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人のサイズ

田房絢子

人の髪の毛はどこまでも伸びるのに、眉毛やまつげに限界点があるのは

なぜでしょう。爪だってどこまでも伸びるのに、腕や足に生えている毛が

どこまでも伸びないのはなぜでしょう。

背だって、おいしいものや栄養のあるものをたくさん食べて育ったにも関わらず、

私は小さいままです。中学生から背が変わっていません。限界点です。

悲しいことに、小学校5年生の姪にすでに抜かされそうです。

人のサイズというものはおそらく決まっているのでしょう。

その後私となる、命というものが母のお腹に宿ったときから、

なにかしらの定規がすでに用意されていたのかもしれません。

このサイズを忌々しいと思ったことも多々ありますが、

やっぱりこれは何かしらの啓示なのかもしれません。

生を受けたからには、やはりそこには意味があるのです。

小さいサイズに囚われず、大きな心を持つ人間になりなさいとの意味があるかもしれません。

低い背に囚われず、高きゴールを目指しなさいとの啓示なのかもしれません。

と、いろいろ考えてみるのですが、考えたところで私の背は伸びません。

後はどうにかして横罫を短くするしかなさそうです。

横罫は努力でどうにかなります。

でも、縦罫には限界点があるのに、

横罫は無限だというのは理不尽ですね。

これもまた生を受けた者への何かしらの啓示なのでしょうか。

と、いろいろ考えてみるのですが、考えたところで体重は減りません。

努力あるのみですね。

さて、新しい一年が始まろうとしています。

来年また同じことを言っていないように、心機一転。

何個か目標を立て直したいと思います。みなさんはいかがですか??

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ヤンキーA君とにんじんゼリー

フリースクール札幌自由が丘学園 スタッフ

新藤 理

 久しく食べていないけど時々懐かしくなる食べ物の一つに、にんじんゼリーというデザートがある。原料はにんじんだけど、色も味もオレンジゼリーに似ていておいしい。久しく食べていないのは、なぜか学校給食でしかお目にかからないメニューだからだ。

 中学3年生のとき、教室の壁に貼ってあった「給食だより」の中でにんじんゼリーの作り方が紹介されていた。休み時間にぼんやりとそれを眺めていると、いつの間にか隣にA君が立っていた。Yシャツのボタン全開で、校則違反の茶髪リーゼントをふわふわさせて。
 今よりずっとマジメで気弱だった中3新藤は、普段ほとんど言葉を交わすことのないヤンキーA君の不意の登場に、大いにびびった(余談だが「びびる」というのは「驚く」「焦る」「萎縮する」「恐怖を感じる」といったニュアンスがぎゅっと凝縮された、実に便利な単語だと思う。正式な日本語になる日もきっと遠くはない)。びびって、不自然なほどに全身をビクッとのけぞらせてしまった。A君は「んだよ、そんなびびんなや!」といつもの調子で言う。僕があいまいな表情で(内心おびえながら)黙っていると、A君も黙ってしまった。
 「...うまそうだよな、これ」
 先に口を開いたのはA君だった。
 「え!? あ、ん、うん」
 「なんか、こういうのさ、自分で作れたらよくねえ?」
 「ん、うん、そう...だね...」
 その後もしばらく二人で黙って給食だよりを眺めていたが、やがてA君はフラリとどこかへ行ってしまった。たまり場の男子トイレに向かったのかもしれない。
 いろいろな思いにとらわれて、私は給食だよりの前から動くことができなかった。

 何とも取るに足らない光景だ。おそらくA君は覚えていないだろう。でも、気のせいかもしれないが、A君はあのときなぜか少し寂しげで、そのことが私は今でも忘れられない。

 ヤンキーにはヤンキーの、マジメ君にはマジメ君の、校内での「決められた立ち振る舞い」というものがある。もちろん生徒手帳にはそんなことは書いていないけど、それは校則以上に中学生たちの言動を規制する、不思議な呪縛力を帯びたものだ。あるいは鎧(よろい)のようなものと言ってもいいかもしれない。ヤンキーはいつも威勢よく、周囲を見下ろしながら在らねばならない。マジメ君はヤンキーたちの気に障るような言動を取らないことを前提に、同士たちとともに平和な盛り上がりを模索しなければならない。暴走族の活動が今よりはまだ盛んだった当時、そうした棲み分け・色分けは傍目にもわかりやすいものだった。
 「うまそうだよな、これ」と言ったA君の表情とトーンは、しかし、ヤンキーのそれではなかった。なぜそんな無防備なひと言をポツリとマジメ新藤に向かってつぶやいたのか、今でもよくわからない。にんじんゼリーがそんなにもおいしそうだったのか。ただ、あのときのA君が「決められた立ち振る舞い」から逸脱していたことは確かだ。まっさらなA君の姿、ヤンキーの鎧をはずしたA君の姿を、私は見たのだ。
 あの日以来、A君と新藤は何でも話せる仲になり...なんて美談では、ない。その後の新藤は受験勉強に追われて日に日に眉間のシワを深くしていくばかりだったし、A君は相変わらずの茶髪リーゼントだった。でも、だからこそ今でも思い出し、そしてちょっとだけ悔やんでしまう。あのとき、あからさまにびびってしまったこと、そして「うん、おいしそうだよね、ゼリー好きなの?」くらいの返事すらできなかったことを。

 マジメの鎧。ヤンキーの鎧。サラリーマンの、教師の、保護者の鎧。子ども大人も、人はさまざまな鎧で身を守って生きている。でも、24時間装着していると、気づかないうちに全身がバキバキになる。
 自由が丘の生徒たちが、あのときのA君のように、少しでも鎧を軽くして過ごしていてくれれば、と思う。そして、同じく鎧をはずした仲間に「いっしょにゼリー作って食べよう」と語りかけられる仲になってくれたら、なお嬉しい。

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「踵が上がる自由度」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

スキーというものは、斜面を滑るための道具だ。
「スキー」というと、ゲレンデでリフトを使って登り、斜面を滑ることを楽しむ、「ゲレンデスキー」と呼ばれるスキーを一般的には思い出すだろう。
ゴンドラや高速で登る4人乗りのリフトや等、私が小さい時には考えられなかったような素晴らしい施設が各スキー場には整えられている。子どもたちや大人が週末などを利用して、時間を忘れて楽しく過ごしている。
しかし、案外、そうでない様子も一方では見られる。週末にスキーをしにスキー場に来た家族が、スキー場の駐車場に到着するや、親は子どもたちに呆れたり、疲れたりした様子で、子どもたちを叱りつけている光景を、なぜか目にすることが多い。おそらくは、子どもたちがスキーに行くための準備を自分たちでしようとしなかったりしたこと等が原因だったのだろうか。
せっかくの週末を家族で楽しくスキーに来ているのに、残念なことだと思う。自分が子どもの頃にスキー場に親と行けるということは滅多にない、非常に贅沢なことだった。子どもたちも前向きにスキーに取り組もうとしてもおかしくはないはずだ。そして、親自身も、もっとスキーに来たことを楽しみにしていていいのではないだろうか。

私自身がスキーの乗り始めたのは、小学校に入る頃だった。
今から約40年ほど前の道具で、家も裕福ではなかったので、今のスキーとは比較にならない粗末なスキーを使っていた。
滑走面は、完全に木だった。ワックスだなんて洒落た物はないので、ロウソクを必ず塗ってから滑った。毎回塗らないと、雪が滑走面にこびりついて滑ることができなくなったものだった。
スキー靴も使わなかった。長靴を履いたまま、前半分を皮でできたベルトに差し込んで、もう一方のベルトを靴の踵側に回して締め付けていた。踵は固定されず、浮き上がるようになっていた。
ストックは確か、竹でできていた。2本揃う時もあれば、兄が使っている時は本数が足りなくて1本のストックを両手で持って、それで特に不自由も感じずに使いこなしていたように思う。
子どもの頃、スキーの役割は、斜面を滑ることよりも、主に平地の移動だった。
自転車が使えない冬場は、子どもは行動範囲が狭くなるが、スキーを使うと、楽しみながら、より遠くに行けるようになったので、子どもにとっては貴重な移動手段だった。
自分の家からスキーで出発して、仲間が集まっている斜面まで行き、斜面を滑って遊ぶ。リフトなんてないし、圧雪もされていないから、新雪の斜面を滑ったら階段登降で圧雪し、自分たちで徐々にゲレンデを広げていき、また滑る。徐々にスキー場ができていくので、徐々に仲間も増える。スキーに飽きたら、すぐにスキーを脱いで長靴のまま遊べた。尻滑りや柔らかい雪の上での空中回転など、スキーを中心とした雪まみれになる遊びを、子どもの頃に思う存分に楽しむことができていた。時間を忘れて、暗くなるまでたっぷり遊んだものだった。

私が中学に上がる頃にはスキー場もかなり整備され、各家庭が車を所有するようになっていた。
スキーの道具も目覚ましく進化して、ワンタッチで踵も着脱できる金具流れ止め、足首をしっかり固定できる現在のスキー靴と同様の物が登場して、どれも画期的だった。それまで滑ることが難しかった急斜面などもスムーズに滑ることができるようになった。私もそんなゲレンデスキーの素晴らしさに夢中になった者の一人である。そのせいか、私の世代の子どもたちはスキーの滑走技術を身につけることには非常に貪欲で、パラレルやウェーデルンができるようになることは、友達との間で大きな勲章だった。家は貧しかったが、他の物を買わなくてもいいから、性能のいいスキーだけは何とかして購入してもらおうと親に懇願していた。
ところが、私の息子と娘などは、上手に滑るようになりたいとはほとんど思わず、楽しんで滑ることができればいいと割り切っている。何度も滑り方を直して、上手に滑ることができようにアドバイスしてやりたかったが、息子たちは本当に関心がなかったようだ。スキーに対する思い入れは自分の時代とは異なっているのだろうか。

私が子どもの頃は苦労して苦労して近くの斜面まで踵の上がるスキーを使って移動して自分で圧雪してスキーを楽しんでいた。
しかし、文化の発展と共に、車で移動して、リフトを使ってより高い山に登って、より発達した道具で急斜面を滑ることができるようになった。
今考えると、自分達の世代は、文化の発展とリンクしながら自分の成長も感じることができた、これはこれで非常に恵まれた世代だったのだろう。
私は結局、ゲレンデスキーでは飽き足りず、再び踵の上がるクロスカントリースキーに没頭するようになり、47歳になった今日でも童心に帰って毎週スキーで外遊びを楽しんでいる。今年の2月に行われた湧別原野85kmスキーマラソンにも出場して4時間台でゴールすることができた。人生は全て学びで、生きている限り成長し続けることを改めて実感した。これらは用具の進化と共に自分の成長を噛み締められたことも影響しているかもしれない。

今の子どもたちも、本当は、自分の手の届く範囲で、自分のやりとげられる範囲の中で達成感や冒険心を高めながら自分のペースで成長していきたいのだろうと思う。しかし、可哀想なことに、現代社会で道路でスキーに乗ることは、間違いなく咎められてしまうことだ。また、通常の靴で履けて、踵が上がる自由度の高いスキーは一般的には存在しない。つまり、多くの場合、スキーは、スキー場でしかできなくなってしまったのだ。また、近所の坂で遊んだとしても、スキーを脱げば足首が固定されてしまっているので、まともに歩行することもできない。だから、大人が用意した自家用車で連れて行ってもらえない限り、子どもたちはスキーを楽しむことができないのだ。自分がスキーで遊びたいと思った時にはできず、週末なって今日はスキーに行きたくないと感じても、親との約束は守らねばならない。秩序のあるスキー場では尻滑りも空中回転もできない。型にはまった遊び方はできても、子どもが本当にしたいと思っている「雪にまみれた遊び」はなかなか実現していかないのだ。そのような中で、大人が想像するスキーと、子どもが経験してきたスキーとではズレが生じているように思えるのだ。

私たちから考えて、たくさんの「良い」と思われる条件を整えたレールを子どもの前に敷く。
子どもたちは喜んで、主体的にこのレールに乗っている場合もある。
しかし、ここはいつも噛み合っているとは限らない。
このレールと、子どもの本来の歩みにズレが生じることがある。

若者にはレールがなければ指針を見失うので、道を見失うことがある。
しかし、指針が形骸化して義務的になれば、今度は歩みの自由度を失う。
学習には動機づけが必要だが、義務感が動機づけとして先行する学びとは何なのだろう。
現在の学校教育がその端的な例である。
学習指導要領は学びを進める上で指針として重要だ。だから、方法を示すためのもので「要領」と読んでいる。しかし、法的に拘束力を持たせた時点で、子どもの心からは遊離してしまった。
優れた方法で指導するための子どもには秘密の虎の巻だったのに、拘束力を持たせることで、教育内容や子どもを枠にあてはめて身動きが取れない状況をつくってしまっている。踵が上がることをゆるさなくなってしまったために、制限のある、自由度が低い活動しかできなくなっているのだ。

秩序が多く、何事にも制約が多くなってしまった現代に、もう一度踵の上がるスキーを復活させることは非常に難しいことである。しかし、こんな話を書いている内に、何だかこの金具が欲しくなってきた。
「カンダハー」と呼ばれていたこの締め付け具、まだ通信販売などで売っている。
このスキーで自宅の江別から札幌までの冬の通勤を毎日通うことができれば、巷で話題になり、道路交通法も見直され、ひょっとしたら北海道の冬の市民の脚として浸透する時代がくるかもしれない。

よし。来年のフリースクールのスキーの授業は、「カンダハー」で通学することからはじめよう!(本当か?)

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 ↑「カンダハー」と呼ばれていた締め付け具。

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とりあえず口に出してみる

高村 さとみ

 昔々、私が高校生向け教材販売の営業をしていたころのお話。「ビンスパ」という用語がありました。先輩から初めてこの用語を聞いた時、スパゲッティサラダの一種かとのんきに想像していましたが、よくよく聞いてみるとそれは「貧乏スパイラル」の略語なのでした。貧しい家庭で育つと教育にお金をかけることができないのでその子どももまた貧乏になる、という意味です。明け透けな物言いですが、当時職場で話されていたことをそのままに書きました。また、飛び込み営業で市内のいろいろな地域をまわるので、地域事情も情報交換していました。「あの地域は生活保護世帯が多い」「あの団地は母子家庭が多い」(ので、契約が成立しづらい)などなど。

 その後、フリースクールに勤めるようになると、決して安くはない授業料を払ってフリースクールを利用する家庭、しかも厳しい経済状況の中何とか授業料を出して子どもをフリースクールへ通わせる家庭を見るようになりました。言わずもがな団体の運営も厳しい。

 フリースクールに勤めて丸5年。4月からは6年目。この状況は変わらないどころか年々悪くなっているように感じます。悪い意味で、今は貧困ブームかといえるほどにあちこちで貧困の話を見聞きします。数年前までは子どもに何か課題でもあるとすぐに発達障害の話が出ていましたが(それもどうかと思いますが)、それと同じように今は貧困につながっていくのです。犬も歩けば棒にあたるのリズムで、高村が出会えば貧困につながる。母子家庭、生活保護世帯、不登校、引きこもり、非行、ニート...etc、こうした子ども若者に対して学習や就職、居場所支援をする団体と出会ってきましたが、根っこで共通となるテーマが貧困なのです。

 その人ただ一人の課題であれば、それはその人の課題だと言うことができるかもしれません。しかし、同じ課題を持つ人が複数人いたならば、それはもはやその人の課題ではなく社会の課題であると私は思っています。こうした社会的な課題も「自己責任」として片づけてしまわれがちな風潮は本当に残念です。各団体それぞれががんばっていても埒があかないとも気づいてきました。社会的課題を訴えていくには複数でまとまって声をあげるのが定石です。

 さて、話が長くなりましたが実はこれらはすべて前ふりです。今年、子どもの貧困をテーマとしたイベントを何かしたいと個人的には思っています。ちなみに子どもの貧困は「貧困により何かしらの困難を抱える子ども」の要約ぐらいに考えています。ただ、これをテーマにするには私がまず貧困についてもっと学ぶべきであるし、社会に訴えていくイベントにするならいろんな団体の協力が不可欠だし、それならそれらの団体でネットワークを組むべきだろうかなどなど始める前から想像が壮大になりすぎて尻込みしているようなところもあります。ただ、いろんなところでこのように「イベントやりたいなー」と口に出しておいてみると賛同者があらわれる気がして。あと私自身にも「やらなきゃ」と暗示がかかる気がして。とりあえず口に出せば叶うのかもしれない。どなたかよろしくお願いします。

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「新教研」(自由が丘)運動をともに創った鈴木秀一さんの死

NPO法人フリースクール札幌自由が丘学園理事長 亀貝一義

多くの教育に関係する人にとっては忘れられない人だと思います、鈴木秀一さんという人は。
この鈴木さんが2月26日に逝去され(ガン系の病気だと聞いています。85歳)、家族葬等すべて終わってしまったところで私も知ることができました。そして「自分の死に関することがら(葬儀やその後の「偲ぶ会」的なもの)は無用」という意志を伝えていたそうです。

私にとっては忘れることができないお一人でした。札幌自由が丘学園運動を創設したいわばグループのリーダーであった人です。北大名誉教授の肩書きをもっていたことから分かるように元北大教育学部長だったし、私が学生時代に、北大に赴任してきた少壮気鋭の青年教師でした。

私が札幌自由が丘学園運動のきっかけを創ったのは、1986年4月4日、北大教育学部の鈴木秀一教授研究室で「今の教育状況に対してある種の問題提起ができないものでしょうか」と相談かたがた懇談しあったことでした。これをきっかけにして「新しい教育・学校をめざす研究会」を結成しました。鈴木さんが代表、私は事務局長に就任し、月1回の研究会(新教研)を行ってきました。この中で、「ただ議論するだけではなく実際に学校づくりをすすめよう」というグループの討議のもとで、「清水の舞台から...」の気持ちで私は高校教員の仕事を辞め札幌自由が丘学園づくりに進んだのは1990年のことです。そしてほぼ同時期、鈴木さんは北大から(多分行動しやすくしたいという理由だったと思いますが)私立大学に移籍されました。

1990年5月19日、北区のサンプラザで「鈴木秀一・亀貝一義 両先生を励ます会」を、当時の道中小企業家同友会の大久保尚孝さん、北大教育学部長の高村泰雄さんなどの呼びかけで開いていただきました。今となってはそういう過去のイベントを私たち二人のその後の意味の再確認として思いを深くするところです。144人もの方がたの参加をいただきました。

2013年11月1日の札幌自由が丘学園創設20周年記念行事で、ステージで語り合った菊地大さんや吉田弘さんが草創期の仲間でしたが、このトップが鈴木秀一さんでした。

(鈴木さんの功績はもちろん自由が丘運動への貢献だけではありません。いわば北海道の民間教育運動の総括的なリーダーでもあったことを特筆しておきます)。

札幌自由が丘学園の活動を展開していく中で、鈴木秀一さんが代表を務めていた「北海道自由が丘学園をつくる会」とは、種々の理由で事実上袂(たもと)を分かつことになっています。しかし鈴木秀一さんとの出会いがなければ今の札幌自由が丘学園は、多分なかったかも知れません。そういう意味では、鈴木さんの死に対して感慨無量のものがあります。

※ なおどこかの時期に「偲ぶ会」的な集いが鈴木さんの「教え子」諸兄たちによって企画されるかも知れないとのことです。

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三和国民學校の「六年間」の「精勤證」

札幌自由が丘学園三和高校 校長 亀貝一義

私の手許に小学校卒業時にもらった一枚の「精勤證」がある。「北海道上川郡和寒村立三和小学校」が証明してくれた賞状だ。

このひと月間、何度も和寒町の三和高校の本部に行く機会があった。先日も真冬の様子もつ本校に行ったときしみじみ思った。当時の言葉でいえば約半里の道を今のように除雪も行われていない雪深い道を歩いて通学したものだ、と。半里というのは約2キロである。

雪も今よりはるかに多かったのではないだろうか。腰までうまりながら雪を「漕いで」通った。大雪(おおゆき)の日は地域(当時「部落」と言っていた)の人たちが交代で馬に圧雪用の小道具(7~80センチほどの大きさの丸くて厚い板の固まり。これをタマと言っていたように記憶しているが)を引っ張らせて、子どもたちが歩くことができるように道をつくってくれた。馬たちは深い雪の中をおなかまで埋まりながらハーハー息をしながら道をつけてくれた。

そんな冬の通学を体験しながら、私は小学校卒業まで「精勤」だった。他にも何人もいただろうけれど、小さな「誇り」である。

この時の賞状がどういうわけか「三和國民學校」の賞状である。昭和25年だからとっくに「小学校」であったのだが、古い賞状用の紙がまだ残っていたから使ったのかも知れないが、今調べてみるとヘンな話である。しかししっかり学校印があるから偽物ではない。

(精勤證だけでなく「努力賞」ももらっていたが)。

「皆勤」でなく精勤であったから6年間に数日は欠席したはずである。しかしそれにしてもほとんど休まず文字通り雨の日も風の日も雪の日も休まず通った。

中学校3年間も「精勤」だった。中学校までは片道約3キロだった。

高校時代はそういう賞はもらえなかった。ひと月以上「登校拒否」したことがあったからだ。

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心新たに考えること

学園長 杉野建史

あっという間に2014年が終わり、年が明けました。また新しい年の始まりです。私がこの学園に関わり始めて20年目を迎えました。あっという間の20年でした。

昨年末、大学時代の先輩や後輩と会う機会がありました。なかには卒業後はじめて会う人もいて、なんだか20年前にタイムスリップしたように感じられた時間でした。卒業した大学柄、教育に携わる人が少なくなく子どもに関するいろいろな話ができたことがとても嬉しく感じられたのです。大学で教鞭をとっている後輩がいて、「いまどきの学生」についても聞くことが出来ました。とても若くて人生これからの大学生もじゅうぶん「子ども」で、その子どもを取り囲む環境の変化や、勿論時代の変化に起因する苦労話が聞けたことは私にとって大いに刺激となり、自分がなすべきこと(自分がやりたいこと)を改めて浮き彫りにしてくれた貴重な話でした。

今一度、義務教育と高校教育について深く考えようと思いました。

義務教育の機会を失いかけている子どもがいます。義務教育を十分に受けられず、それでもなんとか高校に入学し高校教育を受けている子どもがいます。「人が歩く道は人それぞれ...」で片付けられない現実が目の前にあります。もしかしたら、私がこの仕事に携わってからのおよそ20年で何も変わらないまま「不登校」という現象が起き続けているのかもしれません。後回しにされた義務教育を高校教育が何とか補っているのかもしれません。

自分の見聞を広める年にしたいと思います。これまでのものの見方や考え方を検証する必要があるかもしれません。また、自分のやりたいことを叶えるための方法をできるだけ多く見つける事が必要です。20年目を終えるとき、「やれたことリスト」にたくさんの✓印が付いているように出来ることを出来るだけやり抜くことを心新たに考えたのです。いつも心に言い聞かせている「自分でもできる」、「自分だからできる」ことを一生懸命やり抜く所存です。

本年もフリースクール札幌自由が丘学園、札幌自由が丘学園三和高等学校を宜しくお願致します。

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変わらないために人は変わる

高村さとみ

 年度終わりまであと3か月。フリースクールでも卒業を意識する時期となってきました。毎年この時期は卒業文集のために卒業生へのメッセージを送っています。「次のステージでもがんばって」「進学先でも...」「新しい環境でも...」と拙筆のため毎回似通った文章になってしまうのですが、このような転機は学生にばかり起こるものではありません。人生の転機について最近は考えています。

 もう少しで私も29歳。周りの友人たちは結婚・出産・転職と様々な転機を迎えています。私自身はどの予定もないのですが、もしもこのような転機があるとしたら...。想像するととても恐ろしく感じてしまうのです。特に女性は育児と仕事の両立など悩むところも多いはず。なのに友人たちはいとも容易く転機を受け入れているようにさえ見えてしまいます(実際はそんなことはないのでしょうが...)。今の生活が変わるということは、例えば誰かと別れること。例えば新しいことに挑むこと。例えば時間の使い方が変わること。私にはそのいずれもできそうにないように思えます。こんな思いでは転機など迎えられそうにない。むしろ恐ろしいものなのだから、変化などしたくない。そんな風にも思ってしまいます。ぬるま湯に浸かるようにこのまま変化なく過ごせたら。しかし、変化が恐怖なら変化しないことは苦しみです。私は変化したくないのではなく、変化したい気持ちもありながら動けずにいるだけなのですから。

 タイトルの「変わらないために人は変わる」とは。私が恐ろしく感じている「変化」をしないために、実は人は違った「変化」を受け入れているのではないか。という話です。例えば結婚は好きな人と生涯を共に過ごすということを変化させないため。例えば転職は仕事内容や労働条件を妥協しないため。人は人生における変化させたくないものを守るために、変化しているのかもしれません。それはきっと自分の中で譲れない、信念や志と呼ばれるもの。

「変わらないために人は変わる」

 私も変化を恐れるばかりでなく、信念や志を見つける1年としたいです。

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「選べなかった年」に

フリースクールスタッフ 新藤理

 今朝の道新に、社会学者の大澤真幸氏が小論を寄稿していた。「2014年という年は『日本人が自ら何も選択しなかった年』として振り返られるだろう」というその内容に、いつもこの人の論は明快ですごいなあという思いと、その「日本人」の中に間違いなく自分も含まれているのだという胸苦しさの両方が去来した。
 「何も選択しなかった」という状況を端的に表すのが先の衆院選だった、と大澤氏は書く。降ってわいたようなあの選挙は、たしかに国民に何をも運んでこなかったという感が強い。でも、私たちには自らの希望を(「ぜひこの人に」というより「まだこの人のほうがマシ」という選び方ではあっても)表明する権利がある。今よりほんの少し、私たちそれぞれが社会のありようについて踏み込んで考えてみればいろいろなことが変わっていくかもしれないのに...と、衆院選での投票率の低さを残念な思いで振り返りながら新聞を読んでいた。

 しかし、考えてみれば、そもそも自分はどうして選挙に行くのだろう。「国民の権利だから」「社会をよりよくするために」という理由はもちろん正しいけれど、なんとなく模範解答でありすぎるという気がしないでもない。以前このことをちょっとじっくり考えたことがあって、結局それは「家族がいて、家族のことを愛しているから」ということと「教育の仕事をしていて、生徒たちに選挙に参加する自分の姿を見てほしいから」という二つの理由に落ち着いた。まあこれはこれで無難な答えになっているかもしれないが、私にとってはそれなりに切実な命題だ。
 ならば、と逆に自らに問う。もし教育の仕事をしていなくて、家族も持たない孤独の身だったとしたら、それでもお前は投票所に行くのか、と。実は、この問いへの答えは未だに出せないでいる。たぶん私のことだ、どんな仕事をしていても経済的に裕福に暮らしているということはないだろう、でもその時に「経済を立て直してくれる人に一票入れに行こう」という気持ちになるだろうか。なんだかあまりならないような気がする。あるいは、「世界の平和に貢献するであろう人に一票を...」「福祉の充実に力を入れる人に...」どうだろう。やっぱりそれほどピンと来ないかもしれない。結局のところ、私が少しでも公民的な存在として社会をより良くしていきたいと思う願いは、家族や生徒たちなど私のそばにいる人たちの存在によって成り立っているものなのだと思う。
 現実には、そうした隣人たちを持たない人だってたくさんいる。そしてその中には(私がそうだったかもしれないように)選挙に対するモチベーションが湧かない人もいるだろう。彼らに向かって「投票率が低い! 意識が低い!」と大声で責め立てることは私にはできない。ただ、何かを変えられないだろうか、とは痛切に思う。私がこうして教育の仕事をしていることが潜在的に「何かを変える」ことにつながっていればいいのだけれど...と、ひとまず一縷の望みを託して日々を送り、気づけば2014年が終わろうとしている。

 そんなわけで、いつもつくづく感じていることだけど、新藤の今のありようは、大人も子どもも含めた周りの皆さんのおかげによってできているものです。皆さんがいなければ自分は何者にもなっていなかったんじゃないか、本気でそう思います。長くてしまりのないこんな文章を最後まで読んでくださったあなたであれば、その「皆さん」に含まれている可能性が十分にあります。今年も一年、お世話になりました。2015年もどうぞよろしく。

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うま

安齊 裕香

やってきたこの時期。

札幌もとうとう雪が積もりましたね。

今年が終わりますね~。

年末近くなっての楽しみの1つは競馬です。

最近のマイブームです。印象は良くないと感じる人もいるでしょうが・・・。

かわいいもんです。お友だちと『馬部』を作って土曜の夜に次の日のレースの会議。

その程度です。

大人になって、仕事して、結婚して、学生時代ほど友だちと遊ぶことがなくなってきて、なんか友だちと遊ぶのに飲みにばっか行くのもなぁと思ってきた矢先でした。なんとなく"G1のみ1000円だけ"のルールで始まったのです。

やってみると馬部の勝率はなかなか。わりと誰かは当たっているのです。

大学の頃にも少しやっていたけど、久々に真剣に考えているG1レース。

みんな毎回真剣なんです。毎回4人~6人くらい集まってみんなでスポーツ新聞みながら予想するという。いつもお酒は誰も飲もうとしないし。競馬というよりこの時間が好きです。あーだこーだ言いながらみんな真剣なのです。

なにかに向かって真剣になれている時間と、なんとなくみんなが集まっているこの時間が好きです。G1前の土曜の夜は集合です。

さぁ楽しみな年末の有馬記念。

投票もしました。

年末ジャンボも楽しみだけど・・・。

そんなことばかり言っていると、私ギャンブルしかやらない人みたい。

そんなことないです。

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