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3/5三和高校全日コース卒業式・学校長式辞

Boys and girls, be ambitious like this old man (第7期(毎日通学コース)卒業式式辞)

2016.3.5 札幌自由が丘学園三和高等学校校長 亀貝 一義

「式辞」というよりも、北海道科の最後の授業のつもりでお話をしたいと思います。

皆さん、卒業おめでとう。

3年前、全日コースとして私たちが迎えた人たちは14名でした。今、第7期卒業生として送り出そうとしている皆さんは20名です。3年前の4月、札幌自由が丘学園三和高等学校の生徒数は98名でした。今、東京の生徒数も含めて140名を超えています。

私自身で言えば、3年間皆さんの授業の担当をしたことから、非常にいい生徒だったという思いがします。優しく思いやりの心をもった皆さんでした。笑顔のすてきな皆さんでした。よく勉強をした皆さんでした。よい心、よい顔、よい頭、3拍子そろった生徒の皆さんと別れることは私にとって、非常にさびしい気持ちを抑えることができません。しかし、4月から皆さんは人生の新しいステージで活躍します。まさにそれぞれの翼で羽ばたこうとしている皆さんに、私からささやかなメッセージを送りたいと思います。

メッセージの第一は、「希望」についてです。札幌自由が丘学園の教育目標の第一は、「ステップアップ・『今一歩の挑戦』」です。これは、皆さんは前を向いて常に希望と目標ともって前進してほしいという願いです。これに関連するお話をしたいと思います。

今から140年ほど前のことです。当時北海道を動かしていたのは薩摩出身の黒田清隆(大通り公園10丁目のある2つの銅像のひとつ)は、北海道開拓のためにアメリカからすぐれた人たちを迎えようとしました。そのうちの一人がウイリアム・スミス・クラークでした。当時アメリカの大学の学長だったクラーク先生は、1年間の休暇をとって札幌にやってきました。札幌農学校の教頭の立場でした。実際は校長だったようです。

「やってきた」といっても当時は船の旅行だったからアメリカから札幌まで1か月半以上かかりました。日本語を知らないクラーク先生は、それでも熱心な札幌農学校の学生たちと勉強しました。当時の学生たちも英語を理解することは容易ではなかったと思います。

それでも9か月たった1877年(明治10年)の4月に札幌を離れます。この9か月間にクラーク先生が学生たちに訴えたことは、フロンティアスピリッツとヒューマニズムだったと言われています。フロンティアスピリッツというのはいわばステップアップを不断にやり通そうということだったし、ヒューマニズムはまたジョインハンズ、人と人との結びつき、人間を大切にしようという札幌自由が丘学園の精神でもあります。

札幌を離れたときのクラーク先生は52歳でした。見送りに来た20名前後の学生たちに、今の北広島市で別れの言葉を贈ります。これが世に言う「Boys,be ambitious!」です。

しかしクラーク先生が呼びかけた言葉は、実はこれだけでなく「Boys,be ambitious like this old man」という言葉だったと言います。

これはわかりやすく私的に翻訳して言えば「若い諸君、皆さんはしっかり夢と希望をもって生きてほしい、この年をとった私でさえ夢と希望をもってアメリカからこの遠く離れた北海道にきたではないか。まして若い皆さんは」という意味だったと思います。

私が、20数年前ある私立高校を離れてこの札幌自由が丘学園の運動を始めたのはクラーク先生が北海道を離れた時の年齢と同じ52歳の年でした。

今一度、クラーク先生に代わって皆さんに言います。Boys and girls, be ambitious like this old man と。

言いたいこと、皆さんが理解できないはずがありません。私のような高齢の者が希望をもって頑張ってきたのだから若い皆さんもぜひ希望をもって進んでほしいということです。皆さんはいい心を持っている若者といいました。問題はこのスピリッツを貫こうという意志の力、意欲をどこまで堅持するかということです。

皆さんに訴えたいことの二つ目は、今年から18歳で選挙権が始まります。日本の未来を真剣に考えることのできる皆さんであってほしいということです。いくつかの物差しをもつことです。例えば、戦後70年間の日本を指し示してきた憲法をどう考えたらいいか、あるいは消費税が8%から10%になりそうです。これをどう評価したらいいか、など。自分と日本の未来を考えることのできる高校の卒業生であってください。

最後に、父母の皆さんに一言お話したいと思います。皆さんが愛してやまない息子や娘たちは本当に立派に育ちつつあります。そしてどの子どももみんな「高校を卒業することができたのはお父さんお母さんのおかげです」と父母への限りない感謝の気持ちをもっているのです。「自己文集」という卒業記念文集を作っていますが、これを読む機会がありました。「学校に行けないで悩んでいた自分を、また最初の高校をやめて札幌自由が丘学園三和高等学校に転校することを決めることになった自分を、ささえ励ましてくれました」と、父母への感謝の気持ちをみんなが持っていることを、私は知りました。

自分の苦しみや悩みを、これからに生かすことのできる立派な若者に育っています。

お父さんお母さん、家族の皆さん、子どもたちの卒業を祝い励ましてください。そしてまた「よく頑張ったね」と褒めてあげてください。

皆さん、私のお話は以上です。ぜひ自分一人の幸福だけでなく、世の中のためにもなる生き方を、希望をしっかりもって、高校卒業してからの新しい人生のステージで頑張ってください。卒業おめでとう。

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通信制高校、ピンキリがあるよ

札幌自由が丘学園三和高校 亀貝一義

ここ1週間ほどの間に、三重県に本部のあるWA学園高校という特区立(広域・通信制)高校のデタラメな教育内容と運営、そして生徒をエサにして修学支援金を得させて学校の収益にするというサギまがいのことが話題になり、「特区立の通信制高校などは要注意だ」といわんばかりのコメントがテレビの解説者などからなされている。

ニュースで知る範囲だからその問題点の具体的なかみはわからない部分もあるし、こういったいわば三面記事的なニュースについては十分に注意して認識しなければならないことは重々わかっているのだが、しかしだからこそ、私たちも言っておかなければならないのではと思っている。

いくつかの報道事項をいうと、たとえば日本映画を観て「国語」の授業に当て、洋画を見て「英語」の授業に当てる、つまりそれぞれの単位取得と認定するとか、USJに行って買い物をする際、おつり計算で「数学」の授業、夜景を鑑賞して「芸術」の授業、スクーリング行動中ドライブインで食事をして「家庭科」、等など。

それぞれの行為(教育活動)の中でなにがしかの生徒指導をともなわれていたのだろうが、どうも解せない。

全国40カ所以上のサポート校、1200人の生徒を擁する学校である。これを運営する会社は塾系の会社だという。教員免許状をもたない「教師」もサポート校などにはいたという。

この学校を認可した市の教育委員会は来年度新入生を入れることはダメ、また単位取得者も再履修が必要といっているようだ。

義家文科副大臣は「広域通信制高校の信頼性を失うことになる」と懸念を表明している。

私たちもまた広域・通信制高校を運営している。上に記したようなデタラメなことはあり得ないのだが、義家副大臣が心配するように「特区立学校など信頼できないのでは」という疑念が生まれることが心配である。「通信制高校、ピンからキリまで」と言いたい。

有名スポーツ選手が所属している通信制高校も本当に単位を取得できるような教育環境を保障しているのか、疑問を感じさせる学校もあるし、逆に生徒の実際に合わない授業をやっていて「高校教育を進めています」といいながら生徒の単位取得を困難にして中退に追い込んでいるような学校もあるかも知れない。

単に特区立とか通信制の学校に限らないテキトーな学校が(残念ながら)あることを、私たちは「他山の石」にしなければならない。

ピンキリのピンは1,キリは10を意味する。だから、ピンキリとは最低から最高までいろいろあるよ、という意味。ちなみに私たちの三和高校はキリに近い学校であると自負しているのだがどうだろうか。

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トレンディもいいけれど

フリースクールスタッフ 新藤理

 高村さんがお笑い芸人のことを少し前のスタッフエッセイに書いていたので、私も思い切って書いてみよう。
 初めに申しあげておくと、このエッセイは現在お笑い芸人として活動している弟についての文章です。恥も外聞も捨て、なんと今から職場のHPのコンテンツを利用して身内のコマーシャルを書きます。

 弟は東京で芸人をやっている。「ガリベンズ」というお笑いコンビだ。結成は2005年だというから、もう十年以上のキャリアである。ものまねバラエティ番組などを見ると、弟の相方である矢野さんがくりぃむしちゅーの上田さんの真似をしていることがあるので、もしかしたらご覧になった方もいるかもしれない。弟をテレビで見かけることはそうそうない。
 ......「2005年だという」などとずいぶん遠い他人のように書いてしまったが、正直なところ2005年の時点では本当に弟を遠い他人としか感じていなかった。東京の大学を卒業してすぐに芸人養成所に入った話、お笑いコンビ結成の話、どちらも一応知ってはいたが、弟から直接聞いたわけではない。母親からの電話で(しかもどちらも録音メッセージの中で)知ったことだ。「あのねえ、ミツルのことなんだけども、あの子お笑いの事務所に入ってねえ、ガリベンズっていうお笑いコンビ組んだから! お兄ちゃんからもなんか励ましたりとか、とにかく連絡してやって! あとたまには実家に帰ってきなさいよ! じゃあね!」
 お笑い芸人かー、あの弟が......と、携帯電話を片手に遠い目になった。記憶にある限り、昔から弟はクラスをギャグで沸かせるようなムードメーカーといったタイプではなかったはずだ(実際のところはよく知らないが)。お笑いを見るのが好きらしいということはうっすらと知っていたが、それこそ本当にうっすらとした認識である。まして自らステージに立って人を笑わせる仕事に就きたいという夢があるなど、微塵も想像しなかった。はっきり言ってそういう仕事ならまだ私のほうが近いタイプなのではないかとすら思う。お笑い芸人、ねえ。
 しかし、あくまで「遠い目」だけでおしまいである。励ましの連絡なんてことはしなかった。理由を聞かれても説明は難しい。とにかくそういう距離感だったのだ。だいいち、芸人の仕事なんていつまで続くかわからない話ではないか。「遠い目」に込められた形容しがたい気持ちは自分の中で放置したまま、私は始めて一年になる独り暮らしを謳歌していた。そういえば、そもそも弟の連絡先を私は知らなかったのだ。

 それでも、生徒と接していれば、「新藤さんってきょうだいいるのー?」と聞かれることはままある。
「いるよ。弟が一人」「えー、学生? 働いてるの?」「働いてるというか...東京でお笑い芸人やってる」「え!!?? 芸人さん!? マジで!? コンビ? ピン芸人?」
 生徒たちの反応はなかなか劇的だった。ガリベンズの名は瞬く間に(学園の中でだけ)有名になり、生徒たちは「動画見つけたよー」「弟さんのブログあったよ!」「コメントしたらお返事くれた!」などと逐一報告をくれた。意外だったのは「やっぱ兄弟だね、新藤さんに似てるわー」という声が多かったこと。それまで私は、やせ形でスポーツ好きの弟を自分に似ていると思ったことは一度としてなかった。しかし生徒たちは言う。「立ち方とかそっくりだよね」「あと腕ね! おんなじ!」...う、腕?
 不思議なもので、生徒たちにそう言われるとお笑い芸人の弟がいるというのはなんだかいいことのように思えてくる。みんなでガリベンズのネタ動画を見てみると、...たしかに似ていないこともない、ような気がしないでもない(話すときに首を前に出すところとか...)。何だかんだ言っても、「やっぱ兄弟」なのかなーという思いがほんのり胸をよぎる。そして驚くべきことに、爆笑を巻き起こすには至らないまでも、そのネタはちゃんと漫才になっていた。相方の矢野さんの力に助けられている面は多々あるが、何はともあれ弟がお笑いの舞台に上がっている光景は不思議とまぶしかった。

 生徒たちとガリベンズの話をすると、必ず最後には「会うことないの? 今度サインもらってきて~!」というリクエストが飛ぶ。まあ、遠くに住んでるからなかなかねえ...とごまかし続けていたが、それもだんだん申し訳なくなり、ある年ついに兄弟で日を合わせて帰省することとなった。ずっと生徒たちからサインをねだられてて...ということを口実に、かれこれ数年ぶりの再会を兄弟は果たした。家族に会うために一緒に来てもらった女性(いまの奥さん)も、「うん、腕の形だね。そっくりだわ」と感心していた。
 ひさびさの時間は、あっさりと、口数少なに過ぎていった。ガリベンズ新藤のサインは、なかなかこなれていた。

 それからさらに数年後。今でもそう頻繁に会うことはないが、時々あるガリベンズのテレビ出演情報は一応チェックするようになった。たいていは相方の矢野さんのピンでの出演だ。
 昨年末、はじめてガリベンズが所属する事務所のお笑いライブを観に行った。終わった後、弟と軽く食事をするつもりだったが、なぜか流れに乗って厚かましくも事務所の打ち上げに同席させてもらってしまった。
 まだまだ若い人、かつては歌手として活躍したけど今は笑いの道に進んだ人、中年まっただなかの年齢で頑張っている人。初めて会うお笑い芸人のみなさんは、それぞれに抱える屈託や不安をちらりと覗かせながら、それでもとても明るく気さくな方々だった。

 彼らは数ある職業の中から選択肢の一つとしてお笑いの道に進んだのだろうか。勝手な推測だが、きっとそうではないと思う。何かはわからないけど、「(たとえ生業としてはリスキーであっても)お笑いを、お笑いだけをどうしても選びたい」と願うだけの理由を持った人たちなのだと思う。そうでなくては、この仕事、あまりに割に合わないだろう。
 そんな道を選ぶセンスというのは、語弊を覚悟で言えばある種の生きづらさだ。どんなにお笑いブームだろうと、ほとんどの芸人が送るのは決して洗練されたトレンディな生活ではない。でも、私はそういう人たちに、なんだかたまらない愛着とまぶしさを覚える。ガリベンズに、そして芸人のみなさんに、さらなる希望と大きな笑いがもたらされますように。

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重い腰

桑名 八重

昨年9月に復帰しましたが、私事でお休みに入らせていただく前に書いた原稿をようやくブログにしてみます。                    今となってはちょっと前のではない話ですが、2014年の9月にSLに乗ってきました。

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秋の紅葉シーズンに2000年から土日祝日で運行されていた臨時列車ですが、2014年で運行がなくなるとのニュースを聞き(今後道内で走るSLは釧路号だけらしいです)乗っておかなくては!!
と、そのうちいつか乗りたいな~と思いつつ十数年、ようやく重い腰を上げました。

ニセコ号は札幌~蘭越(らんこし)間を走るのですが、札幌から倶知安(くっちゃん)までは指定席。しかも団体等によりまずはチケットが取れないのがいつものこと。
混んでてもいいからとにかく乗ろう!と普通乗車券で乗れる倶知安~蘭越間を往復することにしました。

当日の駅は家族連れでいっぱいでした。みんな考えることは同じなんだな~と思いながら、私も家族で往復約1時間ちょっとのSLの旅を楽しみました。
私にとっては初のSL。しかし同行した母や叔母は「昔は夜行もずっとこれだったよね~」「懐かしい~」と昔話に花が咲いてました・・・。

さて、今回ようやく乗車したSLですが、じつは以前住んでいた場所では年中週末にSLが走ってました。
週末の目ざましは汽笛・・・みたいな生活がしばらく続いたのですが、結局そこに住んでいる時は一度も乗らずに引っ越してしまいました。

何事もそうですが、日常に当たり前にあると人って「いつでもできるさ」「そのうちでいいよ」ってかなりのことを後回しにしています。
私も本当にそのタイプで、これまでも「後でいい」と後回しにしてきたことがたくさんあります。
けれど、今できることは今やっておかないと二度と機会がないこともたくさんあり、今になってどうしてやらなかったんだろう・・・って後悔がたまっています。

最近とくに「後で」「いつでも」って結局チャンスを逃すことだと感じることが多くなってきました。
だからこそ、思い立ったらできるだけ実行しようと思い、行動するようにしています。

あれやろう!これやろう!という気持ちも大事。「有言(思い?)実行」する実行力も必要だと思う。
ようやく乗車した念願のニセコ号で「重い腰」をもっと軽くしていきたいとつくづく考えたプチ旅行でした。

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お兄さん、トレンディだね

高村さとみ

 今、北海道新聞に「オトナ以上大人未満」という記事が連載されています。先日の記事はLINEの利用に関するもの。LINEのメッセージにすぐ反応しないと仲間外れにされそうで怖い、なので夜眠るまで携帯が手放せないといった高校生の話が載っていました。先生方がSNSトラブルの対応に追われている、というのもよく聞く話です。

 私はLINEが苦手です。

 自分に向けたメッセージが次々と届く、しかもすばやい反応を求められる、というところが苦手です。TwitterやFacebookは人の反応を求めない流しっぱなしのもの、メールは読んだことがわかる機能(既読通知機能)がないのでLINEほどに即時性を感じません。LINEで知らない間にメッセージが数十件たまっている...などとなると「うっ...」と引いてしまいます。そんなわけで最近はLINEを見ないように見ないように...と避けてしまいがちです。

 私はお笑いが好きです。

 えっ?さっきの話と全然関係ないじゃないかって?安心してください、つなげますよ。

 年末年始はほとんど家で過ごしていたのですが、本当にたくさんのお笑い番組がやっていました。おそらくここ数年の傾向だと思うのですが、たくさんの芸人さんが短い時間でどんどんネタを披露していく、という番組が多かったです。私はこのことに先ほどのLINEに近い「うっ...」とした感じを持ってしまうのです。

 このお笑い番組の形式はLINEでこちらが返事をする間もなくどんどんメッセージが届く様に似ていると感じます。おそらく、時間に対する情報量が私の許容を超えているのです。情報量/時間で算出した値が大きいイメージ。

 とはいえ家族もお笑いが好きなので、結局お笑い番組が居間ではかかっているのですが、笑って見ながらも何となく「情報化社会」「大量消費社会」という言葉が頭の片隅をちらついていました。あとはいわゆる一発屋といわれるような「最近全然見ないなぁ」という芸人さんを思い出したりすると、芸人さん自体を大量消費しているような妙な罪悪感も感じます。まぁ実際は芸人さんからしたら、テレビにでるチャンスが多くなってうれしいのかもしれないですけどね。

 時間に対する情報量の許容範囲、は人それぞれでしょうが、私はこのように「情報化」「大量消費」への慣れが中高生でよく言われるSNSトラブルにつながっているような気がしてなりません。相手に即時反応を求める・熟考させない、一面的な情報(文)だけで相手を判断する。これでトラブルが起きないわけありません。

 こうしたことを意識して、というわけではありませんが今の私の関心は「時間をゆっくり使うこと」にあるようです。野菜作りに燻製に着物、最近は手挽きミルでコーヒー豆を挽き、友人宅でコーヒー豆の焙煎も体験させてもらいました。時間や手間のかかることに魅かれるのは「情報化社会」「大量消費社会」への反抗ともいえるのかもしれません。

 2016年、本当の豊かさを追い求めて。というとかっこつけすぎですが、自分も相手も急かさず、忙しなくならぬよう、ゆるゆると過ごしていこうと思います。手間ひまが私のトレンディ。

 あけましておめでとうございます。

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2015年が終わる

                  NPO法人フリースクール札幌自由が丘学園 理事長

                         札幌自由が丘学園三和高等学校 校長   亀貝 一義

今日12月28日(月)、一般に言う「御用納め」。

誰もがいう「月日の経つのは早い」ことを実感する年末。今年はよく言われました、「戦後70年」と。

札幌自由が丘学園で言えば、フリースクールが1993年、高校が2009年のスタートだったから、いわゆる区切りの年ではなかったのですが、二つとも着実に年月を重ねてきていることは実感しています。

個人的な思い出ですが、1990年に「北の大地に自由と共同の学校」を築くべく決意して30年間勤めた高校を退職しました。この夢は多くの人たちの参加と協力で着実に広がり実を結んできています。これが「札幌自由が丘学園」です。来年2016年(平成28年)、この年を私たちはどう展望するか、と問われると、フリースクールも三和高校もこれまでつくり上げてきた誰もが納得できる学校の意義をいっそう明確に、そして社会的にも大きな実績を示していきたいと答えます。

全国的にも私たちと軌を一にする人たちと協力共同を築くことができつつあります。そういう積み上げが、今国会で議論されだした「義務教育の段階に相当する普通教育の多様な機会の確保に関する法案」(教育の多様な機会確保法案)です。

少なくとも小中学校段階で、一般の学校になじめない子どもたちの居場所・学びの場であるフリースクールを「公」(国、自治体、教育委員会など)が教育の場として認定しようという動きになっています。私たちの求めてきたものと同じでないにしても、不登校とフリースクールが全くノーサポート状態であったことを考えると大きな一歩になることは間違いありません。この法案では、この施策を実施するために財政上の措置を講ずるよう努める、とうたっています。しかしこの措置は法律制定後3年以内なのでちょっと先ですが、ある光は見えてきました。

三和高校への注目と認識も広がってきています。日本最北にしっかりと信頼を確保している通信制高校の役割はますます拡大しています。

来年2016年はこの二つの意義をさらにはっきりと輝かせる年にしていきたいと思う年末です。

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和寒町、三和高校の後援会を準備

札幌自由が丘学園三和高等学校 校長 亀貝一義

2009年にスタートした札幌自由が丘学園三和高等学校は、周知のように和寒町の認可による。また同町と高校の諸活動は深いかかわりをもってきた。例えば、スクーリングなどでは和寒で農業その他いろいろな仕事に従事している人たちが重要な役割を果たしてくれている。

先日の11月9日に高校から校長、副校長も参加した打ち合わせで、同町教育委員会が窓口になり「札幌自由が丘学園三和高等学校後援会」をつくるべく準備してくれていると報告された。そしてこの後援会は年度内に正式に発足できるはずだ。

この「会則案」によると、「目的」として「学校が行う夏季・冬季スクーリングなど」の受け入れや学校が行う諸行事等への協力を通じて「和寒町と同校の相互発展に寄与する」ことをうたう。

また「事業」として、「情報交換」「学校の行う行事・事業等への対応、協力を行う」とする。

これらの諸活動を推進する後援会の役員は三和高校本部のある三和菊野地区の自治会会長として、その他和寒の商工会、JA、体育協会、副町長、教育委員会の委員長や教育長などが連絡会議を開催する。

これまでもも何かと和寒町の支持支援が寄せられてきたのだが、今後はいっそう町と私たちの連携が深まることになる。私たちとしても、ギブアンドテイクという当然の原理を具体化するために町との具体的な連携方法を検討していきたい。いずれにしても、三和高校の教育実践上の成果を高めることになる。「地域と学校のつながり」などというよく言われてきた一般的なテーマをより深めることになるのだが、それが生徒たちにとっても、さらに父母との関係にとっても有意義な内容になっていくように努めていきたい。
  (20151112 記)

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「多様な教育機会確保法」の成立を期待したい

- 不登校の子どもたちの多様な学びを認めフリースクールへの公的支援体制を-

NPO法人フリースクール札幌自由が丘学園理事長 亀貝一義

先の通常国会で成立を期待されていたのですが、審議未了になりました。次の国会(臨時国会?)で可決成立が見込まれています。

これは「義務教育の段階に相当する普通教育の多様な機会の確保に関する法律(案)」というのが正式名称です。

これについて、私は10年間以上前から(1997年に札幌自由が丘が全道的に推進した署名運動が最初)「フリースクールで学ぶ多くの子どもたちの学び方を公認し、同時にこの学びをサポートしているフリースクールへの公的支援体制を確立すべき」と要求してきましたから、その経緯から言って、できるだけ早く成立されるように要望し期待しています。

国会では、フリースクールネットワークなどによって、超党派のフリースクール議員連盟が2008年に結成されて上記の趣旨を制度化するように取り組んできました。

この確保法案は、12万人にのぼる不登校の小中生のために、国と地方自治体の責任(地方教育委員会)で、学校以外の学び、居場所を確保しようという趣旨です。教育委員会などがこの方法を検討する際に、今不登校の子どもたちをサポートしている「民間の団体その他の関係者の相互の密接な連携の下に行われるようにすること」(第2条)という前提をもっています。

10月27日、文科省は昨年のいじめ件数が19万件、過去最多と発表しました。学校に行けない、行かない子どもたちはますます増えていくでしょう。この子どもたちにとって必要な居場所、学びの場としてのフリースクールの意味はさらに大きくなっていきます。

私は、明治以来の学校教育のしくみをもっと柔軟にすること、つまり公教育の微調整が必要と訴えてきました。すなわち「多様な学びの場、多様な教育機会」が準備されて当然ということです。この法案は、そのためにプラスになるものだと思います。

教育委員会が不登校の子どもの保護者に対する助言など、ある種の介入の面が生まれるかも知れません。そういう批判もあるようです。

しかしこれも例えば営利目的の「業者」の参入を抑えるという意味もあると思います。

法案の趣旨として「子どもの権利条約」の理念をうたっています。

私はこの法案はこれまでの私たちの取り組みの成果の面が大きいと思っています。

法案が成立してから、現実対応を具体化するために行政機関はフリースクールなどと緊密な連携を行うことも行っています。

今ある問題を一歩でも二歩でも改善できるようなしくみを考え、そのために可能な方策を考えていこうというこの法案に賛同するものです。

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ご自由にお読み下さい

高村さとみ

フリースクールは果たしてどうあるべきか。プログラムはある方が良いか。ない方が良いか。先日、双方の視点からの意見を聞く機会がありました。あまり詳しく書くことはできないのですが、「完全に自由、好きなことをやっていいと言われても困る」という意見がおもしろかったです。

えー。好きなゲームでもして、音楽聴いて。絵を描いたり料理したり、私だったらやりたいことがたくさんあるけどなぁ。などと私は思ったりするのですが、どうやらそういうわけにもいかないそうです。「やることをやった上での自由時間だから楽しめる」とも言っていました。なるほど。私も毎日毎時間毎分毎秒を好きにしていいといわれたら、今ほど自由時間を楽しめないのかもしれません。特別な楽しみである自由時間が日常化平凡化してしまうというか。でも自由時間もっと欲しい。

フリースクールでは「創造活動」という時間が週に2回あります。これは何をするかを自分で決める、という時間です。これまでには卓球、ギター、ねこ研究会やコント研究会などバラエティに富んだ活動がされてきました。しかし、確かに子どもたちが楽しみにしている時間ではあるのですが、「やりたいことがない」「何をしていいかわからない」という声もちらほらと出るようになりました。自分のやりたいことが特にないので他の子に合わせる、という子もいます。

今年、ある研究大会でキャンプ事業を行っている団体のお話を聞きました。もう20数年夏休みキャンプを企画していて、キャンプのスケジュールが数例資料に載っていました。それがとても極端なのです。昔のキャンプは分刻みのスケジュールです。○時○分にキャンプ場に到着→○時○分に荷物を置く→○時○分にテント設営の仕方を説明...等々。内容も子ども通貨を発行して、テントや料理の材料を競り方式で購入させるなど、とても凝っていました。しかし今年予定しているプログラムを見てみると、○時キャンプ場到着→自由時間、以上。とてもシンプルというかそれ以上に何もないというか。その団体の方のお話によると、「こんなプログラムをしたい」「あんな経験をさせたい」というのは全て大人のエゴなのではないかと思うようになったそうです。子どもはこちらが何も意図しなくても勝手に動き、勝手に学ぶのだと。テントを張る時間も料理のやり方も、子どもたちがそれぞれ考え話し合って決めればいい。信じていれば子どもは力を発揮する。とのことでした。なるほどと思ったのはそんなフリーダムな中に「キャンプ図書館」なるものが設置されているところ。テーブルに「サバイバル術」「野草図鑑」等々の本が並べてあるのです。全くのゼロの状態から発想していくのは難しいので、知りたいことを調べられるようにしているのだそうです。

自由に過ごすためには、その前段階の学びがいるのかもしれません。ちょっとお堅いかな。先ほど私が自由時間にしたいと書いたゲーム、音楽、絵、料理も「自分のやりたいことであると学ぶ」経験が過去のいつかにあったはず。恐らくプログラムのあるフリースクールは興味を持つものも持たないものもあるけれど、いろいろな経験をする中で自分のやりたいことを見つけ出す。プログラムのないフリースクールは何もしなくとも安心していられる空間の中で、人と関わりながら自身に向き合いながら自分のやりたいことを見つけ出す。

そう考えるとプログラムがあろうとなかろうと結局は同じところに行き着いているのかもしれません。

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本校の町「和寒町」が開村100周年を迎えた

札幌自由が丘学園三和高等学校校長 亀貝一義

三和高校の本校のある町、そして認可権をもつ和寒町が「開村」して100周年を迎えた。
この7月29日、同町開村100周年の記念行事があり、高校を代表してこの行事に参加し、お祝いの集いにも参加する機会を得た。
和寒に関係するたくさんの人たちの中には、札幌自由が丘学園三和高校と縁のある人も少なくなかった。スクーリングでお世話になるかたがた、役場や教育委員会のかたがた。お礼と挨拶を交わしながらこれからもまたよろしくとお願いと、語り合うことができた。そして和寒町では、「三和高校を応援する会」(三和校後援会)を企画してくれているとのこと。

和寒町の今の人口は4千人を切っている。ところで、資料によると開村した1915(大正4)年当時には7,700余人を数えていた。隣村の剣淵村からの独立だった。

90年前、開村10周年の記念式典(1925(大正14)年)の時、和寒村の人口は8,800余人で今の2倍を超えていた。特に除虫菊は蚊取り線香の原料であるが、和寒はこの重要な産地の役割を果たしていた。私が子どもの頃、この菊の白い花が畑一面に咲き誇っていたことを思い出す。

今、日本全体で人口減が進む。中央も地方も「再生」とか「人口増」を目標とした政策をもっているが、効果はいずれも芳しくない。どうしたらいいのか。

単純なことは、子どもを産めば産めばほど暮らしがよくなるようにすればいいのだ。子ども一人当たりの「手当」を、大人一人の初任給程度まで増やす。そういう政策はなくただ「少子化対策担当大臣」などをおいても「一人の大臣」ポストを用意してあるだけの話だ。

和寒村開村100周年記念行事に参加して気になったことである。

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