2010 年 6 月 21 日

和寒での米づくり

 亀貝 一義

今、熱帯地方から始まった米(稲)づくりの北限はどのあたりかといえば、道北の名寄近辺である。そもそも北海道は「冷帯地域だから米づくりには向かない」とアメリカから来たケプロンは進言した地域である。しかし明治の初め、中山久蔵は今の北広島の地で苦労に苦労を重ね米づくりに成功した。

和寒のような道北ではどうだったかといえば、明治の30年代から米づくりにチャレンジする人が出てきて、悪戦苦闘をくりかえし大正期(1912~1926)に本格的な米づくりができるようになったという。しかし冷害に悩まされ苦しい闘いを経て米農家が生まれていく。

私の母方の祖父が亡くなったのは昭和21年だったからかすかに記憶があるが、その父(私からいえばひいおじいさん)が和寒にやってきたのが明治36年(1903)だったというから、そのころ米のメシを食べることなども、なかなかできなかった。

よく祖母たちが言っていたことがある。「オレ(昔ばあちゃんも自分のことをオレといっていた)たちは必死になって米づくりにはげんだ。おまえたちが大きくなる頃には米のメシを腹一杯食べさせたくてな」と。
そんな苦労が実を結び、和寒のような寒い地でも米をとることができるようになった。戦後(1945年以降)メシを食うことができなかった都会の子どもたちとは違って、私たちはおかげさんでひもじさを体験したことがない。それも先人のおかげだと思っている。
だから、食べ物を粗末にする人を見たら、あのおじいさんおばあさんたちの苦労に対して、「申し訳ないことをする」人がいるという気持ちになる。

母や祖母たち(主として女の仕事だった)はランプの明かりで米俵(こめだわら。お米をいれるワラでつくった袋)を編んでいた。