2016 年 11 月 のアーカイブ

2016 年 11 月 22 日

準備もまた、文化祭

三和高校 本間 香菜  

 明日は、札幌自由が丘学園のフリースクールと三和高校の合同の文化祭です。約1ケ月の間、ステージ練習をしたり、作品の準備をしたり、各クラスや有志グループが活動していて、学校内は文化祭モード。

 私が担任を持つ月1クラス(在宅学習コース)は文化祭への参加がないので、私はちょっと淋しく思いつつ、月1クラスの生徒とだったらどんなことができるだろう、本校だったら...と、妄想を膨らませています。
 高校生の文化祭は、自分たちでやりたいことを考えたり、その方法を考えたり、特に有志発表では参加するしないも、すべてが発表者に任せられています。そのため、クラスメイトやグループメンバーと意見が合わないことや、うまくいかないこともたくさんあります。ただ、そういう思いをしながら進めていく準備期間が意外と心に残るものではないでしょうか。
 実際、準備に一生懸命時間をかけて、本番はあっとゆう間。時間にすると本番は準備の10分の1以下です。

 私の学生時代の文化祭を振り返ると、当時のクラスメイトには大変申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、私はどちらかというとクラスの作業に協力的ではなかったのだと思います。お化け屋敷をやったり、ドリンクゼリーという創作飲み物屋さんをやったり、クラス全体の記憶はあるのですが...自分が何を担当して、どんなことをしたか、全く記憶にありません。
 
そんな私の数少ない文化祭の思い出の中で、強く覚えているのが、教室の装飾のためにクラスメイトが買い出しに行った時に、その中の一人の男の子が自分のお小遣いでみんなにシュークリームを買ってきてくれたこと。そのシュークリームをクラスメイトみんなで、半分ずつ食べたこと。クラスメイトのために差し入れをする、みんなで分けあってなにかを食べるという発想がなかった私には衝撃的でした。決して仲の良いクラスではなかったのですが、この瞬間に、クラスがひとつになっているということを高校生ながらも感じた気がします。今思えば、たいした仕事をせずに、差し入れのシュークリームを美味しく頂いただけかもしれない。なんてひどい、当時の私...。それでもきっと、私も何かを担当して、少しは役に立っていたはず。。

 さて、明日は本番。彼らの文化祭は将来、どのような記憶になって残るのでしょうか。

2016 年 11 月 22 日

給食のヒミツ

高村さとみ

 給食のヒミツ。フリースクールは正式な学校ではないので、通常は給食がありません。ありませんが、札幌自由が丘学園では今年度からお隣の「ひかり亭」に力を貸していただき、週に1回の給食を始めました。
始まった当初の給食の時間は大混乱!登校している人数が日によってバラバラなこと、米を炊く・食器を洗う作業があることなどが理由でした。今でこそ配膳から片づけまでの手順が決まってきましたが、まだまだ学校の給食ほど効率的ではないだろうなぁと思います。でも、この非効率さが良いのです。非効率的な分、子どもたちは考えます。

「まず始めに人数を数えよう」
「給食係以外の人で机を元に戻して」
「給食係は給食がのっていた大きな皿を洗うから、流しは1つ開けておいて」
「このおかず、あとちょっとだから誰か食べちゃって」

 こうして誰かの呼びかけや話し合いにより、少しずつ手順が決まってきました。まだまだ改善の余地はあるでしょうが、それは子どもたちが工夫を考える余地があるということでもあります。
これと似ているのがルールづくりです。札幌自由が丘学園には細かな生活のルールがあります。携帯の使い方、荷物の置き方、授業の過ごし方等々。フリースクールのイメージとあまりそぐわないかもしれませんが、このルールは子どもたち自身が決めてきました。まずは年度初めに今年度の仮ルールとして昨年度のルールを提示する。それを見て、今年度変更したいところや追加したいところについて話し合います。年度途中でも、何か変更したいという意見があれば改めて話し合いの場を持ちます。
 給食とルールづくりに共通しているのは、自分たちでつくり、考えなければならないということです。これがもしも、大人が全てを用意し与えるだけになっていたら、子どもたちが一生懸命考えて話し合う様子は見られなかったでしょう。より良くするための工夫は生きる力でもあります。効率ばかり追い求めてはいけない、まわり道、アナログ、原始上等。なんだか、人の生き方にも通じそうな話ですね。

2016 年 11 月 17 日

ご先祖さまと白いメシ

札幌自由が丘学園三和高等学校校長 亀貝一義

かつてアレックス・ヘイリーという人が自分の先祖を探すという活動を行いました。ルーツ探しということで話題になりました。また彼はこの活動を「ルーツ」という本にまとめて(1976)かなり多くの人たちに読まれています。彼の先祖はアフリカで平和な暮らしをしていたのに、奴隷狩りに逢い、アメリカ大陸に若い奴隷として連れてこられました。

日本でも多くの人がこれを読んで自分の先祖に関心をもったことがあります。私もそのひとりでしたが、あまりヒマもカネもなかったので、ほとんど「先祖捜し」はしていません。しかし、わが遠い親戚の中で興味・関心のある人がいていろいろ調べてくれました。
先祖といっても、父の方をさぐるか、母の方に重点を置くかによって、全く異なった先祖が見つかります。私の場合には母方をメモしてみましょう。

母方の先祖(大瀬という氏)は新潟市の近くで暮らしていたのですが、明治29(1896)年からの水害(信濃川)のために、そこで農業をつづけることができなくなり、なけなしのカネを払って北海道にわたってきました。この時に必要とした金額は100円だったとのことです。今のカネになおすと300万円ぐらいになるといいます。
まずたどり着いたのは、今は札幌市北区の篠路でした。ここでやはり農業(藍をつくったりしたらしい)をやっていましたが、明治36(1903)年に和寒に移りました。今、和寒で農業を行っている主人の3代前です。明治32(1899)年に、鉄道(宗谷本線)が和寒まで通じたこともあって、遠国ではない感がしてきたのだと思います。ただそこですぐ米作りをしたのではないと思います。和寒でようやく米づくりに成功したのは明治40(1907)年だったとのこと。だからといってみんなが白いごはんを腹一杯食べることができたかと言えば全くそうではなかったと思います。私のおじいちゃんが昭和21年ごろだったと思いますが、「おまえたちが不自由なく白いメシを食べられたらいいのに」という意味のことを語っていたことをかすかに覚えています。だから「白いメシ」を腹一杯食べることができるようになったのはそんなに昔ではなかったのです。せいぜいこの70年前ころからだったと思います。

「先祖」がどういう歩みをして今の自分がここにいるのか、を知ることは人間の大きな活躍の足跡をたどることになりますし、たくさんの人たちとのつながりを確認することにもなります。
今、ここにいる皆さんがたも、父母や祖父母、さらにその前の先祖がどこから来てどういう苦労を経て今の自分に至っているのかを、ちょっとだけ興味をもって考えてみて欲しいな、と思いました。