2014 年 12 月 のアーカイブ

2014 年 12 月 30 日

変わらないために人は変わる

高村さとみ

 年度終わりまであと3か月。フリースクールでも卒業を意識する時期となってきました。毎年この時期は卒業文集のために卒業生へのメッセージを送っています。「次のステージでもがんばって」「進学先でも...」「新しい環境でも...」と拙筆のため毎回似通った文章になってしまうのですが、このような転機は学生にばかり起こるものではありません。人生の転機について最近は考えています。

 もう少しで私も29歳。周りの友人たちは結婚・出産・転職と様々な転機を迎えています。私自身はどの予定もないのですが、もしもこのような転機があるとしたら...。想像するととても恐ろしく感じてしまうのです。特に女性は育児と仕事の両立など悩むところも多いはず。なのに友人たちはいとも容易く転機を受け入れているようにさえ見えてしまいます(実際はそんなことはないのでしょうが...)。今の生活が変わるということは、例えば誰かと別れること。例えば新しいことに挑むこと。例えば時間の使い方が変わること。私にはそのいずれもできそうにないように思えます。こんな思いでは転機など迎えられそうにない。むしろ恐ろしいものなのだから、変化などしたくない。そんな風にも思ってしまいます。ぬるま湯に浸かるようにこのまま変化なく過ごせたら。しかし、変化が恐怖なら変化しないことは苦しみです。私は変化したくないのではなく、変化したい気持ちもありながら動けずにいるだけなのですから。

 タイトルの「変わらないために人は変わる」とは。私が恐ろしく感じている「変化」をしないために、実は人は違った「変化」を受け入れているのではないか。という話です。例えば結婚は好きな人と生涯を共に過ごすということを変化させないため。例えば転職は仕事内容や労働条件を妥協しないため。人は人生における変化させたくないものを守るために、変化しているのかもしれません。それはきっと自分の中で譲れない、信念や志と呼ばれるもの。

「変わらないために人は変わる」

 私も変化を恐れるばかりでなく、信念や志を見つける1年としたいです。

2014 年 12 月 26 日

「選べなかった年」に

フリースクールスタッフ 新藤理

 今朝の道新に、社会学者の大澤真幸氏が小論を寄稿していた。「2014年という年は『日本人が自ら何も選択しなかった年』として振り返られるだろう」というその内容に、いつもこの人の論は明快ですごいなあという思いと、その「日本人」の中に間違いなく自分も含まれているのだという胸苦しさの両方が去来した。
 「何も選択しなかった」という状況を端的に表すのが先の衆院選だった、と大澤氏は書く。降ってわいたようなあの選挙は、たしかに国民に何をも運んでこなかったという感が強い。でも、私たちには自らの希望を(「ぜひこの人に」というより「まだこの人のほうがマシ」という選び方ではあっても)表明する権利がある。今よりほんの少し、私たちそれぞれが社会のありようについて踏み込んで考えてみればいろいろなことが変わっていくかもしれないのに...と、衆院選での投票率の低さを残念な思いで振り返りながら新聞を読んでいた。

 しかし、考えてみれば、そもそも自分はどうして選挙に行くのだろう。「国民の権利だから」「社会をよりよくするために」という理由はもちろん正しいけれど、なんとなく模範解答でありすぎるという気がしないでもない。以前このことをちょっとじっくり考えたことがあって、結局それは「家族がいて、家族のことを愛しているから」ということと「教育の仕事をしていて、生徒たちに選挙に参加する自分の姿を見てほしいから」という二つの理由に落ち着いた。まあこれはこれで無難な答えになっているかもしれないが、私にとってはそれなりに切実な命題だ。
 ならば、と逆に自らに問う。もし教育の仕事をしていなくて、家族も持たない孤独の身だったとしたら、それでもお前は投票所に行くのか、と。実は、この問いへの答えは未だに出せないでいる。たぶん私のことだ、どんな仕事をしていても経済的に裕福に暮らしているということはないだろう、でもその時に「経済を立て直してくれる人に一票入れに行こう」という気持ちになるだろうか。なんだかあまりならないような気がする。あるいは、「世界の平和に貢献するであろう人に一票を...」「福祉の充実に力を入れる人に...」どうだろう。やっぱりそれほどピンと来ないかもしれない。結局のところ、私が少しでも公民的な存在として社会をより良くしていきたいと思う願いは、家族や生徒たちなど私のそばにいる人たちの存在によって成り立っているものなのだと思う。
 現実には、そうした隣人たちを持たない人だってたくさんいる。そしてその中には(私がそうだったかもしれないように)選挙に対するモチベーションが湧かない人もいるだろう。彼らに向かって「投票率が低い! 意識が低い!」と大声で責め立てることは私にはできない。ただ、何かを変えられないだろうか、とは痛切に思う。私がこうして教育の仕事をしていることが潜在的に「何かを変える」ことにつながっていればいいのだけれど...と、ひとまず一縷の望みを託して日々を送り、気づけば2014年が終わろうとしている。

 そんなわけで、いつもつくづく感じていることだけど、新藤の今のありようは、大人も子どもも含めた周りの皆さんのおかげによってできているものです。皆さんがいなければ自分は何者にもなっていなかったんじゃないか、本気でそう思います。長くてしまりのないこんな文章を最後まで読んでくださったあなたであれば、その「皆さん」に含まれている可能性が十分にあります。今年も一年、お世話になりました。2015年もどうぞよろしく。

2014 年 12 月 10 日

うま

安齊 裕香

やってきたこの時期。

札幌もとうとう雪が積もりましたね。

今年が終わりますね~。

年末近くなっての楽しみの1つは競馬です。

最近のマイブームです。印象は良くないと感じる人もいるでしょうが・・・。

かわいいもんです。お友だちと『馬部』を作って土曜の夜に次の日のレースの会議。

その程度です。

大人になって、仕事して、結婚して、学生時代ほど友だちと遊ぶことがなくなってきて、なんか友だちと遊ぶのに飲みにばっか行くのもなぁと思ってきた矢先でした。なんとなく"G1のみ1000円だけ"のルールで始まったのです。

やってみると馬部の勝率はなかなか。わりと誰かは当たっているのです。

大学の頃にも少しやっていたけど、久々に真剣に考えているG1レース。

みんな毎回真剣なんです。毎回4人~6人くらい集まってみんなでスポーツ新聞みながら予想するという。いつもお酒は誰も飲もうとしないし。競馬というよりこの時間が好きです。あーだこーだ言いながらみんな真剣なのです。

なにかに向かって真剣になれている時間と、なんとなくみんなが集まっているこの時間が好きです。G1前の土曜の夜は集合です。

さぁ楽しみな年末の有馬記念。

投票もしました。

年末ジャンボも楽しみだけど・・・。

そんなことばかり言っていると、私ギャンブルしかやらない人みたい。

そんなことないです。

2014 年 12 月 9 日

冬が来れば~思い出す~

『冬が来れば~思い出す~』 学園長 杉野建史

この数日でやっと札幌らしい冬になりました。

本校がある和寒町も去年と比較して降雪量が少なく、冬本番とはまだなっていません。それでも気温は札幌よりも低く、月1コースのスクーリング日はいつもよりも厚着をして身構えて行きます。

本校舎は勿論暖房完備で築年数も札幌の施設よりも新しいので、外気温は札幌よりも低いのですが教室は札幌の教室よりも断然温かく感じます。授業をしていると汗ばむこともあります。教室から見える畑には和寒町名産のかぼちゃが植えられていて、夏には濃い緑色の立派なかぼちゃの葉を見ることができます。今は真っ白な雪が降り積もり、そこに正体不明の足跡がついている風景を見ることができます。

学生の時にスキーに熱中していたので冬はとても好きな季節なのですが、この十数年はヨットやスクーバーダイビングに熱中しているため、年中夏が恋しく夏が大好きなのです。そうしてこの時期、夏に後ろ髪をぐいぐいと引かれる思いがするのです。

和寒で生徒とカヌーをしたり、銭函の海でディンギー体験をしたり、小樽の海ではクルーザー体験をしたりする。そんな太陽ぎらぎらで、汗だらだらの夏が...と妄想してしまうのです。そして毎年お世話になっている鹿児島県の与論島の海。この海にどれだけ癒されていることか~。透きとおる水と潮風。何も言うことはありません。

冬が苦手な方がいらっしゃれば、どうぞこの写真で暖まってください。

1枚目はフェリーが着岸する与論港の浅瀬です。

DSCF0076.JPG

2枚目はウミガメが泳いでいる姿です。(見づらいかもしれませんが...)

CIMG4074.JPG

3枚目は毎年宿泊する施設の前にひろがるプライベートビーチです。毎年、ここで生徒達は与論の海を満喫します。

IMG_4346.JPG

2014 年 12 月 4 日

オンラインな人たち

田房絢子

 めいっこたちが大きくなってから、よくLINEを使って連絡が来ます。遊びに来て、とか○○はどうなった?とかスタンプと一緒に送られて来ます。使っている漢字や言葉遣いを見る度にかわいいなぁとか、大きくなったなぁと叔母バカ炸裂ですが、このSNS、そしてスマホというものが当たり前のように身の回りにあふれている彼女たちに対して一抹の不安を覚えるのも確かです。

 今の子どもたちは文字でやり取りをすることに慣れすぎていて、直接顔を見て話しをする機会を減らしているように感じます。ケンカや仲直りをSNS上で繰り広げ、会ったときにはまるで何も無かったかのようにしているかと思えば、顔も知らないような相手が時に心のよりどころになったりします。ちょっと離れますが、あるオンラインゲームでは気に入らない対戦相手に対して罵倒のメッセージを送りながら戦うんだと、何人かの生徒に聞きました。インターネットが普及してからこのような事態はすでに始まっていたのかも知れませんが、ここまで当たり前に身の回りにあるとちょっと気後れしてしまうのは時代遅れでしょうか。

 確かに便利なツールです。何千㎞離れた所に友だちができます。知らない世界を垣間見ることができます。一人で寂しいときは話し相手を見つける事ができます。私もその恩恵を受けた事はありますが、やはり限度を知らないといけません。

 夜中メッセージを送り合っているとか、ゲームをしているとか、朝起きられないのは当たり前です。ちょっとでも返事が返ってこないから不安になるのも無理はありません。そりゃそうです。

 家に帰ってまでずっと友だちと繋がり続けているのはどうかと思います。スマホとはオフの時間やほどほどの距離感を持たないと、自分の神経がすり減っていく気がしてなりません。

 そういえば、この間外食をしたときに隣の席に座っていた夫婦と思われるお二人がいました。おそらく50代くらいかと思います。特におしゃべりをするわけでもなく、黙々と食事をしていたかと思ったら、旦那さんの方がスマホをいじり始めました。その後奥さんも同じように操作し始めました。二人で何も話さずに画面を一生懸命操作しています。・・・これってどうなんでしょう?(笑)

 最近の若い者は・・・ではなくなっています。どんな年代でも常にオンラインな人々が世の中にあふれかえっています。このままではスマホに世界を乗っ取られてしまいそうです。これってやっぱり時代遅れの発想なのでしょうか・・・。