2013 年 9 月 のアーカイブ

2013 年 9 月 26 日

僚友鶴丈治さんの急逝にあたって

札幌自由が丘学園三和高校校長 亀貝 一義

非常勤講師の鶴丈治先生が、先日(9月23日)文字どおり急逝された。翌日の朝、同じ講師である梅田木さんからの電話「鶴さんが死んだ」と。梅田さんの口調から「これは冗談ではないぞ」と感じ取ったのだが、驚きというか落胆というか、形容のしようがない。すぐ杉野さんとともに鶴さん宅を訪問した。

鶴さんの奥さんも10数年前に亡くなっている。お二人の子どもさんはもちろん立派な社会人でそれぞれ札幌から離れた地で活躍されていることは鶴さんから聞いていた。しかしお二人とも在宅で涙ながらに事情を説明してくれた。しかし、なにぶん「急逝」であったため、知人宅で倒れ救急車で市立病院に運ばれたがすでに手遅れ、という程度のことしか分からない。

そして昨日25日のお通夜(鶴さんはキリスト教徒なので「前夜式」というのが正式な言い方)に続いて今日の告別式だった。

本校からも全員の職員が前夜式か告別式に参列し、鶴さんを偲び、別れの見送りをした。生徒たちも多くが参列したし、卒業生もまた参列していた。
私も在りし日の彼、そして鶴さんとのさまざまなふれ合いの数々を思い出して涙を禁じ得なかった。

現役の教師(スタッフ)とこのような形で別れ、野辺の送りをしたのは柴田宏樹さんに続いて二人目である。(柴田さんは札幌自由が丘学園創立者のお一人。2002年12月26日に逝去された)。

私が札幌自由が丘学園の高校スタッフとしてぜひ参画して欲しいと希望して彼に会ったのは2007年2月だった。この年の4月、札幌自由が丘学園高等部(当時まだ「高等学校」ではなかった)の第6期入学式が行われ、鶴丈治教諭が初めて本校に登場することになる。

もっとも私は彼が北星大附属高校(かつてこの高校は「北星男子高校」「北星新札幌高校」と言っていた)のほとんど開校当時からのつきあいだった。そして日本古代史学のいわば「亜流」であったがきわめてユニークな学説を称えていた古田武彦さんのグループでもいっしょだったから、札幌自由が丘学園開校よりも古いつきあいになる。

鶴さんが本校のスタッフになって「これで札幌自由が丘学園にツルカメがそろったね」などと笑い合ったことも今では懐かしい。
国語の教師であるが、実に博学だった。旅行もよくしていたから世界の事情、あちこちの港町のことも詳しく教えてもらったことがある。                

人生いろいろ。出会いもあるが、最近ではむしろ悲しい別れの方が多いのでは、という気持ちがする。与えられた命を大切にしながら、札幌自由が丘学園への夢を持ち続けて頑張らねば、という気持ちを強く持った今日の「鶴丈治兄の葬儀」だった。(2013.9.26)。

2013 年 9 月 24 日

「自由であること」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

不自由な世の中になってしまった。
先日、生徒たちとサイクリングに行った際に、立ち寄った公園でつくづく思った。
私が育てた子たちを連れて、かつてその公園に来た時にはあった遊具が取り去られていたり、使用禁止になっていたりした。
使えなかったのは、とても高い位置からつり下げられているブランコや、螺旋状に降りてくる滑り台等で、いずれも私の子どもたちが好んで遊んでいたものだった。
私も、生徒たちと童心にかえってそれらの遊具で遊んでみようと思ったのだが、すっかり興ざめしてしまった。
生徒たちも「この遊具、小さい時に、ハマっていたのに、、、」と残念そうにしていた。
危険な遊具は取り去って、安全な遊具だけにしてしまう。
危険な物はないので、これで子どもたちは安心して自由に遊んでくれるだろうと大人は思う。
しかし、ここにこそ大きな落とし穴が潜んでいる。

取り去られていった公園の遊具でとても思い出深かったのは、箱ブランコだ。
4人で向かい合わせになりながら力を合わせて揺らすことのできるブランコは他にはない遊びだった。
しかしこの箱ブランコ、外側から押すと、手を滑らせて転んで、頭がブランコの下敷きになってしまって命を落とす危険なケースがあり、次々と撤去されるようになってしまった。
跡地には箱ブランコが地面に埋める様に設置され、ただのベンチになってしまっていた。
撤去はこれだけに留まらず、衛生面の問題で砂場が、箱ブランコと同様に安全性の問題でジャングルジムが撤去されてしまってきている。
先日行った公園では高い部分の鉄棒や振幅の長いブランコ、そして一部の滑り台も使用禁止になっていた。

これらの事故で怪我や命を落とした方は本当に残念なことであると思う。
しかし、一度事故があると、その責任の全てを設置した側、設計した者が負うことになり、結局は次からは担いきれないので撤去してしまうという流れで、私たちは幸せになれるのだろうか。
旧約聖書の冒頭にはエデンの園の話がある。
エデンの園の中心には食べてはいけない木の実をわざわざ神は設置している。
これを食べると死んでしまうと言われた木の実だが、他の木の実は食べても良かった。
善悪を判断できる状況になっていることが自由であるという事である。
神は人間を想像するときに自分のペットのようにではなく、自由を与えるほどに大切な存在として扱ったという話だ。
「自由」というと好き勝手にできるイメージがあるが、規則を破る自由もあれば、自分の意志で守っていく自由もある。
本当に自由な人間は、誘惑を振り払ってより善く生きることを選択しようと努力するはずである。
ただ、人間は不完全で、時に失敗をすることもある。(アダムとエバも禁断の実を食べた)
しかし、だからといって、食べも良い木の実だけしかない世の中にしたとしたら、それは人間が自分の意志で選んでいるのではなく、まるでペットのように扱われて、檻に入れられ、良い物だけ選ばされている状態と変わらない。そのような状態では、人間の心が育つはずがないのである。
人間には良いことと悪いことを選んで生きる権利がある。
そして、若者には、失敗する権利もあると私は思っている。
小さい頃から、やってよいことと、いけないこと、これ以上やってしまうと危険なことと、ここまでであれば安全であることを、失敗を繰り返しながら、泣きながら、体感しながら覚えていくことが必要な時期がある。
その過程においては、まれに大きな事故につながることもあるが、他の動物が自然界の中で危険を冒しながら成長するのと同様に、人間が成長するために避けて通れない道筋でもあると私は思う。

さて、これから日本の公園はどうなっていくのだろうか。
これから箱ブランコが復活するとは思えない。
ブランコも危険、トイレは不衛生、芝生も除草剤があるからだめ、その内、転んだら危ないからと地面まで撤去するのではないだろうか。

札幌自由が丘学園では生徒たちは昼休みに自分たちでヤカンでお湯を沸かしてカップラーメンを作っていたりする。
管理教育が徹底している公教育から転勤してきた私にとっては驚異的なことだったが、この学園ではガスレンジを生徒たちが日常的に自由に使って良いのである。
本当の教育というのは最新式のプログラムの中にあるのではなく、人間としてごくごく当たり前のことを当たり前に行える中に、賢い者にとっては非常にわかりにくく隠されている気がする。
だから、この「小さな学園」の「大きな自由の風」を社会に発信していくことの意義は、今日もとてつもなく大きいと感じているのである。

2013 年 9 月 10 日

これも生涯スポーツ?

桑名 八重

先日、オリンピックの東京開催も決まったが、今月は甥っ子、姪っ子がそれぞれ運動会である。 来年小学生になるから、少なくてもまだ6回は運動会があるわけだ。 毎年にこにこ笑いながら走るかけっこの写真が届く。(はじめは泣いて親のところへかけこんでいたが・・・)

けして運動が得意ではない私だが、運動会に辛い思い出や嫌な思い出はない。
・・・覚えていないだけだろうか?
私の通った小中学校では当時、春には保育所から中学生、地域の人まで参加の大運動会、冬には小中学校で雪中運動会が恒例。
今考えると先生たちの苦労はすごい。
運動会は、生徒数が少ないために生徒から父兄までみんな参加。生徒はほぼ出ずっぱり。お昼どきには、ジンギスカンを囲むご家庭もありでかなり自由な状況だった。
競技の辛さよりも笑いの絶えない運動会だったと思う。

高校生になったらけっこう体育は苦痛になった。水泳、スキー、マラソン、ダンス、球技。かなり色々な種目をやった。
大学生になったら、必修体育以外ではスポーツと疎遠に。

今、生徒たちと年15回程度の体育にいそしむ。
「10代のあんたたちと体育やるの、辛いんだよ~」
と言いつつ、気持のよい疲労感を感じつつ、かなり楽しく参加している。
プライベートでもスキーやカヤック、なぜかゴルフ。本当にすこーしずつではあるが、普通にやっている。
大学時代の友人に「あんた、いつのまにそんなにアウトドア人間になったの?」と驚かれる。

やっぱり、根本的に楽しかった運動会の記憶があるのか。
楽しい記憶はいつまでも残る。
大人になってスポーツを始めるきっかけは「健康」「ダイエット」だけでなく、こんな記憶にもよるのかな。
いつまで続くか自分でも判らないが「体を動かすのが楽しい=生涯スポーツ」なのかな。と思う今日この頃。

とりあえず、
オリンピックも運動会もたくさんの子どもの楽しい思い出になってほしい。

2013 年 9 月 6 日

不登校相談会

高村さとみ


先日、フリースクールと不登校の子どもを持つ親の会合同の不登校相談会を行いました。相談会は2006年以来、実に7年ぶりの開催です。それも前回はフリースクールによる相談会だったので、親の会も合同で行うのは初めてのことでした。

このような相談会を行った背景には昨年度の「登校拒否・不登校を考える夏の全国大会in北海道」の実施があります。初めての北海道開催。道内フリースクールの協力はもちろん、親の会にも協力を仰がなければ成功し得ない状況でした。この全国大会の実行委員を募った際に親の会の方々が快く引き受けてくださり、さらには広報活動なども熱心に行ってくださったことで、無事に成功を収めたのでした。

昨年度にそのような出来事があったばかりだったので、不登校相談会を開催しようと決まった時には自然と「親の会も合同で」という声があがりました。当日参加したフリースクールは8団体、親の会は6団体。広報やパンフレットの設置に協力していただいた団体はさらに数団体あります。全国大会を実施する前までの私はこのように多くの団体が協力し合って(しかもフリースクールと親の会が合同で)一つの事業を行うようになるなど考えてもみませんでした。当日は団体の枠を超えて、テーブル席に各フリースクールスタッフ・親の会メンバーが散らばり来場者の相談をほぼマンツーマンで受ける、必要に応じて他団体の紹介をするというスタイルで行いました。このやり方は互いの団体の活動内容を知らなければできないことです。20名近くの来場者の相談を各自が受けている様子を見た時は胸が熱くなるのを感じました。

先に述べた通り、全国大会の実施がなければこの相談会の成功はありえませんでした。しかし、さらにさかのぼると札幌市への公的助成を求める運動を共に行ってきたこと、さらには私が札幌自由が丘学園で勤める前からのフリースクール同士の交流や親の会とのつながり。そうしたものが全てつながって今に至っているのだと、そう感じるのです。私もうかうかしてはいられません。私が今やっていることもきっと未来につながっているのですから。

2013 年 9 月 5 日

沖縄への旅・今昔物語

 亀貝 一義

 札幌自由が丘学園三和高校の修学旅行は毎年沖縄をメインにしている。与論島も含めるのだが、これは行政からすれば鹿児島県だ。しかし北海道人の私たちからの感覚では沖縄の一部という認識であってもあまり不自然ではないだろう。

 私自身何度か沖縄への旅は経験している。一番最初は、1979(昭和54)年だった。沖縄県が日本復帰したのは72年だったから、まだアメリカ支配の雰囲気が残っているという印象だった。
 そのときは、お正月休み中で、札幌は最も寒い時期だったが、石垣島では考えられないほどの気温で日本が南北に長いことを実感した。また沖縄に近づいたときに空から見える海の青さが今も記憶にある。また石垣島で、聞こえてきた「石狩挽歌」のフレーズが違和感とともに北海道への懐かしさを届けてくれたことも記憶にある。
「海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
 赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ…」

 帰宅したら、ウチの中の水道管がシバレていて驚いた。

 修学旅行で生徒たちは北海道とは大きく違う沖縄の自然や風土を体感するとともに、先の戦争の悲惨な歴史、今に続く軍事体制の一端などを認識するはずだ。事前に、数時間使って「沖縄」の学習をする。ひめゆりの「語り部」の女性からナマの話も聞く機会をもつ。

 一生忘れられない旅であるに違いない。