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救命講習の成果

三和高校  本間香菜  

 救命講習とは、応急手当の知識と技術に関する講習です。この講習では、緊急時に消防車が到着するまでの間に、私たち一般の通りすがりの人間でもできる処置の方法を学びます。私たちの学校でもこれまで、全日コースのスクーリングのプログラムや月1コースの体験実習として、和寒支署の消防士さんにお願いしてこの講習を行ってきました。私も生徒と一緒に講習を受け、実技の練習を行ったり、生徒が実習を受けている様子を見たり聞いたり、何回かの講習を経験しました。
 とはいえ、普段の生活で緊急事態に遭遇することはなく、その経験が役に立つ日がくるとは思ってもいませんでした。が、その成果が試される日は突然やってきました。

 ある夜、少し遅めの時間に札幌からJRで自宅へ向かいました。私は窓側の席に座り、音楽を聴きながら遠くを見つめていました。半分無意識だったその時、急に右斜め後ろから前方に人影が飛び込んできたのと同時に大きな物音が・・・!!
 軽快なリズムが流れているイヤホンの音を遥かに上回った「どーん」という音が車両内に響きました。あまりに突然の大きな音にびっくりした私は「わぁーあ!!」と声を発しながらその場に立ち上がってしまうほど。

 立ったままの私の隣には、たまたま居合わせた見ず知らずの乗客が席に座り、その横の通路には女性が倒れている様子。同じ車両にいた乗客達も、ただならぬ事態に動揺していました。が、通路に倒れる人影を見つけ徐々に近づいていきます。さらに恐る恐る「大丈夫ですか。」の声。しかし、その人物からはなんの返答もなく、微動だにしません。

 ここで、私の頭の中には普通救命講習での光景が駆け巡りました。最初にやることは意識の確認。肩をたたき、大きな声で「大丈夫ですか?」の声かけです。しかし、その女性の周りには数人が集まり、私の隣の席には座っている人、すぐ近くにいるのに近づけません。

周りの人の困惑する様子を見て、焦って勢いで声を出した私。

少し遠い位置から立ったまま「大丈夫ですかー?」 

声に出すと同時に、心の中では「なんかすごください...。ちょっと遠すぎる...。」
と、自分で自分につっこみをいれていました。

 その後は、ただただ周囲があたふたしている間に、女性は自分で目を覚まし、何事もなかったかのように、自力で空いていた席に座るという予想外の展開。緊迫した状況からのあっけない収束に乗り合わせた乗客もモヤモヤした雰囲気の車両内。様子を見ていると、彼女はちょっとだけ酔い過ぎてしまったようです。(お酒の力って怖いですね)

 今回私は、講習で習ったことを全力で発揮する事は出来ず、もっと自信を持って前に出て行くべきだったのかな...と後から考えました。
 日々の生活でも「こうしたら良かったな」と思うことがたくさんありますが、これも次へのSTEP。今回のこの恥ずかしい体験?も、次にこのような事態に遭遇した時には、スムーズに応急処置をするための心の準備。そう思わせてくれた珍事件体験でした。

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「どうぞ、お座りください」

札幌自由が丘学園 亀貝一義

私はこの10年間ほど、三和高校がスタートして以来、JRを利用して通勤している。はるか半世紀以上も昔のことだが、高校通学も同じだった。そのころは「JR」でなく「国鉄」だったが、言い方は「汽車通」だった(和寒-士別間)。その時はすべて蒸気機関車が列車を引っ張っていた。

今、学園都市線を利用する。この線は、よく「故障」する。ちょっと雪が降った、風が強かった、地震だ、などが理由だが。他の線はどうなのか、よく分からないが...。

それはともかくとして、私の乗降する駅は、札幌駅から2つめで、乗っている時間もたかだか10分足らずだ。だから混んでいるときはデッキで立つことが多い。「どうぞ詰めてください」という放送がよくあるので、車内に詰めて乗ることもあるが、自分ではあまり車内に入りたくない。なぜかと言えば、私のような高齢者が立っていると、しばしば「どうぞお座りください」と席を譲ってくれる人が少なくないからだ。その席を譲られることがイヤだというのは少々ヘンだと思うかも知れないが、この大いなる「善意」は、逆に「オレはそれほど年寄りに見られているのか」という気持ちになるからだ。だから旭川とか和寒にいくためにJRに乗って混んでいて立っている時などにはこの善意はありがたいと思うのだが、そういう2時間以上のJRに乗る機会はほとんどない。また乗ったとしても座席指定だ。

だから多少の高齢者がいたからといってすぐ「どうぞお座りください」と言わない方がいいのだ、と言えば、それもちょっと違う。じゃあ何を言いたいの?と聞かれると、「さあ、私は何を言いたいのだろう」と自問自答して迷う。

高齢者だけでない。障害を持っている人、妊娠中の女性、子どもをおんぶしたり抱っこしている人、その他病気かなと思われる人などで、立っている人がいると、軽く「どうぞお座りください」と一旦は言って、「有り難うございます」と座る人ならそれでいいし、「いえ、すぐ降りますから」という人であれば、「あ、そうですか」とそのままでいいのだ、と言うようなことなのかな。

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「不登校」、14年ぶり13万人超え

札幌自由が丘学園 亀貝一義

これは「不登校新聞」11月15日付けの記事の見出しである。文科省発表の速報値を報道した。

不登校の小中学生の合計数が13万人を超えた、これは2002年度以来で14年ぶり、4回目という。

134,398人だった。全生徒に占める割合は3.01%で、3パーセントを超えたのは過去最高である。

これまで不登校を文科省の把握としては「問題行動」に位置づけられていたが、昨年不登校は「問題行動」ではなく、「生徒指導上の諸問題」に位置づけられるべきという認識になった。

問題行動ではない、いろいろある生徒指導の課題の一つだ、というのだが、こういう位置づけの変更は、不登校関連のテーマを「深刻に」ではなく、例えば欠席数が異常に多くなっている子ども、と言うように理解していこう、ということなのだろうか。この理解・認識の変更は、不登校への教育行政対応でどういう変更をもたらすことになるのだろうか。

他に「いじめ」の認知件数も32万4000件近い。前年度比で約10万件増加した。過去最高だ。更に子どもの自殺も244人と、これは平成元年以降最多となった。自殺に関係して、多かった状況は、家庭不和、進路問題で、いじめ問題が10人だったという。

学校教育に関連する諸課題は実に多様で、どう私たちが対応していくのか、その具体的な方策をこれからしっかりと考えていきたい。ここ20数年間の実績と教訓に当たりものを一つ一つ再確認していけば、どこにもまして積極的で建設的な提案ができるに違いないのだ。

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晩秋につらつら思うこと

三和高校 桑名八重

あっという間に秋が終わろうとしています。
1年が早いな~という気持ちも年々、加速しているように思う今日この頃。

高校生にとっての1年はどういう感覚なのかな、とふと思う時があります。
自分が高校生の頃、
「あー、やっと1年が終わった・・・。」と本気で思っていました。

あの頃の高校生は世間の情報はテレビかラジオか雑誌か新聞かで得ていました。
今の高校生はネットをはじめ、沢山の情報源に囲まれています。
忙しなく流れていく情報を受け取って、もしかしたら私たちの高校時代よりも1年は早く感じているのかな?とも感じます。

1年を長く感じるか、短く感じるか。

どちらでも良いことかもしれませんが、長く感じるほうがなんだかゆっくりと物事に向き合って、考えることができるのではないか、と最近思います。

高校生の頃の長く感じた1年を今、体感できるなら・・・
新しいことにチャレンジしたい、
もっと沢山の本を読みたい、
ゆっくりと散歩をしたい。

いつでもで出来そうな、ささやかなことでも受け取る感覚が違って、違う見方が出来るんじゃないかと思っています。

時間の流れをどう感じるか、その人の生き方が表れているのでしょうか。
きっと、私は毎年「1年が早いな~」という生活をしているでしょう。
それが寂しいとは思いませんが、自分が納得いく一日が過ごせればいいなとは思っています。

担任するクラスの生徒たちは3月には三和高校を巣立ちます。
彼らは今、目の前のことに精一杯頑張っています。
予測の付かない新しい環境に向けて頑張っている彼らが、卒業までの一日一日を大切にしてほしいと願っています。

あと僅か。
彼らが「あっという間だった」と感じるほど、楽しく充実した日々にしたいと思う半面、正直送り出すことが寂しいと思う今日この頃です。

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「全道のつどい」の感想

高村さとみ

 9月30日(土)、10月1日(日)に「第18回不登校・登校拒否を考える全道のつどい」が開催されました。不登校の当事者、保護者、支援者が集い交流しよう・悩みを語り合おうという主旨の会です。道内各地から人が集まり、100名以上の方が参加していました。私は2年前からこのつどいの実行委員をしています。プログラムの一つに不登校を経験した若者3名に登壇してもらい、不登校時の経験を話してもらうシンポジウムがありました。そこでの話がとてもすばらしかったので、その感想を書きたいと思います。プライベートな話にはあまり触れないようにするため、少しわかりにくいかもしれません。
 3名の話を聞いて率直に感じたのは「等身大の話」であるということです。フリースクールを利用した人も主に家で過ごした人もいましたが、学校を責めることもフリースクールを賞賛することも不登校を悲観することもありませんでした。もちろん当時は辛い気持ちを持っていたと思いますが、不登校を良い意味でも悪い意味でも特別視していないのです。「風邪をひいたみたいなもの」と表現した方もいました。大勢の前で話すときなどは相手の望む話をしたい、盛り上がる話をしたいというフィルターがかかるものです。学校に行った方がいいとかフリースクールや家の方がいいとか、そういう話ではなく自分の状態として不登校だった。これを前提とした話はそうしたフィルターの薄い誠実な内容であると感じました。
 また、3人の話のバランスもとても良かったです。私から3人に依頼をしておいて何なのですが、どんな話になるのかは当日聞くまでわかりませんでした。例えばフリースクールを利用していた方がいたり、不登校中は家族に支えられ家で充実した日々を過ごしていた方がいたり、逆に罪悪感を持ちながら過ごしていた人がいたり。お父さんとの関係について、2人は主にお母さんとやりとりをしていてお父さんの考えは今もよくわからないと言っていたのに対して、一人はお父さんが「学校に行かなくても何とかなる」と言ってくれたことで気持ちが楽になったとのこと。三者三様の話でありながら「等身大の話」といというつながりがあることがまたおもしろかったです。いつか「お父さんの語る不登校」は企画してみたいですね。
 結びは「自分たちの話はあくまで自分たちのもの。子ども一人ひとりに何が合うのかはわからない。」という言葉でした。これは本当にその通りで、今回の若者たちにはこれがよかったという話でも、他の人には当てはまらないことも多いでしょう。だからこそ相手がどんな気持ちであるのか、何を望んでいるのかを理解しようとする努力を続けなくてはなりません。正解のない点は難しいところでもおもしろいところでもある、そんなことを改めて思ったつどいでした。

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登山

安齊 裕香

久々の登山。

初めての藻岩山登山でした。

藻岩山は車で遊びに行ったくらいで、登山は初めてでした。

まぁまぁですかね。久々にしてはまぁちょうどよかったなぁと思います。無理なく登れました。

正直登山はあまり好きではないです。

でも沢やアドベンチャー的な何かがあると好きになっちゃいます。

ひたすら登るだけは苦手です。

でも富士山には登ってみたいとは思っています。

以前は天塩岳や武利岳に登りましたが、すごくおもしろかったかと言われるとそうではなく、「あぁ登ったな~」と思うくらい。

小学校の頃、家族で大雪山の旭岳に登ったのはとてもいい思い出。

登頂できたら一番大きいソフトクリームを買ってくれる約束をしました。

そうなると私、強いんです。

見事にクリア。大きなソフトクリームゲットです。当時住んでいた町の中で一番大きなソフトクリーム。今はないけど、コーンが大人の顔の半分くらい大きい。そんな大きなソフトクリーム美味しかったな~と思い出せるくらいのうれしかった思い出です。

登山はたいして記憶にないけど、ソフトクリームで頑張れたのははっきり憶えています。

ご褒美って大事なんだなぁと思います。

今じゃ登ったからってご褒美なんてもらえないので、どこにモチベーションをもっていくかが問題。

今回決めたのが、終わったらラーメン食べよう。

はい、行きました、ラーメン。

チャーシューラーメン。お腹空いているのに入っていかない。

帰ると熱が・・・38.3度。

3連休でよかった~。でもラーメン美味しく食べたかった~。

次回は熱を出さずに登山の後のラーメンを楽しもう。

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南九州への研修旅行

桜島.jpg

札幌自由が丘学園三和高校校長 亀貝一義

これまで利尻方面に行ったのが最初(06年)だったが、その後知床(07年)、与論・沖縄(08年)、中国地方(09年)、知床(10年)、沖縄・与論(11年)、輪島・金澤・高山(13年)と7月から9月にかけての時期に、職員の研修旅行を行ってきた。常勤・非常勤の職員が10人前後だった。

4年ぶりでこの9月末、3泊4日で南九州に行くことにした。鹿児島県と宮崎県。
大人10人、子ども1人の11人のグループ。子どもというのは安斎さんの1歳7月の男の子。この子は人見知りなどするはずもない愛嬌あふれた可愛いしぐさとスゴイ賢さをひれきする蒼翔(あおと)ちゃんで、旅行グループみんなのアイドルになった。

鹿児島は、19世紀半ばから、江戸幕府を倒し近代日本を切り開く重要な役割を果たす人材を輩出した地域で、随所に西郷隆盛の面影を想像させる物があった(薩摩藩)。また新しい時代をつくり出そうという藩の息吹のような物(「工場」に類する「尚古集成館」?)などを見ることができた。
私たちが去ってまもなく桜島が噴火した。その桜島をいろいろと視察できたのだが、その時は「噴火する」など想像すらできなかった。

また宮崎県は、その昔日向国(ひゅうがのくに)といわれていたように、日に向かう国だった。というのは、日本をつくりだした神たちはここで活躍したという。この地から大和をめざしたことになっている。これに関連する遺跡があり(高千穂など)、伝承が多くある。だから日向国にいると、天照大神(太陽の神)と多くの神々が議論し、天地を創造したいきさつなどが「なるほど」と思いたくなるような感がする。

南九州旅行は、そういう日本の誕生から始まって、明治維新、さらに近代工業化の波がここから始まったという歴史をおさらいすることになった数日間だった。

それにしてもレンタバスを終始運転してくれたのは杉野学園長。杉野さんの「神わざ」的なドライブテクニックに感嘆したことをつけ加えておきたい。

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「終の棲家」と本の処分

亀貝 一義

私は娘たち一家と三世帯同居で暮らしている。
築30年ほど経った住宅の手直しが必要ということで業者と相談したら、「手直しのレベルでない。改築がふさわしい」という『助言』があったので、昨年暮れから、主として娘たちが検討を重ねて今年の4月から旧居からの移転、その解体、そして新築という流れを体験した。

5か月近い期間の「仮住まい」体験。
旧居から出る、新居に移る、この2回の「引っ越し」。この半年間は、学校の新学期とかさなって妙に忙しい(精神的にせわしいというか落ち着かないというか)期間だった。そして9月初めに新居に移転して、今はここでのくらし。「終の棲家」(ついのすみか)になる見通し。

古い家は建て増しとか改築とかを行っていたが、広かった。だから私は書物を初めいろいろな「財産」を増やしてきた。所帯をもって50余年、「よくこれほどの物をため込んだものだ!?」と嘆いたり感嘆したりした。

書物を納める書庫を半地下(8畳以上あったか)にとっていた。増水の時など、この影響を受けたことも今になっては懐かしいのだが、このことより書庫においた「大量の本」を処分する(1度ではない)ことになったときの「心のキズ」はもう1年以上たつが、まだ癒えない(?)。

古書専門店というのか、「ブックオ○」さんを呼び、本の処理をお願いした。「オカネを払える物はこれとあれぐらいです」と言われ千円札を4枚もらった。そして本をトラックにいっぱい積んで持って行った。

新居は旧居よりも小さいので書庫どころではなく、幅70センチの書棚を置くことがようやくというアンバイ。だから、段ボールにいれたままの書物が何個か空きスペースに重ねたまま。いつの日か陽の目を見ることができるのだろうか。

よく言われるが、最近は読書をしなくなった。PCでの調べ物や情報の仕入れなどは早いしカネもかからない。しかし私はやはり書店に行って買いたいなと思う本に会うと購入したくなるのだが、「置くスペースがない、将来これを処分しなければならない家族に負担がかかる」などという思いで買うことを躊躇し、図書館に行くことにする。市立図書館も北大の中央図書館も年配者が多い。似たような立場の人なのだろう、と納得しているが...。

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終戦(敗戦)から72年。私の「あの8月」の思い出

三和高校長 亀貝一義

今年の「8月15日」が終わった。いうまでもなく、この日は「ポツダム宣言の無条件受諾」という終戦(敗戦)を確定した日である。

私は72年前のこの日は和寒村の三和国民小学校2年だった。ただ8月15日は夏休み中だったので学校でのことは何もなかったのではないか。

この時、年配の女の先生が担任だったが、その時、戦争について何を語ってくれたか、その記憶は全くない。「皇軍(日本の軍隊)は無敵」「百戦百勝」というような話を聞いていたのではないか、と想像するが。

かすかに記憶にあるのは、1945(昭和20)年の2月か3月ころ、「戦地に行っている兵隊さんは大層苦労しています。甘い物を口にすることもないと思います。皆さん、この命をかけて苦労している兵隊さんのために何かしてあげられることはないか、考えましょう」というようなことを言って、みんなで決めたことは、春の木は甘い汁(樹液・メープルシロップ)を出す。これをためて兵隊さんに送ることだった。
一升瓶をもって私たちは硬雪(かたゆき)を歩き、手頃な木(イタヤカエデ)を見つけ、これに小さい穴を開けて樹液を溜める努力をした。翌朝ほぼ一升瓶にいっぱいになって、この瓶を学校に持っていった。先生はこれを「戦地の兵隊さん」に送ってくれたはずだが...。

そんな昭和20年の春が過ぎて夏になり、そして8月15日。電気もなくもちろんラジオもない田舎だった。この日の午後、町の方面に行った叔父が帰ってきて「戦争は終わったらしい」というようなことを伝えたように記憶している。多くの人が天皇の「玉音放送」を聞いて知った終戦(敗戦)を私たち電気のない地域の人たちは他人からの伝言で知った。

いずれにしても2学期が始まるとともに、「占領軍」がやってくるゾ、という噂が流れ、こんないなかにも来るに違いない。占領軍が来たらオレたち子どもはどう対処するか、というようなことを議論したように思う。「アメリカ兵がやってきてみんなに何かをくれることがあるかも知れない。はじめは遠慮して『要らないヨ』と言っても、何度かすすめられたら『サンキュー』と言ってもらいなさい」などと先生は言っていた。しかしアメリカ兵は、和寒などに来ることはなかった。

また教科書にあった「兵隊」とか「日本軍」とか、あるいはこれに関連するすべての単語にスミを塗って「軍国主義」を隠した。昭和21年の書きぞめはどの子どもも「平和日本」「新生日本」と、スミ黒々と書いた。「戦争は終わった」「平和が一番」を実感した。

そして軍隊に行っていた多くの子どもの父や伯父・叔父たちが帰ってきた。大きなリックに軍隊を離れたことを示すオミヤゲをいっぱい入れていた。

私の父はもう何年も前に「戦死」していたが、(時どき「戦死していた者が実は生きていた」というニュースがあったので)もしかしたら帰ってくるかも、と淡い期待をしたがそういうことはなかった。

そういう、私の8月関係の思い出である。

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「せめて」の呪い

高村さとみ

せめて学校に週に一日でも登校してくれたら
せめて家では勉強をしてほしい
せめて生活リズムはちゃんとしてほしい
せめてフリースクールに行ってくれたら

 これまで親御さんや学校の先生からたくさんの「せめて」の言葉を聞いてきました。この「せめて」の言葉はなかなかに厄介です。例えば子どもが週に一日学校に行き始めると、次には「せめて週に二日」がやってきます。「せめてフリースクールに」が、いざ子どもがフリースクールに通い始めると「せめてフリースクールには休まず通ってほしい」となります。「せめて」には限りがないのです。また、「せめて」は話者の主観でしか語られません。話者の中に「これぐらいはクリアしてほしい」という基準があって、しかもそれが一般常識であるように語られます。しかし、どの世界のどんな常識を取り上げるかを選択している時点で話者の主観が入っています。不登校の子どもは全国に12万人もいるのですから「不登校は常識」と言ったって過言ではないと思うのですがどうでしょうか。

 親御さんが子どもを思う気持ちも、先生が将来を心配する気持ちもわかっているつもりです。私も子どもがいれば同じように「せめて」を望んでしまうかもしれません。それでも私は言います。「せめて」で子どもを追いつめてはいませんか。

 もうすぐ9月1日がやってきます。毎年子どもの自殺が最多となる日です。北海道は来週から新学期が始まります。フリースクールの問い合わせも長期休み明けが一番多くなります。子ども自身の気持ちを拾えていますか。言葉では何も言っていなくても、表情はどうですか。いつもとちがうところはありませんか。「せめて」の言葉は話者に対しては子どもの気持ちを見えなくし、子どもに対しては圧力と罪悪感を植えつけます。「せめて」の呪いにかかっては(かけては)いませんか。

 昨年、フリースクールの子どもたちとつくったメッセージです。呪い解除のきっかけになりますように。

フリースクールからのメッセージ.pdf

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