2010 年 9 月 のアーカイブ

2010 年 9 月 27 日

北海道だーいすき!

                                                    及川 かおり 

ひいき目ではなく、自然環境も文化的にも多様性に富んだ北海道は、人が暮らすのにとても恵まれた場所だと思う。欠点として、冬が長く寒いことなどが挙げられるが、半年間の雪がこれ以上の開発をはばんでいるし、豊かな山の幸海の幸を育くむために必要なだけの水量も、積雪によって保たれる。産業や雇用の課題についても、今後改善する余地は十分にあるのではないか。

およそ1世紀もさかのぼらない以前、北海道はアイヌモシリ(人間の大地)と呼ばれ、アイヌ民族が狩猟と採取を中心に暮らしていた。外交も見られたが、ほとんど山菜や川魚、海の幸や獣の肉だけで生活を営んでいたということだ。確かに厳しい暮らしだっただろう。それでも、そうして何千年もこの地で生きることが可能だったのだから、いつ想像してみても驚かされるばかりだ。

旭川の市街地で生まれ育った私も、そして札幌のような都会で暮らす皆さんも、もしかしたら想像しにくい事かもしれない。最近になってようやく、私は山や海、湖など自然の中に出かける機会が増えてきた。山菜採りやきのこ採り、登山やキャンプ、スキーなど、いざ自然に飛び込んでみると、そこから学ぶべきことの多さに圧倒される。まるで便利な文明の中で育ったことで、本来の感覚が鈍っていたかの様に、5感で様々なことを感じ、今まで使っていなかった心を使って考えさせられる。「危ないから」「道具がないから」などとアウトドアを渋っていた自分が愚かだったと感じる。

最近は友人たちと田舎暮らしについて議論を交わしたりもする。「生計を立てる」となると、そう簡単にはいかないのが今の社会のあり様だ。田舎は田舎なりの苦労がある。そして都会に暮らすことにも、やはりそれなりの確固たる意義があるのだ。どちらに身を置くにしても、主体的に人生を設計する覚悟なしでは、与えられた環境に文句を言うだけの、つまらない生活になってしまいかねない。

どこに居ても生きて行ける。それだけ言い切る根拠と自信が、私には必要なのだ。それでも、大好きな北海道なら、ずっと頑張って行けるだろう。ここで生まれて、出会えた全ての人や物事に感謝を忘れずにいたい。

2010 年 9 月 15 日

やっぱり人。繋がっていることの素晴らしさ

                                                           札幌自由が丘学園三和高等学校 副校長 杉野建史

 9月5日から10日にかけて、2年生修学旅行の引率で沖縄と鹿児島県与論島に行ってきた。与論島へ行くのは7回目。旅行2日目の昼、那覇を出発したフェリーが与論港に入港した。フェリーから見る島は変わらずに綺麗だった。

修学旅行でお世話になるのは6回目。過去には旅行中台風2つに襲われて、与論島に足止めを食らった年もあった。そんなとき、生徒のことを第一に考えて色々な対応をしてくださったのが与論島の人たちである。本当に心暖かな人たちである。

 学旅行の行き先、行き先でできる体験学習内容、費用、など細かいことは他にもたくさんあるが、根幹となる部分は職員が考える。生徒は全員研修を何にするか、個別研修は何がよいか、自由行動はどうするかなど、情報収集したり、友達と話し合ったりする。生徒の考えを職員が受け取り、与論島の担当者とすり合わせをし、アイディアを頂いて最終的にお願いをする。私たちからの思いや考えをほぼそのまま与論島の人に受け取ってもらうという図式である。

 与論島1泊目の夜、担当者のタケさんと話す機会があった。これまでの6回にわたる与論島で行ったプログラムを全て知っている人だ。「毎年、先生達や子どもたちの帰りを楽しみに待っています。本当にお帰りなさい。」という言葉で会話が始まった。

「これまでは、与論島の自然を肌で感じてもらうこと、自分達の土地と違う文化や人たちに触れてもらうことを主な目的としてきたと思うのです。その目的は達成できたともいます。毎年子どもたちを受け入れて、もっと何か他のできることがあるのではないかと考えるようになりました。もっと島の中に子どもたちが入ってきて欲しい、島の人とふれあう時間や共に過ごす時間があっても良いと思うのです…」と、優しい声で熱く話し出した。「離れていてもいつも皆さんのことを考え、感じています。できることがまだまだあります。時間もあります。先生、色々考えませんか。一緒に色々なことをやりませんか。先生は熱い人だから一緒にできます。」嬉しい言葉だった。握手する手は温かく力強い。胸が熱くなった。修学旅行について、島の人たちの思いや考えを私たちが受け取る図式ができそうだ。

札幌から与論島まで直線距離で約2100㎞。物理的な距離は1年に1度しか合わせてくれない。しかし、心に距離は関係なくいつでも感じられ、いつでも繋がっている。

与論島を離れる時、いつものように「行ってらっしゃい!」と笑顔で見送られた。

私の中で熱い思いが大きくなった。北の大地、和寒で子どもたちを受けて止めてくださる暖かな人たちがいる。南の島、与論島で子どもたちを受けて止めてくださる暖かな人たちがいる。できることはまだまだある。やりたいことがまだまだある。そのことを実現していけるのは人との繋がりがあるから。多くの人がかかわってくれるから。

2010 年 9 月 10 日

リフレッシュキャンプ④

森町のネイパルの森から函館港へ出発した自転車部隊は、途中の休憩地点でソフトクリームと親子丼をおいしくいただき、お昼前には無事に調査船の乗り場に到着しました。調査船「若竹丸」では船内の設備を案内してもらった後、乗船式を行いました。

乗船後は分刻みのスケジュールが続きます。夕食の用意も各班で手分けしてお手伝い。船の食事は意外にも豪華メニューで驚きました。厨房で熟練の料理人さんたちが用意してくれたごちそうです。感謝していただきました。

夕食後、若竹丸の船長による実習船の役割や、実習で何を学ぶかのレクチャーがありました。「壁にぶつかっても、何度も何度も諦めずに努力して、ようやく乗り越える喜びが得られる」と、長い船上生活で培われた得難いお話を聞くことができました。

すっかり日も暮れた後、甲板上に出て星空観察を行いました。遠く水平線のいか釣り漁船の光以外、真っ暗な日本海上で見る星空は、天の川もくっきりと浮かび上がり、無数の星々が輝いていました。都会では見られない美しい星空に圧倒され、星座を見つける度に歓声が上がります。

翌朝、最終日は朝の6時に起床後、朝日を浴びながら元気よくラジオ体操。揺れにも大分身体が慣れてきたところです。朝食を済ませて外に出ると、対岸にもう小樽の港が見え始めていました。朝日にキラキラ輝く海を甲板から眺めながら、ようやく船酔いから解放される嬉しさと、大海原の冒険が終わってしまう寂しさの入り交じった気持ちではなかったでしょうか。

無事に小樽の港に上陸後、この3日間の旅の振り返りを行い、今回の全てのプログラムを終えました。最後まで心の込もった指導をしてくれたネイパルの森の職員の皆さんたち、そしてとても優しかったボランティアの教育大函館港の学生さんたちが、笑顔で手を振って自由が丘の生徒を見送ってくれました。

忘れられない出来事ばかりだった3日間。新しいチャレンジが目白押しでした。何か1つでも楽しかった事、次につなげる自信を、しっかりとその手で掴んで帰って来られたのではないでしょうか。皆さんお疲れさまでした!

2010 年 9 月 7 日

「修学旅行」の思い出

                                                                               亀貝 一義
                                               
今、三和高校2年生は5泊6日の沖縄方面への修学旅行中である。数時間で沖縄の那覇に着く。その昔を思うと、まさに「今昔の感」だ。
私たちは、和寒の小学校の時(昭和24年?)海を見よう、と留萌に行った。留萌の小学校の体育館に泊まったのではないか。米持参だった。中学校のときには、温泉地である登別に行った記憶がある。この時もやはり一升の米持参だった。
私は高校時代には修学旅行には行けなかった。カネがなかったからだ。しかしそれほど悔しい思いはしなかった。「貧乏だったから仕方がない」程度にしか思わなかった。

大学時代、バイトで明け暮れしていたので旅行どころではなかった。支笏湖に「世界青年学生平和友好祭」(?)の何泊かのキャンプの思い出がある。大学時代の「旅行」だった。
女子高校の教師として勤めた翌年(1961年)三年生を担任したが、修学旅行引率の仕事。この時初めて本格的な旅行を体験した。生徒よりも自分のための修学旅行のようだった。この時の卒業生諸君も今や孫をもつ年代だ。

東京往き帰り2泊、京都3泊、往復の列車泊が2泊だった。列車泊も寝台ベッドなどではなく、座ったままでの「泊」だから、生徒たちはけっこう疲れたのではないか、と思う。新聞紙などを持ってくるように言った。少しでも身体を楽にしたいという思いから。

旅館も東京は東大近く(本郷)の学生用の旅館。夜は、枕投げという女の子らしくない遊びをしあっていたらしい。京都の夜は疲れていて、どうでもいいことでケンカをする生徒たちがいた。夜中に「帰る」といってリックを背負って騒ぐなど、先生は苦労したものである。

何度かの引率では、連絡船が、嵐に遭って揺れて、ゲーゲーと吐く生徒たちがたくさんいたこともあった。そのあと始末をしていたら、函館本線の列車に乗り遅れて函館駅で私だけ一人で夜を明かしたことがある。
あの「青函連絡船」は今はない。「津軽海峡冬景色」が懐かしい。