2018 年 8 月 のアーカイブ

2018 年 8 月 21 日

2018 夏の思い出

桑名八重

今年のお盆休み、スタッフはちょっと長いお休みでした。(カレンダーの関係で全員有給取得で長くしました)

さて、長いお休み何しようかな~と始まるまではわくわく考えています。
我が家では真夏のあっつい中、本州への帰省はしない!
わざわざ高い時期に海外やリゾートにも行かない!

ということで結局、前半は田舎の親戚宅に滞在です。しかし、滞在中ほとんど雨・・・。家族ゴルフ(私は行きませんが・・・。)は豪雨の中で行い、予定の庭仕事も進まず・・・。

子どもたちは家の中でストレス爆発。イライラがピークに。                         わがまま言いまくりのちびに、文句たらたらの小学生。
それを見ていた祖父母世代は「まあ、普段一人っ子なんだからこういうのも経験さ~」と笑ってました。
確かに、子ども同士の喧嘩って理不尽だらけです。そんな中でかなり忍耐とか、痛みとか学びますね・・・。
たま~に従兄弟同士必要な時間ですね。

お盆休み後半。
家族の大半は仕事の中、私は友人と遊ぶ約束です。年に数回お泊りです。

2泊3日のうち、2日間博物館に行きました。ほとんど私の趣味です。

1日目は三笠市立博物館。アンモナイトがメインの博物館です。今回は特別展もあります。
雨の中到着すると「こんなに人いるのはじめて見た!!」と失礼な感想を抱いてしまうくらい大盛況!
夏休みだし、お盆ですしね。レンタカーも多いです。
ちびっ子たちは恐竜の骨格や大きなアンモナイトに大興奮です。
特別展、小さなスペースながらとても充実。楽しい!
お天気がよければ野外博物館も行きたかったのですが、今回は断念。
何度行っても面白い博物館です。

20180816_115533.jpg

2日目はお手軽に北海道大学総合博物館。お目当ては前日の続きで恐竜の展示。
しかし、そこにたどり着く前にちびっ子たちはあちこち興味を惹かれるものがたくさん・・・。
各学部の紹介では触ったり、操作したり。
そこに興味を持つか・・・。と親としては意外な発見があったり。
見るだけでなく、触れるって大事ですね。
また、紙飛行機の実演をしてくださる方がおり、一緒に紙飛行機を作成。人生で初めてちゃんと飛ぶ紙飛行機が作れました。これには大人のほうが感動!!・・・ただ、また自力で折ることは難しい。
いろいろな展示のある北大博物館。その時々で興味は違うので、何度でも行きたい場所です。

20180817_114913.jpg歯医者さん好きのわが子は歯科実習の模型にはまりました

今回のお盆休み、近場でいろいろ楽しみました。
子どもが付き合ってくれるうちにもっと一緒にあちこち行こうと思います。

2018 年 8 月 20 日

網走へ

安齊

網走には過去に4年間住んでいたことがあります。小学校6年生から中学3年生まで過ごしました。多感な時期のこの4年間は楽しいことも嫌なこともあり、でもたくさんのことを吸収した日々だったと思います。

部活もやったし、遊んだし、友だちが家出したり、早朝や夜中に海行ったり、流氷に乗り渡って遠くに行ってみたり、塾に通ったり、駅伝に出たり、怪奇現象の起こる不思議な家に住んだり・・・思い出いっぱいです。

そんな思い出の地に2歳の我が子を連れて遊びに行ってみました。

メインはお祭りのつもりでしたが、網走湖でカヌーにも挑戦!!

小さなパドルを貸してもらい、たくさん漕ぎました。緊張して口数は少なかったですが、オジロワシやカモ、コイ、トンボなど見つけては目をキラキラさせ、大自然を満喫したようです。札幌にいると公園程度でしか自然と触れ合う機会がなく、そんな時間もあまり作れなかったりするのでとても楽しい時間でした。

お祭りは、食べたり飲んだりではなく、バイクショーの迫力がありすぎて、そっちのほうが印象的だったようです。

昼から夕方までの半日だけだったので今回はこのくらいでしたが、網走含めて道東は、行きたいところややりたいことがたくさんあります。知床の観光船にも乗せたいし、網走監獄もおもしろいし、釧路川でカヌーしたいし、秘湯もたくさんまわりたい!

住んでいるとあたりまえだったので離れてよさがわかってきた気がします。

でも遠い・・・。

そして、我が子に自然体験をたくさんしてほしいけど、虫が好きじゃないんだよなぁ・・・。

2018 年 8 月 14 日

1945年8月13日

高村さとみ

 お盆前、函館の祖父母を訪ねました。これはその時に父方祖父が話してくれたことです。1945年8月13日頃の話と思います。祖父は函館生まれ、函館育ちで今年90歳になります。戦時中は海軍予科練習生(15期)として茨城の土浦にいたそうです。

 160名で千葉に演習に行き、土浦に戻ろうとした時のこと。駅の都合で次の日の朝まで列車は出ないことがわかった。上官の命令で明朝集合、それまで解散となったが駅は人でごった返していて待合室は使えない。まだ10時くらいのこと。その辺で待機するしかないと思ったが、上品な女性が「うちで休んでいってください」と声をかけてくれ、6人でついて行くことにした。女性はもっと大勢で来てもいいと言ってくれたが、もし食料を分けてくれるとなった時に一人当たり分が多い方がいいと思い、6人で女性の家に向かった。駅から歩いて4、5分。門から玄関まで30mほどもある、絵に描いたような豪邸だった。自分たちは上がらない方がいいのではとためらっていると、女性は母と姉を呼んできて勧められて家に入った。女性は母と姉のことをお母様、お姉様と呼んでいて、また何て上品なのだろうと思った。
 当時の食糧難の状況では考えられないことだが、自分たちのために白米を炊いて出してくれた。この時期に白米を、しかも初対面の自分たちのために出してくれるなど、よほど裕福な家だったのだろう。風呂にも入るように勧めてくれた。しかしここで東京出身の仲間が警戒しだした。警戒心の強さはさすが、東京の者らしい。裸になったところを襲われるかもしれない。そう考えて2人ずつ風呂に入った。
 結局その後も何もなく、朝の5時。豪邸でもてなしを受けたことをみんなに自慢できると考えながら駅に戻った。しかしここで仰天した。駅には人がおらず、一緒に演習に来ていた160名もその荷物もない。驚いていると、No.2の立場である佐藤少尉がやってきた。前の日の夜9時に臨時列車が出ることになり、みんなそれで移動した。佐藤少尉は明朝集合、と命令をした立場なので6人を探しながら駅で待っていた。一体どこに行っていたんだと怒られたが、明朝まで解散と言ったのは佐藤少尉ではないかと言い返した。それから土浦へ移動したところ、荷物を抱えた同期とすれ違った。終戦。家に帰れるのだとその時聞いた。
 函館に戻る途中、たまたま苫小牧出身の者と出会い戦争に負けたことの切なさを語っていると、その者がこう言った。「その切なさはこれから良い思い出になるから、決して忘れてはいけない」
 女性の家を訪れた6人の中に、茨城出身の者がいた。戦後の生活が落ち着いた頃、女性に改めてお礼を伝えようとその者は千葉に行った。駅から踏切を越えて右に曲がり2、3本目の道のあたり。道順を覚えていたのに豪邸は見つけられなかった。2回、一日がかりで探したが、やはり見つけられなかった。

 最後はまるでキツネに化かされた昔話のようで、真相はどうなんだと不思議に思ってしまいます。しかし、祖父にとっては不思議なことなど何らなく、あの時白米を出してくれたことの感動や駅に人がいなかった時の衝撃の方が印象に残っているようです。お盆前に何ともいい話を聞くことができました。

2018 年 8 月 1 日

「台湾」に行ってきました

亀貝 一義

7月末、クルーズの旅ということで、横浜港を出て石垣(台風で沖縄を避けて)、そして台湾の基隆市の二つだけ陸地を歩いて、8泊9日のほとんどは船で過ごすというイベントを体験しました。大した嵐にも遭わなかった(避けた)のでホテル暮らしの感です。

台湾島は政治的には中国に属しているようですが、独立国のようでもあります。基隆(日本語読みでは「きりゅう」、台湾読みでは「キールン」)市は台湾第二の街ということで、ちょっと見では日本の大都市の中にいる感じです。

かつて1895年から50年間、台湾は日本の一部でした(日清戦争後、日本の「植民地」になっていた)。しかしこの間、日本が台湾人をひどく扱ったということもなかったのでしょうか、鳥居なども残っていました。「神社」があったかどうかは分かりません。

そもそも台湾というのはどういう位置にあるのか、どうもすかっとしません。中華人民共和国は「わしらの国の一つの島だ」と言っていますが、台湾では今は懐かしい「中華民国」の国旗が公的な機関には掲げられています。

バスガイドさんは、私たち日本人相手だったのか、きわめて流ちょうな日本語で、日本との関係はいいのです、と言っていました。そして将来の台湾はどういう方向に進むのか「分かりません」とのこと。

日本の企業も進出していますし、店の買い物も千円札で間に合います。しかし「外国」に行くということでパスポートを準備するということはありました。また行きたいか、と問われたら、多分違う国をあげるかも知れません。