2017 年 8 月 のアーカイブ

2017 年 8 月 23 日

終戦(敗戦)から72年。私の「あの8月」の思い出

三和高校長 亀貝一義

今年の「8月15日」が終わった。いうまでもなく、この日は「ポツダム宣言の無条件受諾」という終戦(敗戦)を確定した日である。

私は72年前のこの日は和寒村の三和国民小学校2年だった。ただ8月15日は夏休み中だったので学校でのことは何もなかったのではないか。

この時、年配の女の先生が担任だったが、その時、戦争について何を語ってくれたか、その記憶は全くない。「皇軍(日本の軍隊)は無敵」「百戦百勝」というような話を聞いていたのではないか、と想像するが。

かすかに記憶にあるのは、1945(昭和20)年の2月か3月ころ、「戦地に行っている兵隊さんは大層苦労しています。甘い物を口にすることもないと思います。皆さん、この命をかけて苦労している兵隊さんのために何かしてあげられることはないか、考えましょう」というようなことを言って、みんなで決めたことは、春の木は甘い汁(樹液・メープルシロップ)を出す。これをためて兵隊さんに送ることだった。
一升瓶をもって私たちは硬雪(かたゆき)を歩き、手頃な木(イタヤカエデ)を見つけ、これに小さい穴を開けて樹液を溜める努力をした。翌朝ほぼ一升瓶にいっぱいになって、この瓶を学校に持っていった。先生はこれを「戦地の兵隊さん」に送ってくれたはずだが...。

そんな昭和20年の春が過ぎて夏になり、そして8月15日。電気もなくもちろんラジオもない田舎だった。この日の午後、町の方面に行った叔父が帰ってきて「戦争は終わったらしい」というようなことを伝えたように記憶している。多くの人が天皇の「玉音放送」を聞いて知った終戦(敗戦)を私たち電気のない地域の人たちは他人からの伝言で知った。

いずれにしても2学期が始まるとともに、「占領軍」がやってくるゾ、という噂が流れ、こんないなかにも来るに違いない。占領軍が来たらオレたち子どもはどう対処するか、というようなことを議論したように思う。「アメリカ兵がやってきてみんなに何かをくれることがあるかも知れない。はじめは遠慮して『要らないヨ』と言っても、何度かすすめられたら『サンキュー』と言ってもらいなさい」などと先生は言っていた。しかしアメリカ兵は、和寒などに来ることはなかった。

また教科書にあった「兵隊」とか「日本軍」とか、あるいはこれに関連するすべての単語にスミを塗って「軍国主義」を隠した。昭和21年の書きぞめはどの子どもも「平和日本」「新生日本」と、スミ黒々と書いた。「戦争は終わった」「平和が一番」を実感した。

そして軍隊に行っていた多くの子どもの父や伯父・叔父たちが帰ってきた。大きなリックに軍隊を離れたことを示すオミヤゲをいっぱい入れていた。

私の父はもう何年も前に「戦死」していたが、(時どき「戦死していた者が実は生きていた」というニュースがあったので)もしかしたら帰ってくるかも、と淡い期待をしたがそういうことはなかった。

そういう、私の8月関係の思い出である。

2017 年 8 月 14 日

「せめて」の呪い

高村さとみ

せめて学校に週に一日でも登校してくれたら
せめて家では勉強をしてほしい
せめて生活リズムはちゃんとしてほしい
せめてフリースクールに行ってくれたら

 これまで親御さんや学校の先生からたくさんの「せめて」の言葉を聞いてきました。この「せめて」の言葉はなかなかに厄介です。例えば子どもが週に一日学校に行き始めると、次には「せめて週に二日」がやってきます。「せめてフリースクールに」が、いざ子どもがフリースクールに通い始めると「せめてフリースクールには休まず通ってほしい」となります。「せめて」には限りがないのです。また、「せめて」は話者の主観でしか語られません。話者の中に「これぐらいはクリアしてほしい」という基準があって、しかもそれが一般常識であるように語られます。しかし、どの世界のどんな常識を取り上げるかを選択している時点で話者の主観が入っています。不登校の子どもは全国に12万人もいるのですから「不登校は常識」と言ったって過言ではないと思うのですがどうでしょうか。

 親御さんが子どもを思う気持ちも、先生が将来を心配する気持ちもわかっているつもりです。私も子どもがいれば同じように「せめて」を望んでしまうかもしれません。それでも私は言います。「せめて」で子どもを追いつめてはいませんか。

 もうすぐ9月1日がやってきます。毎年子どもの自殺が最多となる日です。北海道は来週から新学期が始まります。フリースクールの問い合わせも長期休み明けが一番多くなります。子ども自身の気持ちを拾えていますか。言葉では何も言っていなくても、表情はどうですか。いつもとちがうところはありませんか。「せめて」の言葉は話者に対しては子どもの気持ちを見えなくし、子どもに対しては圧力と罪悪感を植えつけます。「せめて」の呪いにかかっては(かけては)いませんか。

 昨年、フリースクールの子どもたちとつくったメッセージです。呪い解除のきっかけになりますように。

フリースクールからのメッセージ.pdf

2017 年 8 月 10 日

お休みの過ごし方。

三和高校 桑名八重

1・3年生の夏スクーリングの後に代休があります(土日もスクーリングなので)。
その時、引率したスタッフもお休みになります。

7月のスクーリングの後、久々の平日のお休み、何しようかな~と浮かれた私は観光列車に乗ってきました。・・・結構私は"鉄っちゃん"扱いされますが、違います。ただ単に乗り物移動が好きなのです。
車でも船でも列車でも飛行機でも。何でもいいのです。

さて、今回行って来たのは「富良野・美瑛ノロッコ号」。富良野から美瑛までは普通列車、復路の美瑛からをノロッコ号に乗車です。
富良野~美瑛間は普通列車で40分ほど。このノロッコ号は景観の良いところをゆっくり走るので50分くらいかかります。
以前も乗りましたが、今回の旅のお伴は2歳のちびすけ。
ちょっと時間に余裕を・・・と思って出ましたが、往路の電車が遅れ、予定のノロッコ号に乗れず・・・。

暑いカンカン照りの美瑛を自転車で観光することに。途中、美瑛町の施設(丘のまち交流館 bi.yell)の遊具にはまり、さらに数時間を過ごし、ようやく乗車。

夏休み前の平日ということもあり、すんなり希望の席に着席(もちろん自由席。乗車料金のみで乗れます)。
インバウド(訪日外国人旅行者)の皆さまが多いです!ラベンダーのシーズンだから当然ですが・・・周囲からほとんど日本語聞こえません。
いざ、出発~。

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晴れた青空、遠くに大雪山系を眺めつつ丘陵地帯を満喫しました。
子どもはと言えば、遊びすぎて列車が動き出し10分で夢のなか・・・。

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ゆっくり走るノロッコ号の揺れはすごく眠くなります。
とはいえ美瑛から富良野まで、北海道の景色の中1時間足らずではありますが、列車の旅を満喫しました。

思い返すと私は結構「普通列車の旅」をしています。
青春18切符で高校生のころからちょくちょく出てました。                         高3で女5人でキャンプに行ったり、一人旅で京都とか、九州とか。
のんびり知らない土地を普通列車で走るの楽しいです。
近頃は豪華寝台列車が次々出ていますが、私はまだ普通列車でいいかな~と思ってます。時間の関係でなかなか実行できませんが。

普段は列車を使う生活環境ではないので、ここぞという場合は子どもにも列車の体験を!と思ってます。
親の自己満足かもしれないですが、日本全国・北海道内まだまだ乗ってみたい路線があちこちにあるので、もうしばらくは付き合ってもらおうと思っています。

夏休み、日帰りで行ける近場でも、いつもと違う方法で出掛けてみると新しい発見がありますね。出掛けてみてはいかがでしょう。

2017 年 8 月 4 日

夏休み

三和高校 安齊 裕香

夏休みです。

毎年聞かれるのでお答えします。

生徒が休みだから、先生も休んでいる・・・と思っている方、違います。お盆休み以外はだいたい出勤していますよ。まぁ、普段より休みが取りやすいので、少しは休みますけどね。職員一同しっかり働いております。

小さい頃を思い出すと夏休みの思い出なんて全然覚えていないけど、唯一遠くに行ったなぁと記憶しているのが、『コム博』です。1992年に札幌であったものですが、恐竜のなにかだったような・・・。恐竜の卵の何かを買ったような記憶があります。

その時は北見に住んでいて、今みたいに高速道路もそこまでつながっていないし、下道を長い時間をかけて行ったと思います。運転大変だったんだなぁと大人になってわかりました。

いつだか家族でキャンプも行った気がします。どこに行ったかはわからないし、テントがレンガ調のおしゃれなテントだったのしか覚えていません。

あとは小学校6年生の時に学校でのキャンプ。

体育館に寝袋で寝て、夜に校内を肝試しして、朝までしゃべって、朝ごはんを食べて解散しました。

小学校の頃の夏休み、冬休みなんて、その頃水泳の選手だった私はほとんど朝練、夕練、合宿で終わっていたと思います。練習が辛かった記憶はたくさんあります。

中学校の休み期間も部活で終わったなぁと。

今の時代みたいにデジカメでもあれば、もっと思い出すのでしょうね。

今うちの子は1歳です。親になって、いろんな経験をさせたいなぁとか、いろんなところに連れて行ってあげたいなぁとか思いますが、大人になるとたいして記憶にないんですね。かなしー。