2010 年 7 月 のアーカイブ

2010 年 7 月 27 日

相手がいるということ

田房 絢子

自分が何かをしたいと思ったとき、何かをし続けようと思ったとき、もし周りにそれを脅かすような相手がいたとしたら、どうだろう?それを気にせずに前に進み続けるか、それとものし上がろうと仕掛けるか。どちらにせよ、自分が進むための一歩は目の前にある。

気にせずに前に進み続ける道を選んだ場合、継続する力や動機は内に潜んでいる。ここでいう相手は「自分」だ。だから外からの刺激や障害に比較的怖じ気づくことなく進んでいける。

一方のし上がろうと仕掛けた場合、これは明らかに他者対自分の問題であって、大きく動かされる要因はその他者にある。相手を蹴落とすことで順位を上げようとする。自分が上に、上に行こうとすればするほど、相手の存在は膨れあがってくる。

しかし、勝負事などは後者に当てはまることが多い。1位を獲るためには2位になりそうな相手を押さえ込まなくてはならない。でもここで登場するのは、いわゆる「スポーツマン精神」と言われるもので、勝負はきれいにさっぱりと、という前置きがあるから気持ちよく挑める。全力で挑んだ結果、もし負けたとしてもお互いに健闘を讃え合えるから、お互いの存在を認めあえる。

結局のところ、私はキラリと輝くスポーツマンでもないし、周りを全く気にしないでいられるほど大物でもない。状況によって、相手を全く気にしなかったり、相手を追い抜こうと密かにがんばったりする。

じゃあ、何を言いたいかというと、どんな考え方をしようとも手段やスタンスを誤りたくないということだ。のし上がるということは、相手を誹謗中傷することで為し得ることだと勘違いしてはならない。誹謗中傷による蹴落としや自己の正当化は、きっと心に余裕がないから。自分を高めるためには、自分が問題であって、相手の存在は良い刺激として考えなければならない。相手を認めることができて、良いところは良い意味で盗ませて頂くし、悪いところは良い意味で勉強とさせていただく。これでいいじゃないか。

たくさんの人、たくさんのもの、たくさんの形。それぞれに良さがある。誹謗中傷じゃなくて、みんな認めあえたら、いいのに。

2010 年 7 月 13 日

初めての強歩遠足

                                                             及川 かおり

札幌自由が丘学園では毎年恒例の「強歩遠足」。去年赴任した私にとっては今回が初めての挑戦です。真駒内から支笏湖までの約33キロを、およそ8時間かけて歩き切るとのこと。先輩の先生方からは道順や注意事項など詳しい説明がありましたが、それでも初参加で完歩できるのか、前日は期待と不安ですぐに寝付けませんでした。生徒たちも毎年、こんな緊張感で臨んできたのでしょうか。
いよいよ当日の朝、小雨が降ったり止んだりの涼しい気候の中、フリースクール生も高校生も一斉にスタート。市街地を抜ける間はまだ楽しくお喋りをしながら歩く余裕がありました。登り坂も何のその、第一休憩所までは大きな負荷も感じることなく到着できました。
ここからは雨足が強まってきたため、カッパを着込んでの再出発。三和高校の生徒数名と道中を共にしながら進みます。次第に上り坂の勾配もきつくなり、それが見渡す限り続く光景に気が引き締まるのを感じました。「もう歩けない」、「限界」。そう言いながらも、生徒たちは自分自身の目標に向かって、汗を拭いながら懸命に一歩ずつ進んで行きました。
ようやく第二休憩所が見え、「がんばれ-!」と手を振ってくれる父母の皆さんの温かい声援に、一瞬、膝や腰の痛みを忘れたような気がします。
深い森を通る国道沿いを歩くと、うぐいすやシジュウカラなどの鳴き声が辺りに響き渡り、正面に恵庭岳を臨む景色は雄大そのものです。沿道のめずらしい花々や木々に目が奪われても、ゆっくり感動を味わう余裕は体力と共に薄れていきます。時に励まし合いながら、お互いに追い越し、追い越されながら、精一杯のペースで黙々と歩みを進める間、生徒たちは何を思っていたのでしょう。「どうして強歩なんてするの?」苦しそうに息を切らしながら尋ねた生徒。その答えはきっと、体験を通して自分の中にしっかり見つけて行くのでしょう。
ゴールまであと数キロ、木々の間から支笏湖の青い湖面が姿を見せた時には思わず、「支笏湖だ-!」と思い切り叫ばずにはいられませんでした。雨上がりの空気に霞んではいても、何て清々しい湖の青。もうすぐ、ゴールです。
仲間と共に目標に向かう喜びや、自分自身の限界を越えていく喜びなど、言葉では伝えられない感動を、来年はぜひYOUスペースの仲間にも体験してほしいと改めて思いを強くしています。最後の数キロは、ゴールするのが惜しく感じられた程です。最後の数キロ、生徒たちの真剣な表情は皆、最高に輝いていました。
また、この強歩遠足の運営を終日支えて下さった父母の皆さまには心から感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました!

2010 年 7 月 7 日

命ってなんだろう?

新藤 理

 フリースクールの授業の一つに「Whats Life?」というものがある。見学に来た方の多くが「これは何の時間ですか?」とたずねてくる、ちょっといいタイトルだ。

 その名の通り、授業で学ぶ通年テーマは「命ってなんだろう?」「生活ってなんだろう?」。総合学習、あるいは道徳や保健などに近い内容が出てくる。伝えたいことがたくさんある中から、4・5月は「こころについて」、6・7月は「仕事について」という題材を選んだ。

 先日、「仕事について」の授業のため、特別ゲストとして元赤十字病院の看護士・Hさんに来ていただいた。フリースクールに通うH君のお母様である。日頃からパワフルそのもののHさんの授業は、やっぱりとても情熱的で、ユニークだった。でも、それだけではない。そこにはたくさんの生命と向き合い続けた人だけが持てる神聖さがあった。

 これ以上の説明は余計だろう。お話の中でとくに印象的だったことを取り上げてここにお伝えしたい。

 

 「私はどういうわけか、幼稚園くらいからずっと世界の平和・出会った人すべての健康と幸福をお祈りしている子だったんです。だから、小さい頃からずーっと『看護士になりたい』と思っていたのね」

 

 「被災地で働く看護士は、たとえ家族がいても、自分の家がぐちゃぐちゃでも、患者さんのことを優先しなくてはいけないの。赤十字病院の看護士はみんなそのつもりで働いています」

 

 「排泄のときに看護士に手伝ってもらわなくちゃいけない患者さんもいます。『汚い』『イヤだな』って思うかもしれないけど、手を借りている患者さんの方こそ、すごく申し訳なくて、つらい気持ちでいっぱいなんです。だから、私たちがイヤな顔なんかしては絶対にだめ。たとえ出したものが顔についたって(笑)、もうゼンゼン平気! っていう顔でいます」

 

 「どんなに力を惜しまず看護しても、患者さんが亡くなってしまうことはある。わたしは悲しくてわんわん泣いていたけど、あるとき先輩に『あんたは家族かい!? 家族の人はもっと悲しんでいるんだよ。しっかりしなさい』と怒られたの。それからは、別れを悲しむよりも、『生きているうちに命に出会えたことに感謝!』と考えるようになった」

 

 「朝、起きたらね、私はこう思うんです。『目が覚めた! 私は今日も生きてる! いえ~い! 私、イケてる!』って。生きているって、それだけで本当にすごいことなんだから。みんなも朝起きたら、『いえ~い!』ってやってみてね(笑)。それだけできっと幸せになれるから!」