2014 年 7 月 1 日

友だちの境界

高村さとみ

どこまでが友だちでどこからが友だちでないのか。

これは難しい問題です。というか、私にとってはあまり考える機会のない問題でした。

今回エッセイをこのテーマで書こうと思ったのは、フリースクールの子どもたちと接していて考えさせられることがあるからです。

今年の子どもたちは良い意味でグループになっていないのが特徴です。特定の人とばかり一緒にいるのではなく、どの人とでも関わることができる。これはとても良いことだと私は思っているのですが、時折こんな声が聞こえてきます。

「友だちがほしい!」

はて、普段話している人たちは友だちではないのでしょうか?どうやら私の考える「友だち」と子どもたちの考える「友だち」の感覚にズレがあるようです。

このテーマを考える時に思い出すのが、学校でのお菓子配りのことです。お土産でもバレンタインの友チョコでもいいのですが、学校でこのようなお菓子を配ろうというとき、個数によって無意識のうちに自分と関わる人たちをランクづけてしまうことがあります。みんなに配れるよう個数を用意していれば話は別ですが、1個のときは一番の親友に。5個だと仲の良いグループの子たちに。10個だと女子だけに。というのはよくある話です。

前述の「友だちがほしい!」はおそらくお菓子が1個のときに渡す、何でも話せるような親友が欲しいという意味だと思うのですが、これまたそういった存在を私自身は欲しいと感じていないのでなかなかその気持ちが理解し難いのです。

例えば私が悩みA、悩みB、悩みCを抱えているとして。特別な存在がいないからこれらの悩みを話す相手がいないということにはなりません。広く浅い関係の中にAを話せる人、Bを話せる人、Cを話せる人がそれぞれにいるのです。しかし、どうも子どもたちの話を聞いていると、「AもBもCも話せる友だちが欲しい」と言っているように感じます。

…書いているうちにフリースクール論に近くなってきました。私は、フリースクールは小さい規模でいいので、各地に数多くあればいいと思っています。たくさんあれば自分に合ったフリースクールを選ぶことができますし、フリースクールAが実際には合わなかったときにフリースクールBに移ることもできます。

浅くとも広い人間関係の方が自分の話したいことを話すことができ精神的にも安定するのではないか、と私は思うのです。ただ、ひょっとしたら子どもたちは深い関係を築かなければAもBもCも話せないと感じているのかもしれません。あるいは同じAの話をするにしてももっともっと深いところまで話したいと感じているのかもしれません。

とはいえ、どの人とでも関わることのできる関係をつくるということは、自分の気持ちだけでどうにかなるものではありません。実は今の関係性は貴重でもっと大切にした方が良いのだと、後から振り返って気づくのではなく、今から自覚していって欲しいと考えるこの頃です。