2016 年 7 月 26 日

答えは風に舞ってる

高村さとみ

 ここ数年、学校の先生の実践発表を聞く機会が多く、フリースクールでもそれができないかと考えている。実際、授業を一つ取り上げての実践レポートは書いてみたことがある。授業のねらいと詳細、そしてそれに対する子どもたちの様子や変化。札幌自由が丘学園は五教科や体験的な活動を授業として行っているので、それに対する実践は書けはするのだ。
 しかし、フリースクールの実践といえば「なぜ学校に行けなかった(行かなかった)子がフリースクールで生き生きとしているのか」が肝になるだろう。事例はいくらでもある。いくらでもあるが、それを事例でしか紹介できないところが悩みどころなのである。一つの例を取り出すだけでは、「その子だから」で終わってしまう。「なぜ子どもたちが元気になるか」の共通項を見いだせなければ、誰も真似できない。何か良いことをしていたのだとしても、そのやり方は広まらない。外に証明できないのだ。
 なぜ実践として書けないかは何となくわかってはいる。フリースクールの性質自体が不登校の子どもに対応する、対処的なところなのだ。実践とするにはねらいが必要だ。子どもにこうあってほしい、が先にあって、そうなるために活動として何を仕掛けるか、という順序がある。しかし、子どもからスタートするのがフリースクールの特徴でもある。札幌自由が丘学園ではやっていないが、フリースクールの「ミーティング」がその例である。何かを提案・決定するときは全てミーティングで話し合う。大人と子どもはミーティングの場において平等である。むしろ札幌自由が丘学園のように教科学習など授業時間を確保している(そしてそれに必ずでるようにしている)ことは稀で、多くのフリースクールはそういった活動への参加も含めて子どもの自主性に任せている。実践・ねらいとなるとそこには大人側の意図が必要になるが、子どもの自主性を信じることが実践という形を取りにくくしているのではないか。これがフリースクールの活動を外部に知られにくく、評価されにくくしているのではないか。
 しかし、目の前で子どもたちを見ていると個々の事例では済まない変化や成長がある。フリースクールも子どもが集まって生活している以上、一緒の活動をしていなくたって互いに影響しあっている。集団としての成長を感じるのだ。それを何とか言葉にできないか。型にはまっていなくてもいい、フリースクールなりのやり方で子どもたちの成長を伝えられないか。そんなことを悶々と考えた1学期だった。夏休みに入り多少時間の余裕もできたので考えるのはこのあたりで終わりにして、次は書きながら言葉にする難しさに悶々としたいと思う。