2010 年 8 月 のアーカイブ

2010 年 8 月 31 日

日常と非日常

安齊裕香

 先日、東京出身の知人が北海道らしいところに行きたいということで、旭川と美瑛に連れて行った。「北海道と言えば?」の問いかけに『旭山動物園』と答えていた。結果、旭山動物園と美瑛を観光することにした。 都会で育ち、大自然は見たことはなく、建物に囲まれた場所で育ったその知人は、動物を見て感激し、なにより美瑛の畑ばかりの風景や、雲には覆われていたが美瑛を囲む山々にとても感激していた。空気の違い、町並み、交通量や緑の違い、全てに感激していたようだった。

 一方、北海道の田舎で育った私は、畑は当たり前、山は目の前、川にはすぐ行ける環境で、それが当たり前だった。小さい頃は、畑を手伝っていた。馬がいて、にわとりがいて、犬がいて、それが私にとっては日常だった。大自然が普通だった。
私はその知人自体に感激してしまった。約30年、出会ったことのないものを見るとこんなにも素晴らしいリアクションをしてくれるのかと・・・。

 それもあって、自分なら大都会に住めるだろうか・・・と帰りの車中で考えてしまった。もちろん札幌も都会だが、これ以上緑がない場所に住むのは、私は苦しい。東京や神奈川、大阪などの大都市は遊びには行っているが、それだけでいい。住みたいとは思えない。日常生活を変えることは、年を重ねるにつれて難しくなる。決して私は『わぁ、建物ばっかりで素敵~!!』とは感動できないと思う。(もちろんそう感じられる人もいるのは否定しない。)
『大自然ってすごーい!!』と感動できるのは、自然には人間にとって必要なパワーが含まれているからなのかなぁと思う。マイナスイオンを浴びると、なんか元気になれる。

2010 年 8 月 24 日

働かざる者、食うべからず!? ②

金澤拓紀

前回のエッセイで、生活保護を受けながら、世の中の役に立つこと、例えば、街に落ちているゴミを拾うボランティア活動に従事するだとか、そういった働き方、生き方があってもいいのではないだろうか、ということを投げかけた。

しかし、世の中の大半はそうした見方をしないだろう。働ける能力があるのなら、働いてお金を稼げということになる。

あくまでもこの場合、「働く」とは「お金を稼ぐ」ことであり、お金を稼ぐことのできる働き方、生き方を模索することがまずは前提条件として求められる。

そして、どうしてもそれが実現できそうもないと認めてもらうことができて初めて、生活保護や年金が支給されるというのが現状の仕組みであり、世の中の常識となっている。

でも、ちょっと待ってほしい。

労働力人口に限ったとしても、果たしてお金を稼ぐ機会を求める人の数だけ、そうした「仕事」を用意できるものなのであろうか。

経済成長を前提とした政策はいかにも眉唾ものであり、企業が競争社会を勝ち抜いていくためには、人件費の削減が至上命題となっている。

財政赤字が膨らむ一方の政府に対しても、公務員の人件費削減を望む声は根強く、雇用対策としての意味合いを強く含んでいた公共事業も、今は目の敵とされているような状況だ。

産業革命以降、機械化やオートメーション化が進んで人手はどんどん必要なくなってきており、今はそうした技術をフルに活用するなら、全労働力人口の4分の1程度ですべての生産ができてしまうといった報告もあるぐらいである。(現に日本の第3次産業就業者数は、2005年の国勢調査で既に67.2%にまで達している。)

すなわち、現代人の多くは、自給自足生活を営むのでなければ、サービス産業に従事することができない限り、失業者にならざるを得ないのであり、こうした事実を見据えない限り、「雇用を守れ」といったところでどうしようもないのではないだろうか。

お金を稼ぐための「仕事」というものが、人の役に立つものなのかどうかを問う以前に、「ビジネス」として成り立つのかどうかを問い掛けてくるからである。

公共性の高い事業といえども、財政収支のバランスが問われる以上、「人の役に立つから」「必要としている人がいるから」という理由だけで税金が投入されるわけではない。

ところで、この世の中に必要な「仕事」や「役割」といったものは、全て「お金」という価値に換算できるものなのだろうか。

そもそも、私たちが当たり前だと思っている「お金」というものについて、私たちはどれだけ知っているのであろうか。

「お金」はどこから生まれ、何によって保障されているのか。「お金」は既に完成された仕組みであり、何の疑いを抱くこともなく享受して構わないものなのだろうか。

この問題を考えることなしに、「自立支援」のあり方を考えたところで、焼け石に水なのではないかという気がしてならない。

もっといえば、「働かざる者も、まずは食うべし」というのが最近の私の直感である。この続きはまた次回。

「お金」とは一体何なのか、という先ほどの話であるが、興味がある方はちょっと面白いサイトがあるのでこちらをご覧になってみてほしい。

「Money As Debt(負債としてのお金)」

47分とちょっと長いが、私たち人類が「お金」というものを便利な道具として使いこなせるようになるためには、どうもこのことに気付くことから始める必要がありそうだ。

2010 年 8 月 24 日

働かざる者、食うべからず!? ①

金澤拓紀

「働かざる者、食うべからず」 ロシア革命を主導し、世界初の社会主義政府を誕生させたレーニンが、伝道者パウロの言葉を引用して述べた言葉だそうである。

自らは働くことなく、勤労者が生み出した富を搾取して贅沢に暮らしていた当時の大地主や財閥たち。そうした支配階級を批判し、労働者階級の闘争意欲を鼓舞するために用いられた言葉なのであろう。

ただし、もともとの意味としては、怠け者を戒めるための言葉だったようだ。

さて、生徒たちにこの言葉を投げかけてみると、「そりゃ、やっぱりそうなんじゃないの?」という反応が返ってくる。「だって実際、働いてお金を稼がなかったら生きていけないでしょ?」と。

正論だ。正論だが、何だかどうも引っ掛かるものがある。

お金ってそもそも、人間の経済活動が円滑に行われるように生み出された便利な道具であるはずなんじゃないだろうか。

なのに、お金がなかったら生きていけないとなると、便利な道具である以前に、お金に使われている、お金に支配されているということになってしまわないのだろうか。

携帯電話だってそうだ。起きている時間の大半を携帯の操作に費やし、日常生活に支障が出るようになってくれば、便利な道具であるという次元を飛び越えて、携帯に依存している、支配されているという関係性に変質してしまうだろう。

携帯とお金は一緒にできないでしょ、という声が聞こえてきそうだが、お金を稼がないことにはどうしようもないからと、仕事も2つも3つも抱えて苦しんでいる人が現にいるということを私は知っている。

「お金」がないと生きていけない世の中になっているのであれば、生きていくのに必要な最低限の「お金」は、生存権として保障されるべきだ。

だから生活保護や年金といった制度が保障されているじゃないか、という声が聞こえてきそうである。

ならば、生活保護を受けながら、世の中の役に立つこと、例えば、街に落ちているゴミを拾うボランティア活動に従事するだとか、そういった働き方、生き方があってもいいのではないだろうか。

「働く」ことと「お金を稼ぐ」ことは、決して同義ではないのだから。

2010 年 8 月 17 日

旅行

小田将弘

東京に行ったのは15年ぶりである。 知り合いからは突然どうしたの?!と驚かれた。

私は普段出不精で、まずほとんど一人で旅行に行くなんてことは、久しくしたことがなかったのだが、
(学生時代に多少行ったことがあるという程度)
今回思うところがあって、久々に遠出してきた。

さて、最近世の中ではインターネットなどの普及で、文字の情報を得ることが多くなったのではないか。
しかもどこまで本当かわからないような情報がネットによって行き来する。

私はフリースクールのパソコンの授業を担当しているのだが、
1学期に生徒に「インターネットでもなんでもあるけど、情報は自分の足で稼ぎなさい」とか「自分の足で確かめに行きなさい」というようなことを、偉そうに言ってしまった記憶がある。
「自分でウラをとれ(真実かどうか確認しろ)」というようなことも言っただろうか、、。

大事なことではあるが、普段出不精な私がそんなことを言うのはどうかというところである。

今回はそういったわけで、重い腰を上げ、旅に出て、
実際に色々行ってみたりやってみたりしたのだが、
そういう体験を通じて文字以外の生の情報が五感を通じて入ってくる。

セミめちゃくちゃ鳴いてるなぁ、、とか。
東京でも勉強してないやつはダサいなぁ、、とか。
東京って冷房強烈に効いてるとこ多いなぁ、、とか。
東京って親切な人多くなったんじゃないか?、、とか。
水おいしくなったな、、とか。

文字の情報をインターネットで見るのとは違う形で、ものごとを「知る」ことができる。

「知る」ということは、人間にとっての楽しみであり、
文字・映像・音・におい・触った感じ、、、様々な形の情報をバランスよくとらなければならないのではないか。
また、都合の悪い情報に耳をふさいだりして、偏った情報ばかりを摂取していてはいけないのではないか。
というような事を考えた。

つまり旅とは知ることであり、イコール楽しいというようなことで、
またどこかに旅行に行きたいとは思うのだが、
諸般の都合により、秋・冬はおとなしくしている。

2010 年 8 月 10 日

再会

 本間慶子             

8月のこの時期になると、クラス会:同窓会:同期会等が開催されます。
私の出席率は、かなりの高率です。ほとんどがいつの間にか、幹事という立場になっています。

先日届いた案内状に、前回は『確か数年前』などと書かれており、時間の経過も曖昧な年齢になってきたのかなと、思いつつ見入っていました。

これから大学時代の同期会があります。前回は、確か数年前で中学校の同期会と重なり、ゆっくりと語り合えなかったので、道外道内市内となかなか会うことができない人たちに会うのが楽しみです。YOUスペースやフリースクールの宣伝活動も行ってきます。現役の教員たちの集まりですから。

20数年前から始まった中学校の同期会は、2年ごとに開催しています。幹事会:準備会:本会:反省会と、やっていると2年はすぐに経ってしまいます。その他の打ち合わせも数回ありです。

参加人数は、減少傾向にありますが、毎回新しい顔と会えるのでとっても楽しいひと時となります。

高校の同期会(アンパン会)は、4年に一度オリンピック開催と決まっています。そろそろ幹事会召集がありそうです。

先日父の葬儀を執り行いました。おじ:おば:いとこの親戚にもこのような冠婚葬祭の時でしか会えなくなりました。

風貌は、時とともに変わってはいますが話していると懐かしさがわいてきます。いとこが「年の差はずーと変わらないね」と言っていました。

いろいろな「縁」で出会った人達です。だいじにだいじに「絆」を繋げていきたいと思っています。

2010 年 8 月 6 日

ギター

高村さとみ 

最近ギターを始めた。音楽の授業で生徒がギターを練習していて、私もみんなと一緒に弾きたいなぁと思ったのがきっかけだった。弾けるコードが増えるのが楽しくて、休み時間や放課後にも何となくギターを出してきては弾いてみた。すると、生徒の中から「私はあの楽器を昔やっていた。」だとか「こういう楽器をやってみたい。」などの声がちらほらあがってきて、楽器を出しては鳴らしてみる、初めての楽器も触ってみる、という日が続いた。

 

そして今。そういった過ごし方をしているうちに「バンドを組もう。」という声があがり、バンド活動として数人の生徒が担当楽器を練習中だ。目標は学園祭でステージに立つこと。思いの外人数が集まったので、2グループに分かれ一曲ずつ練習をしている。得意な楽器を担当する生徒もいれば新しい楽器に挑戦する生徒もいる。私もギター初心者ながら、生徒と一緒にステージに立つべく特訓中だ。初心者には難しい曲なので、時々くじけそうになりながらも生徒に励まされ練習している。安物だが自分用のギターも買ってしまった。なんだかんだ言ってハマっているのである。

 

何かにハマって継続して練習をする、という感覚は久しぶりだ。自分が楽しむためにする趣味はいくつかあるが、練習して上達したいと思うことは高校生以来かもしれない。この気持ちは生徒たちが与えてくれたものだ。感謝している。果たして学園祭までに間に合うのか!?・・・不安はあるが、とりあえずがんばってみようか。