2017 年 5 月 のアーカイブ

2017 年 5 月 24 日

春の再会

                  田房 絢子

生徒と話していると、ふと自分の曇り色の高校時代を思い出します。

あの頃の自分が大嫌いで、なぜだろうどうしようとずっと思っていました。

いつも悩んでいた毎日。日々悩みを見つけようと、そこらへんの道ばたにまで

目を凝らしていた気がします。悩みを食べて生きている生き物ですよ、思春期って。

その経験が後に役に立つことなんてこれっぽっちも分からずにいましたが、

あの時代にどれだけ悩むかが大人になってから大切なことなんだと今では思っています。

なんであんなに悩んでたんだろう?って正直思いますけどね(笑)

そんな高校時代の恩師と先日ゆっくり話す機会を持つことが出来ました。

大人になって、同じ職業に就いたことで見えてくることもあります。

降って湧いてくる思い出話に、久しぶりに時間を忘れました。

そして思ったことは、意外と私はいろいろな経験(明るい意味で)をしていたこと、

あの3年間を混沌とした時間としてまとめてしまっていたことで、

色褪せてしまったことに気がつきました。考えてみれば明らかなんですけどね。

他の人の視点だからこそ発見があることに、また改めて思い知らされた出来事でした。

それにしても、高校を卒業して20年が経ちました。

色褪せずにいる恩師との時間に、春の再会に、感謝感謝です。

2017 年 5 月 23 日

復帰しました

安齊 裕香

お久しぶりの安齊です。

出産、育児休暇を経て4月から復帰しました。

お休み中連絡をくれた卒業生のみなさん、保護者のみなさん、心配してくれていたみなさん、本当にありがとうございました。復帰後会いに来てくれているみんなもどうもありがとう!!

ゆっくり休ませていただいたおかげで、出産や育児を楽しませていただきました。

子どももすくすく成長しております。

そして、保育園問題。

ニュースで問題になっていることを目の当たりにした日々でした。何箇所も見学に行ったり話を聞いたり、流行りの『保活』を経験しました。都会は大変ですね。

復帰後はワーママとして過ごしていますが、これがまぁおもしろいぐらい大変!

仕事が終わって、保育園に迎えに行って、家に帰ってごはん作って、お風呂入れて、明日の準備をして、寝かしつけて・・・。体力勝負です。せめて実家が近ければなぁ・・・なんて何度思ったか。

でも仕事も子どももどちらも大事なので頑張らなきゃ!!

そんなわけで、帰る時間は若干早いのですが、とりあえず学校にはいますので、卒業生のみなさん、保護者のみなさん、関係者のみなさん、連絡待っていますね。

2017 年 5 月 2 日

「花」と言えば「桜」(「日本の桜」スケッチ)

亀貝 一義

170430 新川の桜.jpg

北海道では、今は桜のシーズンですね。休日にはあちこちで「花見」の宴がもたれています。花といえば桜。

花見というのだから桜でなくともチューリップでもスイセンでもいいのでは、と思うのですが、やはり桜の咲く木の下のパーティでなければムードがもりあがらないでしょう。

いつから「花は桜」というようになったかを少しだけ調べてみました。その昔、奈良時代(710~794)には桜というよりも梅が花の主流だったようです。

有名な「あおによし 奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」の花は梅でした。この梅も遣唐使が中国から持ち帰った花だったといいます。「唐(から)のおみやげ」だったのでしょう。桜はそれから少し遅れて日本に入ってきたとのことです。
「梅の花が咲き誇っている、実にすばらしい、そして今栄えている奈良の都はこの花のようだ」というような意味ですね。

桜を見る会が開かれたのは平安時代(794~1192)になってからでした。この時期から盛んに桜が歌われます。
「世の中に たへて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と在原業平(ありはらのなりひら)は逆説的に桜を歌い上げました。「桜などなければ、心は落ち着いて春をたたえることができるだろうに」。それほど桜は心を騒がせてくれたのでしょうね。

また大伴地主(おおとものじぬし)というひとは
「桜花(さくらばな) 今ぞ盛りと人は言へど 我は寂しも 君としあらねば」と歌って、彼女(恋人)のいないことを嘆きました。

繰り返しですが、「花見」といえば桜の花を見ることです。これは今も昔もあまり変わりありません。一番有名な「花見のイベント」は、豊臣秀吉の「醍醐(だいご)の花見」でしょうか。やはり平安時代に建立された京都にある醍醐寺(世界遺産)で、1598年4月20日(当時のカレンダー)に秀吉は自分に関係のある1000人以上を集めて大々的な花見の宴を催しました。世に言う「醍醐の花見」です。このとき桜を700本以上植えさせたといいます。
このイベントがどれほどすごかったかは想像もできません。
しかし秀吉はこの後まもなく死去し、豊臣氏も桜が散るように衰えていきます。

桜は「散りぎわの美しさ」としてもたたえられます。太平洋戦争の時、多くの若者たちは「同期の桜」を歌って死んでいきました。「咲いた花なら散るのは覚悟、みごと散ろおうよ国のため」と。
桜を愛しても「同期の桜」は二度と歌いたくありません。