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「全道のつどい」の感想

高村さとみ

 9月30日(土)、10月1日(日)に「第18回不登校・登校拒否を考える全道のつどい」が開催されました。不登校の当事者、保護者、支援者が集い交流しよう・悩みを語り合おうという主旨の会です。道内各地から人が集まり、100名以上の方が参加していました。私は2年前からこのつどいの実行委員をしています。プログラムの一つに不登校を経験した若者3名に登壇してもらい、不登校時の経験を話してもらうシンポジウムがありました。そこでの話がとてもすばらしかったので、その感想を書きたいと思います。プライベートな話にはあまり触れないようにするため、少しわかりにくいかもしれません。
 3名の話を聞いて率直に感じたのは「等身大の話」であるということです。フリースクールを利用した人も主に家で過ごした人もいましたが、学校を責めることもフリースクールを賞賛することも不登校を悲観することもありませんでした。もちろん当時は辛い気持ちを持っていたと思いますが、不登校を良い意味でも悪い意味でも特別視していないのです。「風邪をひいたみたいなもの」と表現した方もいました。大勢の前で話すときなどは相手の望む話をしたい、盛り上がる話をしたいというフィルターがかかるものです。学校に行った方がいいとかフリースクールや家の方がいいとか、そういう話ではなく自分の状態として不登校だった。これを前提とした話はそうしたフィルターの薄い誠実な内容であると感じました。
 また、3人の話のバランスもとても良かったです。私から3人に依頼をしておいて何なのですが、どんな話になるのかは当日聞くまでわかりませんでした。例えばフリースクールを利用していた方がいたり、不登校中は家族に支えられ家で充実した日々を過ごしていた方がいたり、逆に罪悪感を持ちながら過ごしていた人がいたり。お父さんとの関係について、2人は主にお母さんとやりとりをしていてお父さんの考えは今もよくわからないと言っていたのに対して、一人はお父さんが「学校に行かなくても何とかなる」と言ってくれたことで気持ちが楽になったとのこと。三者三様の話でありながら「等身大の話」といというつながりがあることがまたおもしろかったです。いつか「お父さんの語る不登校」は企画してみたいですね。
 結びは「自分たちの話はあくまで自分たちのもの。子ども一人ひとりに何が合うのかはわからない。」という言葉でした。これは本当にその通りで、今回の若者たちにはこれがよかったという話でも、他の人には当てはまらないことも多いでしょう。だからこそ相手がどんな気持ちであるのか、何を望んでいるのかを理解しようとする努力を続けなくてはなりません。正解のない点は難しいところでもおもしろいところでもある、そんなことを改めて思ったつどいでした。

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登山

安齊 裕香

久々の登山。

初めての藻岩山登山でした。

藻岩山は車で遊びに行ったくらいで、登山は初めてでした。

まぁまぁですかね。久々にしてはまぁちょうどよかったなぁと思います。無理なく登れました。

正直登山はあまり好きではないです。

でも沢やアドベンチャー的な何かがあると好きになっちゃいます。

ひたすら登るだけは苦手です。

でも富士山には登ってみたいとは思っています。

以前は天塩岳や武利岳に登りましたが、すごくおもしろかったかと言われるとそうではなく、「あぁ登ったな~」と思うくらい。

小学校の頃、家族で大雪山の旭岳に登ったのはとてもいい思い出。

登頂できたら一番大きいソフトクリームを買ってくれる約束をしました。

そうなると私、強いんです。

見事にクリア。大きなソフトクリームゲットです。当時住んでいた町の中で一番大きなソフトクリーム。今はないけど、コーンが大人の顔の半分くらい大きい。そんな大きなソフトクリーム美味しかったな~と思い出せるくらいのうれしかった思い出です。

登山はたいして記憶にないけど、ソフトクリームで頑張れたのははっきり憶えています。

ご褒美って大事なんだなぁと思います。

今じゃ登ったからってご褒美なんてもらえないので、どこにモチベーションをもっていくかが問題。

今回決めたのが、終わったらラーメン食べよう。

はい、行きました、ラーメン。

チャーシューラーメン。お腹空いているのに入っていかない。

帰ると熱が・・・38.3度。

3連休でよかった~。でもラーメン美味しく食べたかった~。

次回は熱を出さずに登山の後のラーメンを楽しもう。

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南九州への研修旅行

桜島.jpg

札幌自由が丘学園三和高校校長 亀貝一義

これまで利尻方面に行ったのが最初(06年)だったが、その後知床(07年)、与論・沖縄(08年)、中国地方(09年)、知床(10年)、沖縄・与論(11年)、輪島・金澤・高山(13年)と7月から9月にかけての時期に、職員の研修旅行を行ってきた。常勤・非常勤の職員が10人前後だった。

4年ぶりでこの9月末、3泊4日で南九州に行くことにした。鹿児島県と宮崎県。
大人10人、子ども1人の11人のグループ。子どもというのは安斎さんの1歳7月の男の子。この子は人見知りなどするはずもない愛嬌あふれた可愛いしぐさとスゴイ賢さをひれきする蒼翔(あおと)ちゃんで、旅行グループみんなのアイドルになった。

鹿児島は、19世紀半ばから、江戸幕府を倒し近代日本を切り開く重要な役割を果たす人材を輩出した地域で、随所に西郷隆盛の面影を想像させる物があった(薩摩藩)。また新しい時代をつくり出そうという藩の息吹のような物(「工場」に類する「尚古集成館」?)などを見ることができた。
私たちが去ってまもなく桜島が噴火した。その桜島をいろいろと視察できたのだが、その時は「噴火する」など想像すらできなかった。

また宮崎県は、その昔日向国(ひゅうがのくに)といわれていたように、日に向かう国だった。というのは、日本をつくりだした神たちはここで活躍したという。この地から大和をめざしたことになっている。これに関連する遺跡があり(高千穂など)、伝承が多くある。だから日向国にいると、天照大神(太陽の神)と多くの神々が議論し、天地を創造したいきさつなどが「なるほど」と思いたくなるような感がする。

南九州旅行は、そういう日本の誕生から始まって、明治維新、さらに近代工業化の波がここから始まったという歴史をおさらいすることになった数日間だった。

それにしてもレンタバスを終始運転してくれたのは杉野学園長。杉野さんの「神わざ」的なドライブテクニックに感嘆したことをつけ加えておきたい。

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「終の棲家」と本の処分

亀貝 一義

私は娘たち一家と三世帯同居で暮らしている。
築30年ほど経った住宅の手直しが必要ということで業者と相談したら、「手直しのレベルでない。改築がふさわしい」という『助言』があったので、昨年暮れから、主として娘たちが検討を重ねて今年の4月から旧居からの移転、その解体、そして新築という流れを体験した。

5か月近い期間の「仮住まい」体験。
旧居から出る、新居に移る、この2回の「引っ越し」。この半年間は、学校の新学期とかさなって妙に忙しい(精神的にせわしいというか落ち着かないというか)期間だった。そして9月初めに新居に移転して、今はここでのくらし。「終の棲家」(ついのすみか)になる見通し。

古い家は建て増しとか改築とかを行っていたが、広かった。だから私は書物を初めいろいろな「財産」を増やしてきた。所帯をもって50余年、「よくこれほどの物をため込んだものだ!?」と嘆いたり感嘆したりした。

書物を納める書庫を半地下(8畳以上あったか)にとっていた。増水の時など、この影響を受けたことも今になっては懐かしいのだが、このことより書庫においた「大量の本」を処分する(1度ではない)ことになったときの「心のキズ」はもう1年以上たつが、まだ癒えない(?)。

古書専門店というのか、「ブックオ○」さんを呼び、本の処理をお願いした。「オカネを払える物はこれとあれぐらいです」と言われ千円札を4枚もらった。そして本をトラックにいっぱい積んで持って行った。

新居は旧居よりも小さいので書庫どころではなく、幅70センチの書棚を置くことがようやくというアンバイ。だから、段ボールにいれたままの書物が何個か空きスペースに重ねたまま。いつの日か陽の目を見ることができるのだろうか。

よく言われるが、最近は読書をしなくなった。PCでの調べ物や情報の仕入れなどは早いしカネもかからない。しかし私はやはり書店に行って買いたいなと思う本に会うと購入したくなるのだが、「置くスペースがない、将来これを処分しなければならない家族に負担がかかる」などという思いで買うことを躊躇し、図書館に行くことにする。市立図書館も北大の中央図書館も年配者が多い。似たような立場の人なのだろう、と納得しているが...。

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終戦(敗戦)から72年。私の「あの8月」の思い出

三和高校長 亀貝一義

今年の「8月15日」が終わった。いうまでもなく、この日は「ポツダム宣言の無条件受諾」という終戦(敗戦)を確定した日である。

私は72年前のこの日は和寒村の三和国民小学校2年だった。ただ8月15日は夏休み中だったので学校でのことは何もなかったのではないか。

この時、年配の女の先生が担任だったが、その時、戦争について何を語ってくれたか、その記憶は全くない。「皇軍(日本の軍隊)は無敵」「百戦百勝」というような話を聞いていたのではないか、と想像するが。

かすかに記憶にあるのは、1945(昭和20)年の2月か3月ころ、「戦地に行っている兵隊さんは大層苦労しています。甘い物を口にすることもないと思います。皆さん、この命をかけて苦労している兵隊さんのために何かしてあげられることはないか、考えましょう」というようなことを言って、みんなで決めたことは、春の木は甘い汁(樹液・メープルシロップ)を出す。これをためて兵隊さんに送ることだった。
一升瓶をもって私たちは硬雪(かたゆき)を歩き、手頃な木(イタヤカエデ)を見つけ、これに小さい穴を開けて樹液を溜める努力をした。翌朝ほぼ一升瓶にいっぱいになって、この瓶を学校に持っていった。先生はこれを「戦地の兵隊さん」に送ってくれたはずだが...。

そんな昭和20年の春が過ぎて夏になり、そして8月15日。電気もなくもちろんラジオもない田舎だった。この日の午後、町の方面に行った叔父が帰ってきて「戦争は終わったらしい」というようなことを伝えたように記憶している。多くの人が天皇の「玉音放送」を聞いて知った終戦(敗戦)を私たち電気のない地域の人たちは他人からの伝言で知った。

いずれにしても2学期が始まるとともに、「占領軍」がやってくるゾ、という噂が流れ、こんないなかにも来るに違いない。占領軍が来たらオレたち子どもはどう対処するか、というようなことを議論したように思う。「アメリカ兵がやってきてみんなに何かをくれることがあるかも知れない。はじめは遠慮して『要らないヨ』と言っても、何度かすすめられたら『サンキュー』と言ってもらいなさい」などと先生は言っていた。しかしアメリカ兵は、和寒などに来ることはなかった。

また教科書にあった「兵隊」とか「日本軍」とか、あるいはこれに関連するすべての単語にスミを塗って「軍国主義」を隠した。昭和21年の書きぞめはどの子どもも「平和日本」「新生日本」と、スミ黒々と書いた。「戦争は終わった」「平和が一番」を実感した。

そして軍隊に行っていた多くの子どもの父や伯父・叔父たちが帰ってきた。大きなリックに軍隊を離れたことを示すオミヤゲをいっぱい入れていた。

私の父はもう何年も前に「戦死」していたが、(時どき「戦死していた者が実は生きていた」というニュースがあったので)もしかしたら帰ってくるかも、と淡い期待をしたがそういうことはなかった。

そういう、私の8月関係の思い出である。

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「せめて」の呪い

高村さとみ

せめて学校に週に一日でも登校してくれたら
せめて家では勉強をしてほしい
せめて生活リズムはちゃんとしてほしい
せめてフリースクールに行ってくれたら

 これまで親御さんや学校の先生からたくさんの「せめて」の言葉を聞いてきました。この「せめて」の言葉はなかなかに厄介です。例えば子どもが週に一日学校に行き始めると、次には「せめて週に二日」がやってきます。「せめてフリースクールに」が、いざ子どもがフリースクールに通い始めると「せめてフリースクールには休まず通ってほしい」となります。「せめて」には限りがないのです。また、「せめて」は話者の主観でしか語られません。話者の中に「これぐらいはクリアしてほしい」という基準があって、しかもそれが一般常識であるように語られます。しかし、どの世界のどんな常識を取り上げるかを選択している時点で話者の主観が入っています。不登校の子どもは全国に12万人もいるのですから「不登校は常識」と言ったって過言ではないと思うのですがどうでしょうか。

 親御さんが子どもを思う気持ちも、先生が将来を心配する気持ちもわかっているつもりです。私も子どもがいれば同じように「せめて」を望んでしまうかもしれません。それでも私は言います。「せめて」で子どもを追いつめてはいませんか。

 もうすぐ9月1日がやってきます。毎年子どもの自殺が最多となる日です。北海道は来週から新学期が始まります。フリースクールの問い合わせも長期休み明けが一番多くなります。子ども自身の気持ちを拾えていますか。言葉では何も言っていなくても、表情はどうですか。いつもとちがうところはありませんか。「せめて」の言葉は話者に対しては子どもの気持ちを見えなくし、子どもに対しては圧力と罪悪感を植えつけます。「せめて」の呪いにかかっては(かけては)いませんか。

 昨年、フリースクールの子どもたちとつくったメッセージです。呪い解除のきっかけになりますように。

フリースクールからのメッセージ.pdf

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お休みの過ごし方。

三和高校 桑名八重

1・3年生の夏スクーリングの後に代休があります(土日もスクーリングなので)。
その時、引率したスタッフもお休みになります。

7月のスクーリングの後、久々の平日のお休み、何しようかな~と浮かれた私は観光列車に乗ってきました。・・・結構私は"鉄っちゃん"扱いされますが、違います。ただ単に乗り物移動が好きなのです。
車でも船でも列車でも飛行機でも。何でもいいのです。

さて、今回行って来たのは「富良野・美瑛ノロッコ号」。富良野から美瑛までは普通列車、復路の美瑛からをノロッコ号に乗車です。
富良野~美瑛間は普通列車で40分ほど。このノロッコ号は景観の良いところをゆっくり走るので50分くらいかかります。
以前も乗りましたが、今回の旅のお伴は2歳のちびすけ。
ちょっと時間に余裕を・・・と思って出ましたが、往路の電車が遅れ、予定のノロッコ号に乗れず・・・。

暑いカンカン照りの美瑛を自転車で観光することに。途中、美瑛町の施設(丘のまち交流館 bi.yell)の遊具にはまり、さらに数時間を過ごし、ようやく乗車。

夏休み前の平日ということもあり、すんなり希望の席に着席(もちろん自由席。乗車料金のみで乗れます)。
インバウド(訪日外国人旅行者)の皆さまが多いです!ラベンダーのシーズンだから当然ですが・・・周囲からほとんど日本語聞こえません。
いざ、出発~。

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晴れた青空、遠くに大雪山系を眺めつつ丘陵地帯を満喫しました。
子どもはと言えば、遊びすぎて列車が動き出し10分で夢のなか・・・。

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ゆっくり走るノロッコ号の揺れはすごく眠くなります。
とはいえ美瑛から富良野まで、北海道の景色の中1時間足らずではありますが、列車の旅を満喫しました。

思い返すと私は結構「普通列車の旅」をしています。
青春18切符で高校生のころからちょくちょく出てました。                         高3で女5人でキャンプに行ったり、一人旅で京都とか、九州とか。
のんびり知らない土地を普通列車で走るの楽しいです。
近頃は豪華寝台列車が次々出ていますが、私はまだ普通列車でいいかな~と思ってます。時間の関係でなかなか実行できませんが。

普段は列車を使う生活環境ではないので、ここぞという場合は子どもにも列車の体験を!と思ってます。
親の自己満足かもしれないですが、日本全国・北海道内まだまだ乗ってみたい路線があちこちにあるので、もうしばらくは付き合ってもらおうと思っています。

夏休み、日帰りで行ける近場でも、いつもと違う方法で出掛けてみると新しい発見がありますね。出掛けてみてはいかがでしょう。

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夏休み

三和高校 安齊 裕香

夏休みです。

毎年聞かれるのでお答えします。

生徒が休みだから、先生も休んでいる・・・と思っている方、違います。お盆休み以外はだいたい出勤していますよ。まぁ、普段より休みが取りやすいので、少しは休みますけどね。職員一同しっかり働いております。

小さい頃を思い出すと夏休みの思い出なんて全然覚えていないけど、唯一遠くに行ったなぁと記憶しているのが、『コム博』です。1992年に札幌であったものですが、恐竜のなにかだったような・・・。恐竜の卵の何かを買ったような記憶があります。

その時は北見に住んでいて、今みたいに高速道路もそこまでつながっていないし、下道を長い時間をかけて行ったと思います。運転大変だったんだなぁと大人になってわかりました。

いつだか家族でキャンプも行った気がします。どこに行ったかはわからないし、テントがレンガ調のおしゃれなテントだったのしか覚えていません。

あとは小学校6年生の時に学校でのキャンプ。

体育館に寝袋で寝て、夜に校内を肝試しして、朝までしゃべって、朝ごはんを食べて解散しました。

小学校の頃の夏休み、冬休みなんて、その頃水泳の選手だった私はほとんど朝練、夕練、合宿で終わっていたと思います。練習が辛かった記憶はたくさんあります。

中学校の休み期間も部活で終わったなぁと。

今の時代みたいにデジカメでもあれば、もっと思い出すのでしょうね。

今うちの子は1歳です。親になって、いろんな経験をさせたいなぁとか、いろんなところに連れて行ってあげたいなぁとか思いますが、大人になるとたいして記憶にないんですね。かなしー。

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カレーの思い出

三和高校 本間 香菜

札幌自由が丘学園のカレー王子と言えば、フリースクールスタッフの新藤さんですが...。今回は私のカレーのお話。

三和高校は、先週末から1・3年生が夏季スクーリングにでかけています。2年生の生徒と数人のスタッフが残る札幌学習センターはとても静か。そんな中、話題にあがった「カレー」。今回のスクーリングでは、カレーコンテストが行われます。1・3年生の各グループは事前にどんなカレーにするか話し合って行き、最終日には野外での火起こしからのカレー作り。この事から、札幌学習センターでも、カレーの話に。

亀貝先生は、カレーが好きでないことがわかったり、豚肉派、牛肉派、シーフード派などの話が出たり、「私はピーマンが好きだから、ピーマン入れるんだ」「うちはレンコン入れるけど、美味しいよ!」など。様々なカレーの話に。

私の印象に残っているカレーの思い出は、カナダにいた頃の2つの思い出。2014年の春、私はカナダへ飛び立ちました。

最初に滞在したのはトロント。夏の間の3か月間、パワフルなお母さんの元で、ホームステイをして過ごしました。その滞在中に私は、ホームステイファミリーと一緒に様々な料理をつくりました。特に、金曜日はブラジル人のルームメイト'カリーナ'と私の交代でそれぞれの国の家庭料理を作っていました。その中でとても好評だったのが、カレーライスでした。日本にもカレーがあるなんて!と、びっくりしながらも、とても美味しいと喜んでもらいました。日本のカレーが温かい夕食を演出してくれた思い出の夜です。

次に私が滞在したのはバンクーバー。ここでも最初の2か月をホームステイで過ごしました。滞在したのは、インドからカナダに移住したおばあちゃんのお宅でした。ここでの食事は、毎日がカレー味の炒め物や煮物。いわゆる日本のカレーとは全く違い、いろんな野菜がカレー味になって出てくるというイメージ。大きな庭があり、毎日新鮮な野菜を収穫して調理してくれるのですが、味付けはそれぞれ少しずつ違うものの、全てカレー味。イメージしていたインドカレーとも全く違いました。「インド料理は全部カレーなのよ。」(※カレー味=カレー)と言われた日は衝撃でした。あの頃、毎日食べていた、私にとってはカレーのようでカレーでないカレー。思い出すと、また食べたくなるなんて不思議ですね。

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久しぶりの「ハゲ」という単語

亀貝 一義

頭髪が薄くなり出したのは今から40年ほど前からでした。そのころ、しばしば「ハゲてきましたね」とか、「あまりハゲないように今から毛生え薬を使った方がいいですよ」とかいうちょっとした冷やかしとか、またちょっとした忠告とか、耳にすることがありました。

その後「ハゲ」だけでなく、身体に関する昔からの気持ちを不快にさせるような語はどんどん消えていきました。聴覚、視覚などの不自由を表す語、歩く場合の障害を表す語、そして顔(容貌)関連の単語です。怪異の容貌をもつ「ノートルダムの○○○男」とか、視力はないがものすごい剣のウデをもつ座頭市など、多分これからはそのままの形では映像として流されることはないのではないでしょうか。

しかしながら(ここからが本文)つい最近、この「ハゲ」という私にとってはあまり気持ちのよくない単語がテレビから突然流れてきたことで少々驚いたり、懐かしい語として受け止めたりしました。
ご存じでしょうが、自分の年長の男性秘書を徹底的に罵倒し、あまつさえ傷まで負わせた自民党の(今は離党しているようですが)豊田真由子衆院議員のセリフでした。

週刊誌報道では豊田氏は後部座席から「このハゲーーーっ!」「ちーがーう(違う)だーろーーーっ!」などと運転中の秘書を罵倒し、頭や顔を数回殴り、ケガを負わせたとのこと。

この非常識きわまりない衆議院議員の豊田氏は、東大卒業でアメリカのハーバード大学大学院に入学してその大学の「修士」号を持っているというスゴイ学歴をもった女性議員ですが、人格はオソマツ女史というべきでしょうね。

彼女はあらためて、ハゲという懐かしい語を思い出させてくれて、同時に人はその学歴などで評価できないのだということを、身をもって教えてくれた「反面教師」議員でした。

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