2012 年 10 月 25 日

「わらしべ長者?」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

私が旭川の教育大学を卒業してから最初に赴任したのが歌志内の1学年1クラスしかない小さな小学校だった。 小さな学校では初任者であっても、一人でたくさんの役割をこなさなければならない。 できる、できないは通用せず、とにかくやるしかないという状況だった。 当時は必死になってもがいているだけだったが、そのことが後に大きな展開を見せることになるとは思わなかった。

私は小さな頃から運動が好きで、教育大学も体育科に入り、運動一筋で生きてきていたようなものだった。
そんな自分にとって、音楽はきらいではなかったが、音楽の授業は、どう見ても理解しにくいオタマジャクシの連続で、非常に苦手意識を持っていた。
小学校教諭の免許を取るのに、ピアノ室に閉じこもって、ピアノのできる友達から指使いを見て覚え、楽譜を読まずに何とかピアノを覚えてきてはいたが、簡単なバイエルを一曲仕上げるだけでも非常に時間がかかった。
学校の先生になりたいという思いで何とかしたものの、音楽専科のいない小さな小学校で、日々の音楽の授業をいきなりこなしていくことは、予想以上に難しかった。
自分の得意な教科の授業準備にも時間がかかっていたのに、音楽の授業準備は、ピアノの伴奏もあるために、授業準備とは別に夜遅くまで練習が必要だった。それでも、少しでも良い授業がしたいという思いで必死だった。

苦手なことに取り組むことは大変なことだ。
苦手を克服するためには人の何倍も時間がかかる上に、努力してもなかなか人並み以上にはならない。

音楽の授業の前の日は、憂鬱な気持ちは拭えなかった。

しかし、子どもの中には、音楽嫌いな子もいる。
そんな子たちを前にして、自分が先に音楽嫌いになっていては、子どもに影響がある。
音楽が得意で、音楽の授業を楽しみにしている子もいる。
苦手なことは変わらなかったとしても、自分がまず、好きになることだけは避けて通れない課題だった。

週末ごとに楽器店に通い、自分にできそうな楽器を探し、何とか自分自身が音楽を好きになるように仕向けた。
そんな中で、非常に奇妙な楽器、ケーナと出会った。
小学校の学芸会で「コンドルは飛んでゆく」をリコーダーで演奏した経験があったので、もう一度童心に帰って笛を吹いてみたいと思った。
ケーナは単なる竹の棒に穴を開けただけの無骨な笛だったが、その素朴なところにこそ惹かれていった。
しかし、尺八と同じように音を出すだけでも困難な楽器で、そう簡単に曲が吹けるようにはならない。
音楽の初心者にはますます取り組みにくい楽器だったが、誰でもできそうな楽器を大人になってから始めるよりも、誰にもできそうにもない楽器を自在に扱うことができるようになれば自分の人生が変わるのではないかと予感した。
それ以来、ケーナを肌身離さず持ち歩き、所構わず練習をした。
車の運転中も、ちょっと信号待ちがあればすぐに音を出す練習をした。
寝る時も仰向けになりながら静かに吹いて指づかいの練習をし、気がつくとそれを子守唄にして寝ていた。
そんな中、ピアノの伴奏やギターでの弾き語りができるようになり、音楽の授業も、私自身が一番楽しみにしている授業になっていった。

私のケーナへの情熱はエスカレートし、やがて自分でケーナを作るようになった。
同じ音楽をする仲間と出会い、人前で演奏するようになった。
ボリビア・ペルーを旅行し、現地のケーナの製作の仕方や演奏法を参考にし、マチュピチュの遺跡の前でコンドルは飛んでゆくを吹いてきた。
日本に帰り、北海道各地のイベントに招かれて演奏するようになり、その内の一つとして、自由が丘学園でのイベントがあった。
私がここで演奏したことはフリースクールスタッフを10年続けている音楽好きの新藤さんが記憶してくれていた。

苦手な音楽を受け入れることで、私の人生は大きく広がっていった。
生徒たちと音楽を楽しめるようになり、音楽を通して多くの人と出会い、友人も数多くできた。様々な慈善活動に協力することができるようになり、そしてフリースクールと出会うこともできた。そして、現在はこの札幌自由が丘学園の職員として勤務することができ、今の生徒たちとの出会いを実現させた。

20年近く前に握りしめた、たった一本の竹の棒が、私の人生を導いてくれたこの奇跡の様な出来事は、さしずめ、現代版わらしべ長者といったところかもしれない。
単なる偶然という言葉では表しきれない不思議な縁をひしひしと感じるものである。