’スタッフエッセイ’ のアーカイブ

2018 年 12 月 3 日

学校に行きたくない君へ

高村さとみ

 不登校新聞社がこれまでに掲載したインタビュー記事を抜粋した「学校に行きたくない君へ」という書籍がある。このインタビューのおもしろいところは、インタビュアーが不登校・引きこもりの当事者や経験者であること、インタビューの候補者は子ども・若者が「私が話を聞きたい人」であるところだ。誰かのため、世の中のためでなく自分のために話を聞くことが中身を深めることにつながるのだそうだ。紙面に掲載されているやりとりはごく一部で、きっとインタビュアーは並々ならぬ熱意と緊張感をもってインタビューに臨んでいるのだろう。
 本書には20名のインタビュー記事が登場する。樹木希林、荒木飛呂彦、西原理恵子、羽生善治...そうそうたる顔ぶれである。「この人の話は共感できるな」「この人とはちょっと合わないかも」「こんな視点もあるのか」と自分の考えに照らしながら楽しんで読んだ。その中で「この話はいいな」と思ったものの共通点は、どこか適当で楽観的である話だ。若者のときにフラフラ生きていた、大人になって肩の力を抜いて生きている、そんな話が良い。読者へのメッセージ性が薄い、何かしらを押しつけてこない心地よさがある。
 札幌自由が丘学園は大きな行事が一段落し、中学3年生はイヤでも来春のことを考える時期。この時期になると、志望校が決まっていない生徒は早く決めねばと焦り、決まっている生徒はもし落ちてしまったらと考え不安を抱いている。特に将来の夢を明確に持っている生徒は「もし落ちたら」の思いも強い。まるで高校の合否で将来が決まってしまうように。未来に真剣に向き合っていることはすばらしいと思いつつ、不安に押しつぶされそうになっている姿を見ると、もっと力を抜いて!と言いたくなる。今の年齢だから言えることだが、自分に何か目標があるとして、そこへ向かう道筋は一つではない。あっちの道もこっちの道も、いったん戻ってから再び歩く道もある。フリースクールが学校に行く以外の道を示しているように。
 これから約3カ月、進路のことで頭がいっぱいになる3年生たちには、ぜひこの「学校に行きたくない君へ」を紹介したい。私は適当さに魅力を感じたが、違う記事がアンテナにひっかかるかもしれない。自分だったら誰にインタビューしたいかを話すのも楽しいだろう。「学校に行きたくない君へ」、おすすめである。

2018 年 11 月 21 日

11月1日、フリースクール札幌自由が丘学園の25歳の誕生日でした(その記念行事など)

亀貝一義

1993年の11月1日に、フリースクール札幌自由が丘学園が誕生しました。この場所は北22条4丁目のアカシアビルという小さいビルの4回にある一部屋でした。そのときの「入学生」は6名でしたが、すぐ1名加わって7名が事実上のスタートでした。
この7名は中学生が2人、中卒者が5名でした。

フリースクールはその後北16条に引っ越しをし、今のビルに移ったのは2002年8月のことです。

初期のフリースクールは、中卒者が多くて、非常に活発にいろいろな活動をしました。バンドのライブとか演劇公演とか、また映画の制作とか、父母といっしょに「自由が丘のひろば」といった市民の集いなど。

フリースクール活動の中から、高等部が生まれ、そしてこれは2009年に札幌自由が丘学園三和高等学校に発展してきました。

スタッフも、当初いっしょに活動した何人もの人がすでに亡くなっています。今その人たちを思えば涙がこみ上げる感がします。また別のフリースクールで活躍している人もいます。学園長の杉野さんが着任したのは96年のことです。そしてその後現スタッフがそろったのは2009年です。札幌自由が丘学園はフリースクールの発展と軌を一にしています。今、三和高校とともに札幌自由が丘学園の発展の柱です。

11月10日(土)の午後2時から、札幌自由が丘学園創立25周年を記念するイベントを行いました。父母や卒業生たちが参加してくれたのですが、ここで記念講演をお願いしたのは、秋山幸二さんという方です。秋山さんは、「遠友夜学校に学ぶフリースクールの原点」というテーマで1時間近い講演をされました。新渡戸稲造が1894年に、学ぶ機会を経済事情でもつことのできない青年たちのために、南4条東4丁目に「遠友夜学校」を創設し、この年から50年間、主として学生たちのボランティア活動によって高貴ある伝統がつくられました。

札幌自由が丘学園の25周年の記念行事にふさわしい内容のイベントであったと思います。

私たちはこれからも、新渡戸稲造など優れた先人たちの気持ちを体して札幌自由が丘学園を発展させていきます。引き続き父母をはじめ多くの学園のサポーターの皆さんのご協力を得たいと思います。

2018 年 11 月 5 日

目指すは不言実行

三和高校 田房絢子

去年から日本語検定を受けているので、漢字や熟語、四字熟語や敬語などを勉強する機会が増えている。漢字は学びなおしの部分が大きいが、四字熟語になると知らないところからのスタートなので、「???」が頭の中を駆け回っている。ただ、驚かされるのが、先人たちの知恵。表現できないものがないのではないかというくらいの数と質の四字熟語が手のひらサイズの辞書にひしめいている。これってあの状況を指しているのでは?とかこれってあの人のことを言うんじゃないの??とか、ページをめくるごとに驚きと面白さが襲い掛かってくる。これは学んでいるというよりもノンフィクションか小説を読んでいるのに近い。ただひたすら読み進めているので、記憶しているわけではない。でもそれなりのインパクトを伴って読んでいるには違いない。でも書いてみてと言われれば、まだまだ書けるレベルじゃない。となるとこれは検定用の勉強になっているのか、なっていないのか・・・。いずれにしても大なり小なり知識を吸収していることには違いないから、と自分にいいわけをして、今週の検定に挑もうと思っている。

また、英語を学びなおそうと大学の講義も受けている。英文法だけでなく言語学や比較文化なども含めて勉強しているので、改めて文字を伴った学びに日々驚かされている。頭でなんとなくわかっていることの中にはわかってないに等しいものもある。これは私の頭の構造からきているのだけれど、耳からよりも目からの情報、特に文章のインプットがないと非常に記憶に残りにくい。なので、教科書を漫然と読んでいるだけでなく、自分で板書をする授業を受けることでより効果的な学びになっている。そして、理屈を踏まえた学びをしないと、本当に身にはならない。これは中学や高校の時が思い出されるのだけど、英語に関してはLessonを4つや5つ、一言一句間違えずに暗記するのは簡単なことだった。全文暗記しているから、テストはほぼ完璧。でもこれって自分にとっては時間がたつと忘れていく勉強に過ぎなくて、内容が極めて薄い方法だった。その一過性の勉強しかしてこなかったことをすごく後悔しているので、学びなおしの今こそ、本当に身になる勉強をしたいと思っている。そして、大人の常套句「毎日忙しいから」と自分にいいわけをせず、今日もまた机に向かおう。そう、気持ちはいつだって前向きなんだけど。

2018 年 10 月 9 日

職員旅行 ー 鎖国と禁教、そして戦争・原爆

nagasaki.jpg亀貝 一義

少々遅きに過ぎた感があるのだが、9月23日から4日間、職員旅行で長崎、熊本、大分の各県を回った。そのレポ。
江戸時代、ただ一つだけ外国に向けての窓口だった長崎、そしてこの長崎は広島とならんで原爆の犠牲を余儀なくされた町でもある。鎖国から開国へ、そして近代化の流れと戦争の惨禍など日本の近代の特性と矛盾をきわめて鋭く描いて世界に示した歴史のいくつかのドラマがかさなっている地域を、駆け足で体験してきた感がする4日間だった。

鎖国・江戸時代の260年間、ただ長崎だけがオランダというヨーロッパ世界に対して門戸を開いていた。この小さな空間から世界がどのように、日本人の目に映っていたのだろうか、また世界の近代化のすさまじい260年間が日本人の意識と感性にどういう影響を与えていたのだろうか、などを知ることは、できるはずもなかったが、そういう問題意識はこれからのテーマになっていきそうな感想だった。

鎖国の時代は厳しいキリスト教禁止政策が徹底されていた。しかしその中でも、かくれキリシタンが子孫代々生き続けていたことも、天草地方での歴史の中で教えてもらった。

杉野さんが、私たち8人(プラス幼児1人)を乗せて、朝早くから夜遅くまで北九州を運転して見聞を広げることに尽力をしてくれたが、その体力と熱意にただ感謝するばかり。

A先生が2歳の男の子をつれて参加された。この利発な子どもはみんなのアイドルになったというか、話し相手になってくれた感がする。どちらが「子守」役だったか、むしろアオト君が主役だったといっていいかも知れない、そんな坊やだった。

「このアオト君が成人になってそのお祝いにカンパイをすることができるとすればその時自分は白寿だ。それまでは元気で生きているよ」という新しい人生目標を見つけることができた。

天候にもめぐまれ、また帰りの九州から東京に向かう飛行機がなかなか激しく揺れてまた一つの体験を重ねることができたような。

2018 年 8 月 14 日

1945年8月13日

高村さとみ

 お盆前、函館の祖父母を訪ねました。これはその時に父方祖父が話してくれたことです。1945年8月13日頃の話と思います。祖父は函館生まれ、函館育ちで今年90歳になります。戦時中は海軍予科練習生(15期)として茨城の土浦にいたそうです。

 160名で千葉に演習に行き、土浦に戻ろうとした時のこと。駅の都合で次の日の朝まで列車は出ないことがわかった。上官の命令で明朝集合、それまで解散となったが駅は人でごった返していて待合室は使えない。まだ10時くらいのこと。その辺で待機するしかないと思ったが、上品な女性が「うちで休んでいってください」と声をかけてくれ、6人でついて行くことにした。女性はもっと大勢で来てもいいと言ってくれたが、もし食料を分けてくれるとなった時に一人当たり分が多い方がいいと思い、6人で女性の家に向かった。駅から歩いて4、5分。門から玄関まで30mほどもある、絵に描いたような豪邸だった。自分たちは上がらない方がいいのではとためらっていると、女性は母と姉を呼んできて勧められて家に入った。女性は母と姉のことをお母様、お姉様と呼んでいて、また何て上品なのだろうと思った。
 当時の食糧難の状況では考えられないことだが、自分たちのために白米を炊いて出してくれた。この時期に白米を、しかも初対面の自分たちのために出してくれるなど、よほど裕福な家だったのだろう。風呂にも入るように勧めてくれた。しかしここで東京出身の仲間が警戒しだした。警戒心の強さはさすが、東京の者らしい。裸になったところを襲われるかもしれない。そう考えて2人ずつ風呂に入った。
 結局その後も何もなく、朝の5時。豪邸でもてなしを受けたことをみんなに自慢できると考えながら駅に戻った。しかしここで仰天した。駅には人がおらず、一緒に演習に来ていた160名もその荷物もない。驚いていると、No.2の立場である佐藤少尉がやってきた。前の日の夜9時に臨時列車が出ることになり、みんなそれで移動した。佐藤少尉は明朝集合、と命令をした立場なので6人を探しながら駅で待っていた。一体どこに行っていたんだと怒られたが、明朝まで解散と言ったのは佐藤少尉ではないかと言い返した。それから土浦へ移動したところ、荷物を抱えた同期とすれ違った。終戦。家に帰れるのだとその時聞いた。
 函館に戻る途中、たまたま苫小牧出身の者と出会い戦争に負けたことの切なさを語っていると、その者がこう言った。「その切なさはこれから良い思い出になるから、決して忘れてはいけない」
 女性の家を訪れた6人の中に、茨城出身の者がいた。戦後の生活が落ち着いた頃、女性に改めてお礼を伝えようとその者は千葉に行った。駅から踏切を越えて右に曲がり2、3本目の道のあたり。道順を覚えていたのに豪邸は見つけられなかった。2回、一日がかりで探したが、やはり見つけられなかった。

 最後はまるでキツネに化かされた昔話のようで、真相はどうなんだと不思議に思ってしまいます。しかし、祖父にとっては不思議なことなど何らなく、あの時白米を出してくれたことの感動や駅に人がいなかった時の衝撃の方が印象に残っているようです。お盆前に何ともいい話を聞くことができました。

2018 年 8 月 1 日

「台湾」に行ってきました

亀貝 一義

7月末、クルーズの旅ということで、横浜港を出て石垣(台風で沖縄を避けて)、そして台湾の基隆市の二つだけ陸地を歩いて、8泊9日のほとんどは船で過ごすというイベントを体験しました。大した嵐にも遭わなかった(避けた)のでホテル暮らしの感です。

台湾島は政治的には中国に属しているようですが、独立国のようでもあります。基隆(日本語読みでは「きりゅう」、台湾読みでは「キールン」)市は台湾第二の街ということで、ちょっと見では日本の大都市の中にいる感じです。

かつて1895年から50年間、台湾は日本の一部でした(日清戦争後、日本の「植民地」になっていた)。しかしこの間、日本が台湾人をひどく扱ったということもなかったのでしょうか、鳥居なども残っていました。「神社」があったかどうかは分かりません。

そもそも台湾というのはどういう位置にあるのか、どうもすかっとしません。中華人民共和国は「わしらの国の一つの島だ」と言っていますが、台湾では今は懐かしい「中華民国」の国旗が公的な機関には掲げられています。

バスガイドさんは、私たち日本人相手だったのか、きわめて流ちょうな日本語で、日本との関係はいいのです、と言っていました。そして将来の台湾はどういう方向に進むのか「分かりません」とのこと。

日本の企業も進出していますし、店の買い物も千円札で間に合います。しかし「外国」に行くということでパスポートを準備するということはありました。また行きたいか、と問われたら、多分違う国をあげるかも知れません。

2018 年 6 月 25 日

北海道の楽しい100人

高村さとみ

 4月に「北海道の楽しい100人vol.2」というイベントで話す機会があった。このイベントは2か月に1度、北海道でおもしろい活動をしている4名のゲストが15分で自分について語るというもの。もう何度も聞きに行っていて、その度に自分の知らない仕事や活動の話に刺激を受けてきた。まさか自分が登壇するとは!という気持ち半分、参加するたびに「自分だったら何を語ろう?」と考えてもいた。だから声をかけてもらった時には、新しいことに挑戦する時の興奮と緊張感があった。
 これまで保護者やフリースクール関係者の前で話をすることはあったが、このイベントに集まるのは異業種、異年齢の人々が150名以上。15分で語るにはかなり内容を厳選しなければいけない。基本的には自分を語る、なのだがせっかく大勢の人の前に立つのだから、伝えたいことを柱に据えて話そうと決めた。子どもがいる人もそうでない人もいる。不登校の子に関わったことのある人もそうでない人も。ひょっとしたら自分の子どもが不登校だという人も自分が不登校だったという人もいるかもしれない。さて何を話そうか―。
 まずは不登校について共通認識を持ってもらうために、「もし自分の子どもがこんな状況になったら...」という話をした。朝、お腹が痛くなる。「明日は学校に行く」と言うけれどなかなか行けない。昼夜逆転の生活になるかもしれない。親の不安な気持ちを想像し、自分だったらどうするか?を考えてもらった。おそらく車で送って連れていくとかゲームを取り上げるとか、そんなことを考えたのではないかと思う。そして今度は子ども側の気持ちの話。学校に行く、は学校に行かなければいけないという気持ちなのかもしれない。学校のある時間帯に起きているのはつらい。子どもも罪悪感を持っているのだと。あとは自分がフリースクールで働くことになった経緯や出会った子どものことなどを話した。会場のすべての人に共通して伝えたいことというのはかなり悩んだのだが、「大人は楽しい、という姿を見せてほしい」と伝えた。今不登校である子もしんどいと思いながら学校に行っている子も、大人の自由さ、楽しさがせめて希望になると良いと思った。
 かくいう私も日々の中で落ち込んだり、疲れたり、腹が立ったりすることは往々にしてある。しかし子どもと接する上で私自身が元気でいなければならないと思っている。元気になるための方法はまた別の機会に書くとして。今回の話が子どもをあたたかく見守る大人を増やす一助となれば良い。もちろんこうした活動を続けることが大切なのだが。

2018 年 6 月 24 日

「遠友夜学校」って知ってますか? ー 新渡戸稲造が札幌で開いたフリースクールの原型 ー

亀貝一義

新渡戸稲造という人は、5,000円札に描かれている明治期の人物です。岩手の生まれですが、札幌農学校を卒業したクラーク先生の「弟子」につながる人と言っていい人ですし、国際連盟の事務局次長として、世界平和のために活躍した人でもあります。
彼が、妻萬里子(メリー)夫人の実家から送られた遺産1000ドルを原資に、札幌の南4条東4丁目に学校を開きました。これは、主として経済的理由で学校に行けない子どもたちのために準備した夜学校で、「友あり遠方より来たる」から遠友夜学校と名づけました。
スタッフは今でいうボランティアで働く学生たちでした(主として北大の学生)。
この学校は1894(明治27)年から50年間続き、戦争が厳しくなった1944(昭和19)年閉鎖を余儀なくされました。。

私はこの学校こそ、今でいうフリースクールであったと思います。学びの場としてのフリースクールの原型が札幌で誕生したということは、非常に教訓的であると思いませんか。

北海道で最も古い歴史をもつフリースクール札幌自由が丘学園は、今年25周年を迎えます。遠友夜学校の経た歴史の、まだ半分の期間ですが、役割やスタッフの意味からほとんど共通の教訓をもっていると思います。意義を歴史的に確かめながらさらに貴重な教訓を創っていきたいものです。

※ この文は「希望の樹」の最新号の冒頭の文章です。その後、新渡戸稲造関連の集まりに出たこともあって、もっとこの文章に記した意義を広げたいという気持ちになりました。そういうことで「再録」ですがご理解ください。

2018 年 4 月 21 日

札幌自由が丘学園三和高等学校の第10期入学式での「式辞」(180420)

       校長 亀貝 一義

 札幌自由が丘学園三和高等学校に入学することになった生徒の皆さん、入学おめでとう。
 本日、新しく私たちの学校に入学することになった生徒は、月1・在宅学習コースが4名、全日の毎日学習コースが19名で合計23名です。
 本校の生徒数は、月1が合計で24名、全日が合計で47名。札幌学習センターの生徒数は合計で71名。そして東京学習センターの生徒たちが63名ですから、三和高校の生徒数は合計で134名です。

 たくさんある高校の中で、私たちの三和高校を選んでもらえて本当にうれしく思います。
 札幌自由が丘学園には、他にフリースクールがあります。今の在籍者は10名ですから、144名の生徒が札幌自由が丘学園の生徒ということで平成30年度2018年度がスタートしました。
 これからいつものようにたくさんの転入生を迎えることができると思います。

 多くの皆さんは、先月までは中学生でした。皆さんは高校進学にあたって、誰もが「友だちができるだろうか」とか「勉強についていけるだろうか」ということについて不安をもっていたと思います。
 勉強もちょっとだけ難しくなるかも知れません。まわりからも「高校生なんだからもう子どもではないよ」と言われるかも知れません。
 人への態度も、たとえば言葉遣いなどを含めて、これまでよりはバージョンアップしなければならないですね。しかし、もし皆さんが友だちができるかな、とか勉強は難しいのでは、という不安を持っていたとしてもあまり心配しないでください。やさしい先輩、いいスタッフがいます。もし不安や困ったことがあれば何でも担任や、ここに座っている先輩にたずねてください。きっとやさしく親切に答えてくれると思います。
 
 この機会に、札幌自由が丘学園の理念と目標について触れておきたいと思います。
 三和高校の前身はフリースクールでした、フリースクールは25年間の歴史をもっています。今の学校にはどうも満足できない、なじめないという子どもたちのためのフリースクールからのスタートでした。
 その後、「高等部」をスタートさせ、9年前の4月、和寒町の協力があって札幌自由が丘学園三和高等学校を開くことができました。2009年のことでした。皆さんはこの高校の第10回目の入学生です。

 私たちの高校は、他と違うところがいくつかあります。
 多くの学校は、「君はこの成績だからこの高校だよ」といわれて入ってきた生徒たちがほとんどです。しかしここは、人数は少ないが実に多様な生徒がいます。
 勉強のできる人もいます。反対に少々遅れている人もいます。非常に個性豊かな人がいます。

 25年前、私たちは私たちが開く学校を「自由と共同の学校」にしていこうと決めました。だから、こまごました校則はつくっていません。生徒の皆さんの自由と自主を大切にしています。この考えはフリースクールであっても高校であっても変わっていません。
 そして「共同」とは、生徒どうしの共同、皆さんを支えるスタッフや父母、地域の人たちの共同、そして生徒と大人たちの共同、三和高校の「和」の意味でもあります。この自由と共同の学校でみんなが元気を取りもどしています。

 この機会に、皆さんに、高校生になってこれだけはおさえて欲しいと思うことを2点強調したいと思います。
 第一は、勉強に対しても、あるいはその他皆さんの趣味を深めることなど、何かに対して「やる気」を持って欲しいということです。意欲を持って欲しいということです。
 第二に言いたいことは、皆さんが将来どう生きるか、何をめざすか、といった将来への夢を考える時期だということです。焦らなくともいいから、「吾何をなすべきか、どう生きるべきか」を折に触れて考えながら、自分らしさの基礎を固める3年間であって欲しいと思います。

 入学式での生徒数は少なくとも、これまでの例では今後多くの転入生などを迎えることになると思います。いろいろな高校で傷ついたり疲れたりして方向を変えたいという高校生が少なくありません。そして3年間の三和高校での高校生活を終えて次ぎのステージに向かうときほとんどの卒業生が「三和高校で学ぶことができて良かった、ここがわが母校だ」という感想をもって挨拶していきます。多分皆さんも同じだと思います。

 そして、父母の皆さんへささやかなお願いです。 
 単なる一人の「利用者」としてではなく、学校を共同で動かす当事者という気持ちをもって臨んでいただければ幸いです。 

 さいごになりましたが、この入学式に23名の新しい札幌自由が丘学園三和高等学校の生徒たちの前途をお祝いするためにお集まりいただいた父母、先輩になる在校生の皆さん、そして和寒町の皆さまに、学園を代表して心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 以上をもって、学校長の式辞といたします。

2018 年 3 月 17 日

学校復帰をどう考えるか

 高村さとみ

 3月16日(金)、15名の生徒がフリースクール札幌自由が丘学園を旅立ちました。進路未定の子もいますが、中学3年生の子はほとんどが高校へと進学していきます。
 最近、クラスジャパンプロジェクトという取り組みが話題になっています。関心のある方はぜひホームページをご覧いただきたいのですが、不登校が引きこもりにつながるように書かれていたりと、いろいろと疑問が残る内容です。なかでも批判が集中したのは「不登校者全員を通学していた学校に戻す」というミッションです。現在このミッションは削除され、「ミッションに関しての真意」が掲載されています。
 学校復帰をどのような意味で使うのかは団体の性格によって2パターンに分かれるかと思います。一つは先のクラスジャパンプロジェクトのように中学生なら籍を置く中学校に学校復帰するという意味。もう一つは高校進学やその先の専門学校・大学進学も含めて学校復帰と捉えるという意味です。札幌自由が丘学園ではスタッフから子どもに学校復帰を促すことはしていません。ですが、子どもが学校復帰したいという意思があればそれを応援するというスタンスです。実状、在籍校へ復帰する生徒は少ないのですが、先に述べたようにほとんどの生徒が高校進学をしていくという意味では、学校復帰のための役割を果たしているといえます。また、適応指導教室によっては学校復帰前提の利用を求められ、子どもがそれを拒否したために教室の利用ができないことになった、というのはよく聞く話です。子どもの気持ちを想像してみるに、今現在何らかの理由で学校に行きたくないから不登校になっているのに、「学校復帰するためにがんばろう」などと言っても自分を否定されている気持ちになるのではないでしょうか。子どもの気持ちを第一に考えるならば、学校復帰という言葉は軽々しくは使えません。
 それだけに、今回のクラスジャパンの動きはどうにも腑に落ちません。学校復帰を打ち出せば批判が殺到するなど容易に想像できることです。それなのに今回のようなことが起きたのは、学校復帰の持つ意味に鈍感でいるのか。それとも批判が起こることを覚悟しながら、自治体に受け入れられる形式を優先したのか。いずれにしても、子どもの気持ちを第一に考えましょうという当たり前のことを、私たちはもっと発信していかなければならないでしょう。