2014 年 4 月 のアーカイブ

2014 年 4 月 30 日

さくらさく

田房絢子

ほんのつい先日からやっと暖かくなってきました。

今月の初めの頃に、春は本当にくるんだろうかと思っていたのが嘘みたいです。

でも夕方との気温差で体調管理が難しい・・・学園にも風邪引きさんがちらほらいます。

季節を感じるというのが、なんだか心を和ませてくれると知ったのもつい先日。

穏やかな春の陽気が少しずつ心の冬模様を溶かしてくれます。

秋から冬に変わるときにはない、心がほっとする季節の移り変わりですね。

桜も少しずつ花を咲かせ、街頭では色とりどりの花びらが青い空に彩りを添えます。

植物に詳しくないのでどれが何の桜かはわかりませんが、とにかく心を和ませてくれる色です。

日本人のDNAに刷り込まれているんでしょうか。桜は日本人にとって大切な花ですね。

でもこんな事を言っていますが、私にとってゆっくりと桜を見上げたのは初めてと言って良いくらいです。

通勤路には桜がなかったのと、休日に桜を愛でるようなことをしたことがなかったので・・・。

だから今年は発見の年。

もったいないので、これからはそんな季節の移り変わりに触れる機会を増やそうと思います。

さくらさく。この言葉がやっと札幌にもやってきました。

なんだか北海道がムズムズと動き出してきたような気がします。

次の冬までどんな楽しいことができるかなと、わくわくし始めた4月の終わりになりました。

2014 年 4 月 22 日

「なぜ勉強するの?」

高村さとみ

「なぜ勉強するの?」

子どもと関わる機会のある方だったら一度はこの質問を耳にしたことがあるのではないでしょうか。また、自身が子どものころはこう思っていた、という方もいるはずです。

私自身が中高生のころは、決して勉強は好きではありませんでしたが、「高校や大学へ行くためには仕方ないよね」といくらか割り切って勉強していたと記憶しています。そして大人になった今。フリースクールの子どもたちからこの質問があると「私は大人になってから勉強の楽しさがわかったけど、中学生のあなたが勉強をおもしろくないと思う気持ちもわかる。高校や専門学校、大学に進むときにある試験は、苦手なことにも一生懸命取り組む力を見ている、今はそう考えてみたらいいんじゃないかな。」と、こんなことを話していました。これまでは。

最近はこの質問について、子どもたちに何かを解答しようと思わなくていいのではないだろうか、ということを考えているので、今回はそのことについて書きたいと思います。

子どもと話しをしていると「なぜ勉強するの?」に類似した話がいくつかでてきます。

「仕事に使う勉強だけしていればいいんじゃない?」「この勉強は将来何の役に立つの?」「将来外国には行かないから英語は必要ない!」などなど。

子どもは本当に必要な勉強だけを望んでいるのでしょうか。必要な勉強とは何なのでしょうか。そもそも人は仕事をするために勉強をしているのでしょうか。

必要な勉強など誰にもわからない、必要だから勉強するのではない、というのが私の結論です。例えば誰もが日常で使う足し算・引き算。足し算・引き算は必要な勉強だ、ということに異議を唱える人はいないと思いますが、小学1年生の時点で「足し算・引き算は大人になっても必要なものだから勉強しなくちゃ」と思って勉強している人はいないでしょう。この勉強は必要だ、とは案外勉強し終わってから気づくものなのではないでしょうか。

また、「必要な勉強をすればいい」と言っている子も、好きなこと・得意なこと・興味があることは(「必要だ」という条件がなくたって)「楽しいから」という理由で勉強しています。質問をしてくる子どもだって本当に必要な勉強だけを望んでいるわけではないということです。

これらの話題のときに思い出す話があります。私が好きな漫画「高杉さん家のおべんとう」は、女の子を引き取ることになった社会学者がお弁当づくりを通してその女の子と心を通わせていく、というのが基本のストーリーなのですが、ある回にラオスへ二人で研究調査に行く話があるのです。その時ラオスの人の生活のことを「米作りが中心の村だけど、天気がヘソを曲げたらすぐに台無しになる。でもそんな時は水に浸かればそこで魚を捕る、水がなくなればそこで虫を捕る。自然の都合に合わせてできることをたくさん持っている」という言葉で表していました。また、「こういう暮らし方は大儲けはできなくても、何もなくなって破綻することはない」とも。

日本もすでに、いい高校に入ればいい大学に行ける、いい大学に入ればいい就職ができる、いい職に就けば一生安泰なんて時代ではなくなっています。だとすれば勉強は(例えば高校に行くため、のように)一つの目的に向かってするのではなく、何かがダメになったときに次の選択をするため、という幹から枝葉をたくさん伸ばしていくためのものであっていいのではないか。そんなことを考えるようになりました。

というわけで最初の話題に戻ると、「なぜ勉強するの?」に誰かが、私が、答えをだそうとなんてしてはいけません。一緒に考えるかあるいは「何でだろうねえ」とニヤニヤするのが正解です。

2014 年 4 月 17 日

「新しい年」と自分なりのこれから

亀貝 一義
1月よりも4月が「新年」に思える。
3月、これまで何年かつきあっていた人たちと「卒業」や「離任」「引っ越し」などで別離を余儀なくされる。そして4月、新しい出会いがたくさん生まれる。新らしい生徒たち、その他いろいろなところでの新しい出会いなど。3月の寂しさは忘れ、新しい出会いによって心が高まる。
(わが学園では今年は今のところ、スタッフの大きな入れ替えはない。)
年々子どもの数が減っていく。新入生も減ってくるかも知れない。しかし今のところわが学園は、中学生のフリースクールと、高校合わせて140人ちかい生徒を擁する。着実に「発展」形をたどっていると言える。フリースクールが20年、高校は5年の歩みを重ねている。
新しい年の始まりを確認することは同時に自分の未来が着実に減少していくことを確認することでもあろう。若干寂しさを感じさせる文になるのだが…。
今日の朝日新聞の「天声人語」は、アメリカの詩人ウルマンの「青春」を引用した思いを載せている。
「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる」と続く。
若さと元気は、手っ取り早くいえばまず「歩く」ことが土台、仕事などでの「目標」(上でいう理想)が灯火か、家族を含めてそしていろいろな人とのふれ合い、そういったもろもろが生きがいにつながっていくのだろう。
今日高齢者の割合がどんどん高くなっていくと報道されている。いわれなくとも分かっているが、じゃあどうするのか、自分なりに元気で、自分の役割を積極的にすすめることだろう、かと思ったりしている。

2014 年 4 月 14 日

机周り

桑名八重
以前、このエッセイで「断舎離」について書いた。
その続きを少し。
モノを「片付ける」っていうことが正直苦手でした。
なんで苦手なのか、よくわかっていなかったのですが最近、自分なりに分析してみた。
①貧乏症・・・いつか使うだろうってとりあえず取っておく(使うことはまずない)。
②ものを捨てることへの罪悪感
大きくこの2点だと思う。
ただ、いつまでもモノを貯めこむための膨大なスペースなんてあるわけもなく、なんとかしなきゃ!
という状況になり、思いっきりモノを処分すること半年。
この「片付かない」状況にも変化がおきた。
とにかく、不要なものを増やさない。
一つ買ったら、ひとつ処分。← かなり徹底してます。
悩んで処分できないモノは、目につくところに置いておく。← 周りが片付いていると、この処分できないモノが邪魔に感じてきて、最後に「もういいや!」となって片付きました。(自分の部屋は・・・)
これまでの人生「収集癖」には基本的に無縁だと思っていたのですが、
やはりいろんなモノ(大抵仕舞っているだけの)に囲まれていると実感しました。
本当に必要なものだけ所有する。
これが理想なんだけど、いかんせん、貧乏症はそう簡単には消えず色々なところで顔を出す。
こころ安らぐ雑貨に一目ぼれしてしまうし、頂き物は無下にできない。
必要なモノと不要なモノの線引きがまだまだ私には大変なのかもしれない。
以前にくらべモノとの付き合い方が変わってきたとはいえ、まだまだ道半ば。
今年度の目標は『職場の机周りの現状維持』。
レイアウト変更を機にかなり一生懸命片付けました!(片付いたかどうかは人によって判断が違うでしょうが・・・)
これを維持しつつ、もう少しモノを減らしていきたいと思う今日この頃です。