2011 年 11 月 16 日

井戸を掘った人をサポートした人

                                                                                        亀貝一義

先日のSJGゼミで「札幌自由が丘学園のスタート」について触れたのだが、この補足でもある。

かつて、日中国交正常化することができた1972年、中国の要人から「水を飲むときには井戸を掘った人を忘れない」と、それまでの日中国交正常化のために努力した先人を評価しなければ、との発言があった。この言葉が時どき思い浮かぶ。

まだまだ発展途上にある札幌自由が丘学園であるが、私自身でいえば学園の土台になる部分をほぼ作り得たのか、という気持ちがある。そういうことを念頭において言えば、自分が「井戸を掘った」人であるといって言い過ぎではないと自負する。そういうことを前置きに、少々私的なことも含めて記しておきたいことがある。
1990年が明けた頃から、「口で学校づくりを言っているだけではダメだ。まず率先してこの仕事にあたる決意を示すべき」と、当時の「まわり」から言われた。私もそういう思いは言うまでもなかった。しかし、定年まで10年残っている。3人の子どもはまだ中高大に在学中。妻は当然にも、高校退職には反対。息子が「イザとなれば自分がサポートする」というようなことを言ってくれたこともあったし、学校づくりを支援してくれると言ったデベロッパーもいた(このデベロッパー氏はバブルが消えるとともに消えたのだが)こともあって、妻は反対を取り下げてくれた。

数年間の「札幌自由が丘教育センター」の運営は文字通り薄氷を踏む思い。時どき氷が割れて、水が噴き出す感じである。夜の学習塾の子どもも増えてはいたが人件費や物件費をまかなうには全く不十分だった。当時のセンターを運営していたのは私と今は亡き柴田宏樹さん。自分たちの給与を調節したりだけでは足りず、ついに退職した高校からの退職金や売り払った不動産の代金も注ぎ込んだ。
なんとかかんとか一息ついたのは学習塾とともにフリースクールの運営が軌道に乗った頃だっただろうか。そのころ、杉野さんや芳賀慈さんがはせ参じてくれた。

妻は、ほとんど大きな「小言」は言わなかったが、それでも言いたくなったことが何度もあるだろうことは想像に難くなかった。我が家の生活も、私自身のガマンはもとよりだったが、妻の無言の力によるところがどれほど大きかったか分からない。

札幌自由が丘学園で人生を賭けようという人は、大なり小なり他の職場(例えば普通の学校)と比べて問題になく不十分な条件下に置かれている。だから、そういう人たちも含めて、私は「共に井戸を掘る人たち」に思いを致す。
「井戸を掘った人」とともに、同時に井戸掘り人のサポーターが何人もいたことをあらためて思いながらのコメントである。

再来年(2013)は、フリースクール開校20周年、高校開校5周年の記念の年になる。