や私は「何それ?」。
叔母「私たちがOLやってたころは、年始は振り袖で出社して、お屠蘇と年始の挨拶まわりなの!」
姉・私「は~。経験ないわ、そんなの」
叔父「丸の内とかじゃ、まだそういうの見るけど?」
全員「え~!」
時代と世代の差を感じる会話だと思った。
とりあえず、私のこれまでの社会人経験のなかでは「仕事はじめ=仕事ONLY」
どちらがよいかは、判らないけれど日本の文化風習がまだまだ残されていたんだなと思う。
仕事はじめ=振り袖。おおらかでいいなと思う。
ところで、もう少しで成人式である。
日々のなかで着物を着ることは少ないが、私は一応着付けはできる。
しかし、私も姉も振り袖を着たことはない。
成人式にも参加していない(なんせ、二人とも受験直前だったから・・・)。
今になって思うと、せめて貸衣装で写真だけでも撮っとけばよかったなぁ。
あの頃はまったく重要に感じなかったけど、年を追うごとに季節の変わり目、節目の行事の大切さがわかってきた。
生徒たちに、「とにかく節目として何かやっときな」と伝えている。
今年のお正月の心残りがひとつ。
バタバタしてて、着物着てない!!
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「趣味はカメラと写真」

亀貝 一 義
「趣味はカメラと写真」などとかつて言っていた。
以前勤めていた高校では写真部の顧問などもしていて、部員の生徒たちと夏休みに撮影旅行に行ったりもしたことがある。生徒たちが高文連の写真展に入選していっしょに喜んだこともあった。
暗室の小さい赤色灯のもとで浮かび上がる映像に心を躍らせたりした記憶が今は遠い。最近はパソコン処理なのでそういう手工業の楽しさはないが…。
しかしここ数年、あまり「趣味は写真」などというような気持ちが後退していた。必要な時にカメラを手にする程度だったのだが、今年の秋に何度か「紅葉」を見る機会があった。
あらためて秋の、自然の美に触れ大いなる感動を味わった。この美をカメラで写し撮ろうと思ったのが「趣味はカメラと写真」の復活のきっかけだった。
紅葉は、一つひとつの場所、一本一本の木、空の色合い、周りの状況によって実に多彩で、多様で、感じる「温度差」もまた異なる。これらの気持ちも含めて一枚の写真に写し撮ることは多分不可能だろう。色が最も映えるのは秋ではないだろうか。
「錦(にしき)織なす長堤に 暮るればのぼるおぼろ月 げに一刻も千金の 眺めを何に喩うべき」
これは「花」・春の歌の一連であるが、紅葉の美を詠う歌詞にも当てはまるだろう。錦織なす山々、そして水に映るこの天然の錦織を写真に写し撮りたいというのが「趣味は…」のきっかけだったのだが、これからは冬、冬の空を飛ぶタンチョウの美しさもまた「眺めを何に喩うべき」の感嘆である。ただこれは紅葉の多様さ多彩さを写すよりも容易ではないか、と自分では思っているのだが。
年末、数年ぶりに鶴居村に行く。
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