2014 年 12 月 26 日

「選べなかった年」に

フリースクールスタッフ 新藤理

 今朝の道新に、社会学者の大澤真幸氏が小論を寄稿していた。「2014年という年は『日本人が自ら何も選択しなかった年』として振り返られるだろう」というその内容に、いつもこの人の論は明快ですごいなあという思いと、その「日本人」の中に間違いなく自分も含まれているのだという胸苦しさの両方が去来した。
 「何も選択しなかった」という状況を端的に表すのが先の衆院選だった、と大澤氏は書く。降ってわいたようなあの選挙は、たしかに国民に何をも運んでこなかったという感が強い。でも、私たちには自らの希望を(「ぜひこの人に」というより「まだこの人のほうがマシ」という選び方ではあっても)表明する権利がある。今よりほんの少し、私たちそれぞれが社会のありようについて踏み込んで考えてみればいろいろなことが変わっていくかもしれないのに...と、衆院選での投票率の低さを残念な思いで振り返りながら新聞を読んでいた。

 しかし、考えてみれば、そもそも自分はどうして選挙に行くのだろう。「国民の権利だから」「社会をよりよくするために」という理由はもちろん正しいけれど、なんとなく模範解答でありすぎるという気がしないでもない。以前このことをちょっとじっくり考えたことがあって、結局それは「家族がいて、家族のことを愛しているから」ということと「教育の仕事をしていて、生徒たちに選挙に参加する自分の姿を見てほしいから」という二つの理由に落ち着いた。まあこれはこれで無難な答えになっているかもしれないが、私にとってはそれなりに切実な命題だ。
 ならば、と逆に自らに問う。もし教育の仕事をしていなくて、家族も持たない孤独の身だったとしたら、それでもお前は投票所に行くのか、と。実は、この問いへの答えは未だに出せないでいる。たぶん私のことだ、どんな仕事をしていても経済的に裕福に暮らしているということはないだろう、でもその時に「経済を立て直してくれる人に一票入れに行こう」という気持ちになるだろうか。なんだかあまりならないような気がする。あるいは、「世界の平和に貢献するであろう人に一票を...」「福祉の充実に力を入れる人に...」どうだろう。やっぱりそれほどピンと来ないかもしれない。結局のところ、私が少しでも公民的な存在として社会をより良くしていきたいと思う願いは、家族や生徒たちなど私のそばにいる人たちの存在によって成り立っているものなのだと思う。
 現実には、そうした隣人たちを持たない人だってたくさんいる。そしてその中には(私がそうだったかもしれないように)選挙に対するモチベーションが湧かない人もいるだろう。彼らに向かって「投票率が低い! 意識が低い!」と大声で責め立てることは私にはできない。ただ、何かを変えられないだろうか、とは痛切に思う。私がこうして教育の仕事をしていることが潜在的に「何かを変える」ことにつながっていればいいのだけれど...と、ひとまず一縷の望みを託して日々を送り、気づけば2014年が終わろうとしている。

 そんなわけで、いつもつくづく感じていることだけど、新藤の今のありようは、大人も子どもも含めた周りの皆さんのおかげによってできているものです。皆さんがいなければ自分は何者にもなっていなかったんじゃないか、本気でそう思います。長くてしまりのないこんな文章を最後まで読んでくださったあなたであれば、その「皆さん」に含まれている可能性が十分にあります。今年も一年、お世話になりました。2015年もどうぞよろしく。