金澤拓紀
前回のエッセイで、生活保護を受けながら、世の中の役に立つこと、例えば、街に落ちているゴミを拾うボランティア活動に従事するだとか、そういった働き方、生き方があってもいいのではないだろうか、ということを投げかけた。
しかし、世の中の大半はそうした見方をしないだろう。働ける能力があるのなら、働いてお金を稼げということになる。
あくまでもこの場合、「働く」とは「お金を稼ぐ」ことであり、お金を稼ぐことのできる働き方、生き方を模索することがまずは前提条件として求められる。
そして、どうしてもそれが実現できそうもないと認めてもらうことができて初めて、生活保護や年金が支給されるというのが現状の仕組みであり、世の中の常識となっている。
でも、ちょっと待ってほしい。
労働力人口に限ったとしても、果たしてお金を稼ぐ機会を求める人の数だけ、そうした「仕事」を用意できるものなのであろうか。
経済成長を前提とした政策はいかにも眉唾ものであり、企業が競争社会を勝ち抜いていくためには、人件費の削減が至上命題となっている。
財政赤字が膨らむ一方の政府に対しても、公務員の人件費削減を望む声は根強く、雇用対策としての意味合いを強く含んでいた公共事業も、今は目の敵とされているような状況だ。
産業革命以降、機械化やオートメーション化が進んで人手はどんどん必要なくなってきており、今はそうした技術をフルに活用するなら、全労働力人口の4分の1程度ですべての生産ができてしまうといった報告もあるぐらいである。(現に日本の第3次産業就業者数は、2005年の国勢調査で既に67.2%にまで達している。)
すなわち、現代人の多くは、自給自足生活を営むのでなければ、サービス産業に従事することができない限り、失業者にならざるを得ないのであり、こうした事実を見据えない限り、「雇用を守れ」といったところでどうしようもないのではないだろうか。
お金を稼ぐための「仕事」というものが、人の役に立つものなのかどうかを問う以前に、「ビジネス」として成り立つのかどうかを問い掛けてくるからである。
公共性の高い事業といえども、財政収支のバランスが問われる以上、「人の役に立つから」「必要としている人がいるから」という理由だけで税金が投入されるわけではない。
ところで、この世の中に必要な「仕事」や「役割」といったものは、全て「お金」という価値に換算できるものなのだろうか。
そもそも、私たちが当たり前だと思っている「お金」というものについて、私たちはどれだけ知っているのであろうか。
「お金」はどこから生まれ、何によって保障されているのか。「お金」は既に完成された仕組みであり、何の疑いを抱くこともなく享受して構わないものなのだろうか。
この問題を考えることなしに、「自立支援」のあり方を考えたところで、焼け石に水なのではないかという気がしてならない。
もっといえば、「働かざる者も、まずは食うべし」というのが最近の私の直感である。この続きはまた次回。
「お金」とは一体何なのか、という先ほどの話であるが、興味がある方はちょっと面白いサイトがあるのでこちらをご覧になってみてほしい。
「Money As Debt(負債としてのお金)」
47分とちょっと長いが、私たち人類が「お金」というものを便利な道具として使いこなせるようになるためには、どうもこのことに気付くことから始める必要がありそうだ。