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沖縄に修学旅行中

亀貝 一義

昨日6日に発って11日に帰る日程の高2修学旅行は、今日は与論島泊まり。昨日、那覇についてひめゆりの塔に向かった。今でも、当時ひめゆり部隊として戦場にかり出された女学生たちの中で生きて頑張っている人たちが「語り部」として生徒たちの前で話をしてくれる。引率の田房さんのお話によれば、生徒たちは彼女たちの話を聞いて非常に感じ入っていたという。

1945年4月1日から始まる沖縄戦争を、映像でも文字資料を通じても事前学習を行った。

「らゆる地獄を集めた」沖縄戦争の悲惨さは、戦争というのはどこでも同じであったにしても、特にひどい状況だったとされる。4月から6月末までの約3か月間の戦争は、多くの住民をまきこみ20万人の犠牲を生んだ。

男子生徒・学生たちは「鉄血勤皇隊」として、女子たちは「ひめゆり部隊」として戦争部隊に組織された。沖縄は、当時の日本政府の考えによると本土決戦の「捨て石」の意味を持たされていた。つまり迫り来る本土決戦にそなえて少しでも時間をかせぐ(襲来を遅らせる)、また米兵を殺害することによる勢力を削ぐという意味だった。

修学旅行は、もちろん戦争の追体験ではなく、北海道にはない南国の風土を体験してもらうことも意味としてある。しかし若い人たちが少しでも十五年戦争を実感できるようにするなら沖縄は重要な意味をもっている。今年は「戦後70年」。若者たちが沖縄を体験することが、自分たちの人生の中のどこかに「戦後」を記してもらえればいいのではないか、と思っている。

来週修学旅行を終えた生徒たちがどういう感想を語るか、種々の意味で楽しみでもある。

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やめないよ

フリースクール札幌自由が丘学園

スタッフ 新藤理

 演奏が終わった。kitaraの天井から降る明かりはいつもまぶしい。そして、熱い。照明ひとつにつき電子レンジ一台分の熱を放つと聞いたこともあるから、相当なものなのだろう。夏場はいつも、吹奏楽コンクールに出場してこの熱さを味わっている。

 中学生のときに始めたトロンボーンをいまだに吹いている。初めて出会ってから、なんだかんだでもう四半世紀になるのだから驚いてしまう。中・高・大、そして社会人になってもしぶとく吹き続けているうちに、トロンボーンの演奏は自分の名刺代わりのようなものになっていた。聞く人によって好みは分かれるだろうけど、とにかくそこには自分の個性が詰まっている...そんな音を出せている気がしていた。つい数年前までは。
 実は今、まったくもってそんな楽しい音は出せなくなってしまった。所属していた吹奏楽団で8年ほどトロンボーンの席から離れて指揮台に上がっていた、その影響もあるとは思う。金管楽器の奏者にとって、ブランクは容赦ない障壁だ。でも、それにしたって、この2年ほどは自分も周りもびっくりするくらい、劇的に腕が落ちている。練習が終わるたびにため息をついて楽器を片づける私の姿は、端から見ればずいぶんと老け込んでいることだろう。
 2014年の2月にそれまでずっと続けてきた指揮の活動にピリオドを打ち、トロンボーン吹きに戻った。理由は書き出せばきりがないし、いくら書いたって全然うまく言い表せない気もする。ともあれ、指揮の活動を支えてくれた仲間たちには感謝しかない。でも、正直なところ、指揮者をやめるときにいっそ音楽活動自体もやめてしまおうかと思ったりもした。我ながらわかりやすい「燃え尽き症候群」だ。実際、2月の定期演奏会を終えて、次に練習所に顔を出したのは6月に入ってからだったと思う。つまり、うだうだしたけれど、やめなかった。

 2月の定期演奏会にはたくさんの学園関係者が足を運んでくれていた。とくに現役の生徒たちは、kitaraの大ホールで燕尾服を着て指揮棒を振る私の姿に大いに面食らったことだろう。普段のしまりのない新藤とは何かが違う。週が明けて日常の学園生活が戻ってきても、生徒たちはあれやこれやと感想を口にしてくれた。一人の男の子が「ねえ、あれ来年もまたやるんですよね!?」とうれしそうに聞いてくる。「いやあ、実はもうやめよっかなーと思っててさ」とは、言えなかった。
 
「そう、また来年の2月! 今度は指揮じゃなくてトロンボーンだけどね。次も来てくれな!」
 
ああー、またそうやって軽い約束を。でも、思えば結局この会話がずっと心に引っかかって、それで辞める決心がつかなかったフシはたしかにある。あの舞台の上で、どんなにヘタでもスランプでも、精いっぱい演奏する自分の姿をやっぱり生徒たちには見てほしいのだ。あれ、思ったより大したことないなあ、と思われてもいい。あきらめずに熱中できる何かを持つということを、形にして見せたいのだ。その後もことあるごとに「またコンサートあるんですよね!?」と念を押すように聞く彼の声に背中を押され、調子はまるで上がらないままに、それでもトロンボーンを手放すことはなかった。

 2015年2月。指揮台を降りてから一年。トロンボーン奏者として定期演奏会の舞台に立つ日が近づいてきた。
真っ先に彼に知らせた。
 「S介、今年の演奏会、もうすぐだよ!」
 
「......うわー、モンハンフェス(彼が大好きなゲームのイベント)とかぶってる!!」
 
...え?
 
「ほんっとごめん、今年は行けません」

 がちょーーーーん。

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自分と他人と

田房 絢子

先日、東京の生徒達が来て和寒でのスクーリングを行いました。

北海道に到着して和寒に向かうバスの中で、東京のスタッフがこんなことを言いました。

「自分と同じぐらい他の人を大切にしよう」

普段は顔をあわせないメンバー。心配も多々あるようです。

そんな中、旅の冒頭で頭に入れておいてほしいことの1つでした。

「他の人をたいせつにしよう」だけだったらこんなに心には残りませんでした。

自分を大切に思うこと、まず自分のことを考えてしまうのは人間の性です。

自己中心的ということでなくても、自分を基本にものを考えるのは当たり前のことですよね。

物事を主観的に考える、意識を持っているというのは人間に与えられた能力のひとつです。

自分をまず定位置に置くから、他の人のことや距離が見えるようになってきます。

自分を見ないと、他の人のことも見えなくなる気がします。

自分しか見えないようだと、他の人だけでなく、

この世の中のことがいろいろ見えなくなる気がします。

そして、大人に傷つけられたひとに出会いました。

どうしてそういうことが起こるのだろうと、不思議でしかない。

受け取り方が千差万別であったとしても、

客観的に考えて、あってはならないことってありますよね。

どうして同じ人間なのに、気持ちをわかってあげられないのだろう。

どうして、その言動の先にある、相手がどう感じるかって考えてあげられないのだろう。

どうして、「ごめんね」っていう真剣な一言で相手の傷を癒やしてあげられないのだろう。

他の人にどのように接したら理解できるか、

どのように接したら傷つけてしまうか、

どのように接したら受け入れてもらえるか。

どのようにしたら一緒に笑っていられるのか。

ちょっと考えてみたら、わかることも多いはずなのに。

自分だって、傷つけられたくなんかないはずなのに。

でも、自分だって傷つけているかもしれない。

自分と同じぐらい、他の人も大切にしなくちゃならないのに。

絶対に忘れてはいけないことなのに。

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スタッフにしだの生態②

安齊 裕香

2013年の10月にスタッフ西田の生態①をエッセイに載せました。それをおぼえていた生徒に、連載を!とのリクエストがあったのでまた書いてみます。

以前は西田家のこと、食生活の話などを書きました。西田家は全員顔が似ていると、要はこんな感じでした。

今回は最近の話を載せてみます。

西田さんは正直です。彼女の話、元彼女の話、聞かれたことはなんでも答えます。答え過ぎていて、同じ大人としてたまに心配になります。それは前からですが、最近は特にのろけています。何か質問をされると、ニヤニヤして答えてくれます。生徒たちはのろけている西田さんを見てそれだけで盛り上がれています。生徒の期待を裏切らない先生だと思います。

今年に入り、引越しをしています。引越し嫌いの引越し下手です。以前その引越しを冷かしに行きましたが、まさかの引っ越せる状態ではない中での引越し作業。仰天です。荷物が小分けで細かすぎる。手伝う身からしたらもっとまとめておけよッ!となります。いつもとても細かくきちんとしている人なのに・・・と思うばかりでした。

最近しいたけをなんとか食べています。好き嫌いが多い話は前にも載せましたが、最近は一番苦手なしいたけを食べました!!まだまだ大きめのものは難しいようですが、小さいしいたけを食べました。本気で拒否していたものを食べているのを見て、大人になってきたのかなぁと思います。33歳ですが・・・。

突然が多いのも西田です。突然引越しを決めたり、突然拒否していたスマホに替えたり、一度みんなの前で拒否したものを少し経ったら考え直しています。その後の西田さんは少し照れ笑いをしています。

それが最近の西田です。

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フリースクールのつくりかた

高村さとみ

 2年前に漂流教室の相馬さんが「フリースクールのスターターキットをつくりたい」と話していたことがある。先日、苫小牧フリースクール検討委員会が主催する「不登校について語りませんか」に参加して、いろんな参加者の声を聞くうちにスターターキットのあるべき姿が浮かんできたので、今回はその話を。

 苫小牧フリースクール検討委員会は、若者支援を仕事にしている人、不登校の元当事者や保護者が集い、苫小牧にもフリースクールをつくれないかと1年程前から話し合いを重ねている。苫小牧には市が運営する適応指導教室はあるもののフリースクールや親の会はない。適応指導教室が合わなくて...という子どもの選択肢のためにはやはりフリースクールはあった方が良いとは思う。実は最近、苫小牧だけでなく道内の数地域からも「フリースクールをつくりたい」という声があがっているのだ。

 しかしいざフリースクールをつくりたいと思っても、リスクの方が先に頭に浮かぶ。利用者は本当に来るのか。家賃や人件費をどう工面するのか。特に経済的なリスクは大きい。今現在フリースクールを運営している団体でも、経済的余裕のあるところなどないのだから。また、不登校といっても適応指導教室やフリースクールを利用していない子どもの方が圧倒的に多い。どのようなプログラムや形態が不登校の子どもにとって利用しやすいかなんてわからないのだ。強いていえばいろいろなプログラム・形態のフリースクールがあればあるほど子どもの選択肢が増えて良い。

 結論から言うとフリースクールのスターターキットはつくれない。運営がまわるような計画をつくるには家賃がいらない・人件費を削るなどの「特別条件」が必要であって、どこでも誰でも当てはまるようなキットとはいかないのだ。フリースクールをつくるには上記のリスクを超えるぐらいの思い切りが必要なのである。

 しかし、親の会であればどうか。というのが今回の苫小牧で見えてきたことである。親の会は、不登校の子どもを持つ保護者、保護者OBOG、不登校について話したい人等々がいれば成り立つ。場所は誰かの自宅でもいいし、月に一度どこかのカフェに集まってもいい。親が楽しそうにしていると、子どもが一緒についてくるときがあるかもしれない。焼肉やカラオケなんかの子どもが好きそうなプログラムを入れたっていい。定期的に行えば、子どもも親の会の時間が楽しみになるかもしれない。そこで友人を見つけるかもしれない。これはもう「フリースクール」といえるものである。ある程度の人数が集まり、子どもからの要望があれば会の回数を増やし、プログラムを考え...と発展させていける。実際にこのようにやっている親の会はあるのだ。このような考えを元に親の会のスターターキットをつくるとしたら...

・賛同する人が2人以上いる
・定期的な開催
・場所は自宅やカフェ、市民会館などを利用
・(大人にとっても)楽しいことをする

 こんなところだろうか。欲をいえば場所に関してはもっと地域の協力者がいてもよいと思う。店や施設で、使っていない時間帯に場所を無料で貸してくれるところ。例えば土日休みの福祉施設。例えば夜だけお客さんが入るごはん屋。そんなところが協力してくれるとよい。フリースクールをメインでやっていくのは難しいが、何かの片手間に子どもや親が集まれる場所をつくる、そんなところは地域に増えていってほしいところだ。

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「多様な学び保障法」を実現するための集会に参加して

亀貝 一義

6月16日(火)16時から16時45分まで、衆議院議員会館で、「多様な教育機会確保法(仮称)制定を目指すフリースクール等院内集会」が開催され、定員いっぱいの200名を超える参加者(「北海道から九州まで」)、16名の国会議員(顧問の河村建夫、座長の馳浩のお二人を含め)も来場されました。大きな盛り上がりだったと言えます。

私はNPO法人フリースクール札幌自由が丘学園の理事長の立場で、この会の趣旨である「多様な学び保障法案(仮称」の立法化促進を求める視点で参加しました。

法案の趣旨について、座長の馳議員は次のように発言しています。

「議員立法で、学習支援計画、理念的なもの、多様な教育を確保するための根拠法をまずは今国会で成立、来年の国会で文部科学省より各法として学校教育法を書き換え、経済的な支援に具体的に踏み込んでもらう」。

議員立法で想定されるものはあくまでも基本線だから、問題は成立以降どういうかたちで具体化できる執行条件をつくるかであり、参加者も皆口々に「皆さんのご意見を」といい、また「議論はこれから」とも強調されていました。

しかしいずれにしても、今後、「学校教育法第一条校」(一般の学校)だけでなく、フリースクールや外国人学校などで学んだ子どもたちも、これまでのように二重学籍でなく、正規の卒業扱いをする、ということになりそうです。ただ「フリースクール」であればどれであってもすべてOKということにはなりません。そこでフリースクールに関する基準をどうするか、はこれからの課題になります。

文科省の担当官も言っていましたが、「これからの作業」がまだまだ残っています、しかし一定のメヤスができつつあります。つまり、「多様な学びかた、多様な学校を前提として考えていこう」ということです。日本の学校教育の大きな転換のきっかけになることでしょう。

当日の簡単な報告、資料等はホームページにも掲載しております。

http://aejapan.org/wp/?p=474

ただこの法案に懸念を表現するグループもいてその発言もありましたが、私には大筋においてこの法案は歓迎されるものと思います。

私も札幌でのフリースクール運動の経験と札幌市のFS補助制度について短時間でしたが発言する機会をもつことができました。

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「フリースクールを容認」の動き

NPO法人フリースクール札幌自由が丘学園理事長 亀貝一義

5月28日、各新聞がかなり大きなスペースを割いて、超党派の議員連盟が「不登校の子どもの学びを支援するため、フリースクールなど学校以外の教育機会を義務教育制度に位置づける『多様な教育機会確保法案』を、議員立法で今国会に提出することを決めた」と報じた。

この「議連」というのは、自民・民主・維新・公明・共産などの議員約50名で構成されていて、「フリースクールへの公的支援を拡充する」として昨年6月に発足した。

これまで「フリースクール」というのは、いわば教育機関という意味でもなく、きわめてあいまいな存在だった。しかし、私たちの長年のフリースクールからの取り組み、そして各議会(道や市など)への公的支援の要請などによって、この存在がようやく認められてきたといってもいい。

もっともこれまでも不登校であっても、中学校の卒業は認定されてきたし、高校進学も「基準点」というハードルをもっていない高校であれば、進学は可能であった。しかし、中学校時代は不登校でした、という子どもにとって、これは口にすることは容易なことではなかっただろう。 だから、上にしたような「フリースクールを容認」という方向がはっきりすれば、「自分は一般の学校ではなく、フリースクールの札幌自由が丘学園に行っていた」と抵抗なく言うことができるようになるだろう。

なによりも、フリースクールへの公的支援の制度がつくられる重要な前提になるに違いない。今、札幌市が200万円以下のフリースクール補助金を支給するしくみを平成24年につくったが、この額もきわめて不十分であり、また札幌市が条例で決めた制度でもない(市長の「政策予算」のひとつ)。

私たちが1990年代後半から粘り強く道や国や市に要望してきた「フリースクールへの公的支援を」という目標がようやく陽の目を見ることができるようになるのだろうか。 あまり楽観はできないが、薄日を感じることができつつある。

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「桃太郎」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

「昔々あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは河へ洗濯に行きました。」

お馴染みのこの出だしで始まる桃太郎のお話。どうでも良さそうな冒頭だが、今回はここに踏みとどまってゆっくりと考えてみたくなった。

おじいさんとおばあさんはご高齢でご近所づきあいもあったのかどうか定かではないが、この後、おむすびころりんの様に他のおじいさんが登場してくる様子もないので、おそらくは山奥で二人でひっそりと暮らしていたに違いない。自給自足に近い生活を高齢でありながら続けていたのだろうと想像すると、日々、何を生業にして、何を食べて、何を着て、どんな家に住んでいたのか、日々必要になるエネルギーをどのように得ていたのかと考え始めると、非常に心配である。子宝に恵まれず、老夫婦だけでの生活を余儀なくされている状態は、福祉が発達していない時代には、そう長くは生きられない過酷な状況を意味することでもあっただろう。

「おじいさんは山へ芝刈りに」とあるので、木こりの様に山の木を切り倒して太い薪を得るということではなく、落ちていた適当なサイズの枝を拾い集めて日々の煮炊きに利用していたのだろう。細い枝は容易に手に入るが、薪の様に火持ちは良くないので、その都度拾いにいかなければならない。日々の生活を自分の体力の範囲で何とか繋いでいるように思われる。また、この芝は唯一の収入源だったのかもしれない。

「おばあさんは河へ洗濯に」とある。当たり前だが、全自動洗濯機などは存在しない。私達の生活では洗濯に行くことがその日一日の仕事にはならず、仕事の合間に行う家事の一つだ。しかし、衣服を持って川まで出かけて洗って絞って乾かすということは、相当な重労働で、少なくとも半日はかかったであろう。私も人生の中で洗濯機を使うことができずに手で洗って手で絞ってしのいだ期間があったが、ジャージを手で洗って絞って乾かすのには3日もかかったものだった。

いずれにしても、この二文から、昔話ののどかな風景も想起されるが、ご高齢の二人暮しの老夫婦が、十分な備えもない状態で、日々何とか命をつないでいる厳しさも伝わってくる。だが一方で、自給自足の生活をする限りは日々の生活をして生きていくことそのものが仕事であり、高齢であっても常に自分の役割を果たし続けることはできるので、現代以上に生きている実感はあったかもしれない。現代のシルバー人材センターでの雇用や退職金、年金での生活とは大きく異なっているにちがいない。

おじいさんとおばあさんは、おそらくは相当な貧困の状況にあり、今日の命をつなぐのに精一杯な生活の中で、河から流れてきた桃を運命的に発見してしまう。そして何と自らの手で迷う様子もなく喜んで桃太郎を養育することとなる。

この、子育てにかかる負担はいかほどであっただろうか。桃から生まれてきた桃太郎とはいえ、子育ての時点では鬼を退治をするほどの英雄になることはまだ誰も予想できなかったはずだ。ひょっとしたら他に親がいるかもしれない。悪人の血を受け継いでいて、手に負えなくなるかもしれない。愛情をかけて育てても、受け取らずに自分たちから去って行ってしまうかもしれない。

お婆さんは当然、母乳が出る時期ではなかったであろう。いちいち乳母を探して頼むか、粥を布にしたして飲ませたのか、24時間体制で赤ん坊を育てることにはどれほどの苦労があったろうか。腕は腱鞘炎にならなかったのか。腰痛にはならなかったのか。赤ん坊を背負いながら河へ洗濯に行ったのだろうか。また、お爺さんは食料や水、家の修復や衣服、日々必要になるエネルギー資源をどのようにかき集めたのだろうか。特に、桃太郎にかかった食費は並大抵の出費ではなかったはずだ。

桃太郎が大きくなっても、鬼ヶ島に行く際に友達がいた訳ではなかったので、交友関係はそう深くはなかったと思われる。桃太郎の日々の教育は学校ではなく、自給自足に近い生活を行っていることその物で、老夫婦から生きる術を自然と学んでいったのだろう。とはいえ、子どもは子ども。手伝いとして戦力になるには時間が必要で、老夫婦は日々の仕事で忙しい中、桃太郎の教育にも時間的なコストがかかり、収入を削減させることにはなっただろう。

鬼退治の際には、胴当て、前垂れを身につけ、そして立派な刀まで持っている。どうやって手に入れたのだろうか。お爺さんが昔武士でなかったとすると、ここでも相当な出費があったと思われる。そして、最後にはお婆さんは、惜しげもなくきびだんごを桃太郎に渡す。ひょっとしたらこれで、桃太郎が帰らぬ人となるかもしれない。老夫婦は自分たちの生活のために残って欲しいとは懇願しなかったようで、桃太郎の夢を励まして見送っている。

この物語がすごいのは、実は桃太郎ではなく、自給自足の極限の生活をしていた老夫婦が、どのような子に育つか全くわからないのに、迷いなく信じて子育てを実践したことではないかと感じる。与えるだけ与えて、見返りさえ要求せず、育ちたいと思う方向に沿ってあげることができている。

桃太郎はそのような老夫婦の献身的な愛情に応えて、信じられないようなわずかな兵力で金銀財宝を持って帰ってくる。それは、最初から老夫婦が期待したことではなかっただろう。

フリースクールにも、時々どんぶらこどんぶらこと桃が流れてくる。その子たちがどんな子なのか私たちにはわからない。しかし、いつも、彼らには犬、キジ、猿といった個性的な仲間ができて、わずかな兵力でそれぞれの人生という名の鬼退治へ旅び立っていく。そして彼らは時々、土産話という金銀財宝を持ってフリースクールに帰ってくるのでした。めでたし、めでたし。

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反省の色は何色

高村さとみ

 みなさん、今年も半分が過ぎました。時の流れが早すぎて恐ろしいです...。今回は自戒の意味も込めて半年を過ぎての反省を書きたいと思います。

 私は常日頃から「相手を批判したくなったときは自分を省みる」ことを心に留めています。その心は。

 人はいろいろな理由で人を批判したくなります。「人の話を聞かなくて嫌い」「気が利かなくて嫌い」「愚痴ばかり言って嫌い」...例を出せばキリがありません。でもちょっと待って!と心の中でささやきます。ひょっとしてそれは「自分の許容範囲が狭い」のでは??嫌いな相手と同時に「人の話を聞かないことを許せない自分」「気が利かないことを許せない自分」「愚痴を許せない自分」が存在しているのです。相手を批判するときは同じくらい自分を批判する覚悟をもたなくてはならないと思います。

 とはいえ、こうしたことを心に留めていていつ何どきも人を批判することのない心の広い私、なわけがありません。自分を省みなくては...と思っていても相手を批判したい気持ちが止められない時もあります。省みることを忘れてしまうこともあります。ただし、そういう時のパターンはだいたい決まっていて、自分に余裕のない時なのです。やらなければいけないことが積み重なって時間の余裕がない時。(高村は複数のことを同時進行で処理することが苦手です。)別な件に気をとられて心に余裕のない時。そんな時には自分を省みる余裕もなく相手の批判に向かってしまいます。わかっていても中々コントロールの利かないところです。

 今年に入ってからも何度も相手を批判する気持ちが起こり、後からそれに自己嫌悪して...ということがありました。よくよく考えると批判したい物事そのものの前に、何かしらの余裕を奪う出来事が起きているのです。「○○で余裕がなかったからな」と思えるのは相手も自分も批判することがないので気持ちとしては楽でいいのですが、残り半年間はもう少し自分を省みることを心がけたいものです。

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カレー・マジック!

 フリースクール札幌自由が丘学園スタッフ

新藤理

 もう何年も前に、このスタッフエッセイ欄「いかに昔からカレーが好きだったか」という話を載せたことがある。ひさびさに読み返してみると、「新藤も5月からは30代。健康に気を遣い、カレーはめったなことでは口にしない決意を固めたのだ」なんてことが書いてあって、あきれてしまった。
 今でも週の半分以上はお昼にカレーを食べている。昼どきに二階に行くといつも濃厚なカレーの香りが漂っている、と学園では評判なのである。そのかぐわしい香りを「カレー臭」と呼ぶ輩があとを絶たないのが腑に落ちないところだ(言うまでもなく、「あきれてしまった」というのはカレー断ちをしようとした昔の自分に対してではない。当時の決意などどこ吹く風でカレーを愛し続けている自分に対して、である)。
 ほくほく顔で食べていると、生徒が「ひと口ちょうだーい」と寄ってくることがある。むむっ、我が命のこのひと皿、気軽に頂戴とは不届き千万...と思うのだが、なんてことはない100円のレトルトカレーである。鷹揚に「うむ、ひと口だけじゃぞ」と分けてあげることにしている。特製ガラムマサラでいつも激辛に仕上げてある私の(レトルトの)カレーは、知らずに食べれば口から火を吹く者もいる。にもかかわらず「今日もひと口!」とつかの間の激辛を求めるリピーターは少なくない。そういえば三月にフリースクールを旅立った卒業生も、「感謝のしるしに」とレトルトカレー(辛さ20倍)をプレゼントしてくれた。カレーは人と人とを結ぶ魔法の料理なのだ。

 カレー好き、そして辛いもの好きが昂じて、一年ほど前からプライベートで「激辛部」という部活(?)のメンバーとして活動している。ふだんは同じ楽団で活動している音楽仲間たちの中から、「辛いものが大好きだけど、他人と食事に行くと自分の嗜好に合わせてもらうことはできないから寂しい」というメンバーが名乗りをあげて結成した集団だ。定期的においしそうな各国料理のお店を探しては「できるだけ辛いものでコースつくってください」とオーダーしている。韓国料理やタイ料理や四川料理やメキシコ料理、そしてもちろんカレー。お店の方も迷惑するかと思いきや、むしろ「辛いものですね、まかせてください!」と乗り気になってくれる。
 そんなふうに熱い活動を続けている激辛部の仲間の一人が、この春札幌を離れることとなった。大学の研究員としてオーストラリアのブリスベンに派遣されるのだという。ひとまず一年限定の研究生活だけど、業績をあげればきっとさらに広く世界中へと羽ばたけるだろう。何かにつけ気の合う彼とのしばしの別れは、誇らしくも切なくもあった。
 旅立ちを間近に控え、すでに部屋を引き払ってしまったため最後の数日は研究室で寝泊まりするという彼を、半ば強引に二晩我が家に泊めた。おもてなしには、心を込めた我が手作りのスープカレー。もしかしたらもう札幌で暮らすことはないかもしれない親友に、札幌の味を忘れずにいてほしいという気持ちから選んだメニューだった。
 寸胴鍋に満杯こしらえたスープカレー、手前味噌ながらしみじみとおいしかった。不思議と辛さは感じなかった。カレーを肴に、大いに飲んで語った二日間。思い残すことはありません、と言ってくれた彼を見送ったあとも、部屋にはスパイスの香りが残る。
 
カレーにまつわる思い出がこうしてまた増えた。人と人とを結ぶ魔法の料理。わりとまじめに、私はカレーに人生を支えてもらっている。ちょっと食べ過ぎかもしれないけど。

 この春自由が丘にやってきた小林さんも、近所に大好きなカレー屋さんをひとつ持っているという。札幌のフリースクール界隈にも、何人かの激辛好きがいる。オルタナティブ教育界の激辛部、結成しちゃおうかな。

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