2009 年 7 月 5 日

開拓の村・ニシン漁の盛衰

                                                       亀貝一義

先日、開拓の村で生徒といっしょに「ニシン番屋」のガイドさんの説明を詳しく聞くことができ、初めて知ることができたことがたくさんあった。

私の子どものころ、農村部にもニシンがたくさん売られていた。屋根にまでニシンを干していてカラスがとっていってもあまり気にならないほどだったのではないかと記憶している。昭和30年前後まで、北海道の日本海側ではニシン漁で活気に満ちていた。
2月末に、群来(くき)があると海水面が乳白色になった。ニシンの産卵とそれに伴うシラコの色だ。夜がまだ明けやらぬころ、「ニシンだ」の合図があれば、番屋を飛び出したヤン衆たちの終日の労働が始まる。主として東北から集められたヤン衆たちは、数か月前後の労働で1年間の生活費をかせいでクニ元に帰ったのだそうだ。今でいう出稼ぎ、派遣社員たちだった。しかしこのヤン衆を集めるのも容易ではなかった。しかし山形出身の青山留吉(小樽近くに来たのは「安政の大獄」のころ)は、故郷の若者を動員することに成功した。のみならず、期間労働者であったヤン衆の仕事を夏場でも保障したそうである。
※ 小樽祝津にある「青山御殿」が舞台である。浜益方面に「白鳥御殿」もあった。もといた高校に白鳥御殿の後裔がいた(?)。

にしん番屋の棟梁は、すべてのもうけの9割を自分のものにし、1割を数十人のヤン衆へのボーナスにした。ひどい話だった。だから棟梁はべらぼうなもうけを手に入れた。もちろん皆が皆うまくいったわけではない。うまくいかなければ逆にすぐ破産したという。
獲ったニシンは、約2割を食用にした。数の子も含めてのことである。8割前後は、魚粕として主として関西以西へ「北前船」で送られ、綿花や藍その他の作物にとって最高の肥料になった。
(ガイドさんが、もっこでニシンを背負うこと、大釜でニシンを煮ること、油をしぼり、粕をとったことなどを実演をまじえて教えてくれた。体験した生徒もいた)。

そして強調するには、北海道の石炭やニシンが近代日本の経済を支えてきたのだと。

どうしてニシンは昭和30年代初期にばったりいなくなったのだろう。その理由は必ずしも明確でないが、ガイドさんの言うには「大釜で煮る際の薪」として海岸近くの木を大量に伐採し、それがニシンの「食料」を消してしまったのではないか、という。「森は海の恋人」であることを別の角度から言われた。