2009 年 11 月 27 日

幼いころの思い出

                                                                                              亀貝一義

(何日か前の田房さんのエッセイに続けたつもり?)

昭和18年の3月、私は前年の10月に父親が戦争で死んだので、新潟から和寒にある母の実家に「疎開」した。じいちゃんが馬そりで駅まで迎えに来てくれた。小学校に入る一年前のことだった。当時は、今よりもしばれがひどかったのか、ものすごい寒さだった。薪(まき)を外からウチの中に運ぶこと、電気がなくてランプのホヤ(あかりの火をかこむガラスのツボ?)をみがくこと、鶏にエサをやること、馬糞を出して馬の寝床をきれいにすること、その他いろいろなしごとがだんだんエスカレートしてきた。

ばあちゃんやじいちゃんにきびしく「勉強は学校でするもんだ。ウチでは手伝いをしろ」と迫られた。当時の子どもたちはみんながそういう扱いを受けていたので、自分だけではない。だから、学校に行くことは非常にいいことだった。しかしそのころ小学校(私が入学した小学校は「和寒村三和国民学校」という名前だった)に「農繁休暇」という変な休みがあって、夏休みや冬休み以外に春と秋の農作業の忙しいときには1週間ほどウチの仕事をしろ、ということだった。仕事というのはもちろん農作業や家畜の世話である。

小学校の2年生の夏休みに戦争が終わった。その後何年間か、戦争で死んだはずだった父や兄が「実は死んでいなかったよ」といううれしい便りがあったというニュースもあって「わが父親も生きて帰るかも知れない」と期待していたが今だに帰ってこない。

母の実家で大学を卒えるまで過ごした。私の故郷は和寒である。生まれた所(新潟)の記憶は今はまったくない。幼いとき使っていたという新潟弁はきれいに忘れ今はしょっちゅうドサンコ言葉が口をついて出る。しかし西田さんが「北海道弁を再確認してみてはいかがだろうか」と言っているが、堂々と話すにはどうも「北海道弁」はアズマシクないんでないかい。