2013 年 9 月 24 日

「自由であること」

フリースクールスタッフ 鶴間 明

不自由な世の中になってしまった。
先日、生徒たちとサイクリングに行った際に、立ち寄った公園でつくづく思った。
私が育てた子たちを連れて、かつてその公園に来た時にはあった遊具が取り去られていたり、使用禁止になっていたりした。
使えなかったのは、とても高い位置からつり下げられているブランコや、螺旋状に降りてくる滑り台等で、いずれも私の子どもたちが好んで遊んでいたものだった。
私も、生徒たちと童心にかえってそれらの遊具で遊んでみようと思ったのだが、すっかり興ざめしてしまった。
生徒たちも「この遊具、小さい時に、ハマっていたのに、、、」と残念そうにしていた。
危険な遊具は取り去って、安全な遊具だけにしてしまう。
危険な物はないので、これで子どもたちは安心して自由に遊んでくれるだろうと大人は思う。
しかし、ここにこそ大きな落とし穴が潜んでいる。

取り去られていった公園の遊具でとても思い出深かったのは、箱ブランコだ。
4人で向かい合わせになりながら力を合わせて揺らすことのできるブランコは他にはない遊びだった。
しかしこの箱ブランコ、外側から押すと、手を滑らせて転んで、頭がブランコの下敷きになってしまって命を落とす危険なケースがあり、次々と撤去されるようになってしまった。
跡地には箱ブランコが地面に埋める様に設置され、ただのベンチになってしまっていた。
撤去はこれだけに留まらず、衛生面の問題で砂場が、箱ブランコと同様に安全性の問題でジャングルジムが撤去されてしまってきている。
先日行った公園では高い部分の鉄棒や振幅の長いブランコ、そして一部の滑り台も使用禁止になっていた。

これらの事故で怪我や命を落とした方は本当に残念なことであると思う。
しかし、一度事故があると、その責任の全てを設置した側、設計した者が負うことになり、結局は次からは担いきれないので撤去してしまうという流れで、私たちは幸せになれるのだろうか。
旧約聖書の冒頭にはエデンの園の話がある。
エデンの園の中心には食べてはいけない木の実をわざわざ神は設置している。
これを食べると死んでしまうと言われた木の実だが、他の木の実は食べても良かった。
善悪を判断できる状況になっていることが自由であるという事である。
神は人間を想像するときに自分のペットのようにではなく、自由を与えるほどに大切な存在として扱ったという話だ。
「自由」というと好き勝手にできるイメージがあるが、規則を破る自由もあれば、自分の意志で守っていく自由もある。
本当に自由な人間は、誘惑を振り払ってより善く生きることを選択しようと努力するはずである。
ただ、人間は不完全で、時に失敗をすることもある。(アダムとエバも禁断の実を食べた)
しかし、だからといって、食べも良い木の実だけしかない世の中にしたとしたら、それは人間が自分の意志で選んでいるのではなく、まるでペットのように扱われて、檻に入れられ、良い物だけ選ばされている状態と変わらない。そのような状態では、人間の心が育つはずがないのである。
人間には良いことと悪いことを選んで生きる権利がある。
そして、若者には、失敗する権利もあると私は思っている。
小さい頃から、やってよいことと、いけないこと、これ以上やってしまうと危険なことと、ここまでであれば安全であることを、失敗を繰り返しながら、泣きながら、体感しながら覚えていくことが必要な時期がある。
その過程においては、まれに大きな事故につながることもあるが、他の動物が自然界の中で危険を冒しながら成長するのと同様に、人間が成長するために避けて通れない道筋でもあると私は思う。

さて、これから日本の公園はどうなっていくのだろうか。
これから箱ブランコが復活するとは思えない。
ブランコも危険、トイレは不衛生、芝生も除草剤があるからだめ、その内、転んだら危ないからと地面まで撤去するのではないだろうか。

札幌自由が丘学園では生徒たちは昼休みに自分たちでヤカンでお湯を沸かしてカップラーメンを作っていたりする。
管理教育が徹底している公教育から転勤してきた私にとっては驚異的なことだったが、この学園ではガスレンジを生徒たちが日常的に自由に使って良いのである。
本当の教育というのは最新式のプログラムの中にあるのではなく、人間としてごくごく当たり前のことを当たり前に行える中に、賢い者にとっては非常にわかりにくく隠されている気がする。
だから、この「小さな学園」の「大きな自由の風」を社会に発信していくことの意義は、今日もとてつもなく大きいと感じているのである。