2015 年 9 月 のアーカイブ

2015 年 9 月 15 日

本校の町「和寒町」が開村100周年を迎えた

札幌自由が丘学園三和高等学校校長 亀貝一義

三和高校の本校のある町、そして認可権をもつ和寒町が「開村」して100周年を迎えた。
この7月29日、同町開村100周年の記念行事があり、高校を代表してこの行事に参加し、お祝いの集いにも参加する機会を得た。
和寒に関係するたくさんの人たちの中には、札幌自由が丘学園三和高校と縁のある人も少なくなかった。スクーリングでお世話になるかたがた、役場や教育委員会のかたがた。お礼と挨拶を交わしながらこれからもまたよろしくとお願いと、語り合うことができた。そして和寒町では、「三和高校を応援する会」(三和校後援会)を企画してくれているとのこと。

和寒町の今の人口は4千人を切っている。ところで、資料によると開村した1915(大正4)年当時には7,700余人を数えていた。隣村の剣淵村からの独立だった。

90年前、開村10周年の記念式典(1925(大正14)年)の時、和寒村の人口は8,800余人で今の2倍を超えていた。特に除虫菊は蚊取り線香の原料であるが、和寒はこの重要な産地の役割を果たしていた。私が子どもの頃、この菊の白い花が畑一面に咲き誇っていたことを思い出す。

今、日本全体で人口減が進む。中央も地方も「再生」とか「人口増」を目標とした政策をもっているが、効果はいずれも芳しくない。どうしたらいいのか。

単純なことは、子どもを産めば産めばほど暮らしがよくなるようにすればいいのだ。子ども一人当たりの「手当」を、大人一人の初任給程度まで増やす。そういう政策はなくただ「少子化対策担当大臣」などをおいても「一人の大臣」ポストを用意してあるだけの話だ。

和寒村開村100周年記念行事に参加して気になったことである。

2015 年 9 月 8 日

沖縄に修学旅行中

亀貝 一義

昨日6日に発って11日に帰る日程の高2修学旅行は、今日は与論島泊まり。昨日、那覇についてひめゆりの塔に向かった。今でも、当時ひめゆり部隊として戦場にかり出された女学生たちの中で生きて頑張っている人たちが「語り部」として生徒たちの前で話をしてくれる。引率の田房さんのお話によれば、生徒たちは彼女たちの話を聞いて非常に感じ入っていたという。

1945年4月1日から始まる沖縄戦争を、映像でも文字資料を通じても事前学習を行った。

「らゆる地獄を集めた」沖縄戦争の悲惨さは、戦争というのはどこでも同じであったにしても、特にひどい状況だったとされる。4月から6月末までの約3か月間の戦争は、多くの住民をまきこみ20万人の犠牲を生んだ。

男子生徒・学生たちは「鉄血勤皇隊」として、女子たちは「ひめゆり部隊」として戦争部隊に組織された。沖縄は、当時の日本政府の考えによると本土決戦の「捨て石」の意味を持たされていた。つまり迫り来る本土決戦にそなえて少しでも時間をかせぐ(襲来を遅らせる)、また米兵を殺害することによる勢力を削ぐという意味だった。

修学旅行は、もちろん戦争の追体験ではなく、北海道にはない南国の風土を体験してもらうことも意味としてある。しかし若い人たちが少しでも十五年戦争を実感できるようにするなら沖縄は重要な意味をもっている。今年は「戦後70年」。若者たちが沖縄を体験することが、自分たちの人生の中のどこかに「戦後」を記してもらえればいいのではないか、と思っている。

来週修学旅行を終えた生徒たちがどういう感想を語るか、種々の意味で楽しみでもある。