2014 年 4 月 22 日

「なぜ勉強するの?」

高村さとみ

「なぜ勉強するの?」

子どもと関わる機会のある方だったら一度はこの質問を耳にしたことがあるのではないでしょうか。また、自身が子どものころはこう思っていた、という方もいるはずです。

私自身が中高生のころは、決して勉強は好きではありませんでしたが、「高校や大学へ行くためには仕方ないよね」といくらか割り切って勉強していたと記憶しています。そして大人になった今。フリースクールの子どもたちからこの質問があると「私は大人になってから勉強の楽しさがわかったけど、中学生のあなたが勉強をおもしろくないと思う気持ちもわかる。高校や専門学校、大学に進むときにある試験は、苦手なことにも一生懸命取り組む力を見ている、今はそう考えてみたらいいんじゃないかな。」と、こんなことを話していました。これまでは。

最近はこの質問について、子どもたちに何かを解答しようと思わなくていいのではないだろうか、ということを考えているので、今回はそのことについて書きたいと思います。

子どもと話しをしていると「なぜ勉強するの?」に類似した話がいくつかでてきます。

「仕事に使う勉強だけしていればいいんじゃない?」「この勉強は将来何の役に立つの?」「将来外国には行かないから英語は必要ない!」などなど。

子どもは本当に必要な勉強だけを望んでいるのでしょうか。必要な勉強とは何なのでしょうか。そもそも人は仕事をするために勉強をしているのでしょうか。

必要な勉強など誰にもわからない、必要だから勉強するのではない、というのが私の結論です。例えば誰もが日常で使う足し算・引き算。足し算・引き算は必要な勉強だ、ということに異議を唱える人はいないと思いますが、小学1年生の時点で「足し算・引き算は大人になっても必要なものだから勉強しなくちゃ」と思って勉強している人はいないでしょう。この勉強は必要だ、とは案外勉強し終わってから気づくものなのではないでしょうか。

また、「必要な勉強をすればいい」と言っている子も、好きなこと・得意なこと・興味があることは(「必要だ」という条件がなくたって)「楽しいから」という理由で勉強しています。質問をしてくる子どもだって本当に必要な勉強だけを望んでいるわけではないということです。

これらの話題のときに思い出す話があります。私が好きな漫画「高杉さん家のおべんとう」は、女の子を引き取ることになった社会学者がお弁当づくりを通してその女の子と心を通わせていく、というのが基本のストーリーなのですが、ある回にラオスへ二人で研究調査に行く話があるのです。その時ラオスの人の生活のことを「米作りが中心の村だけど、天気がヘソを曲げたらすぐに台無しになる。でもそんな時は水に浸かればそこで魚を捕る、水がなくなればそこで虫を捕る。自然の都合に合わせてできることをたくさん持っている」という言葉で表していました。また、「こういう暮らし方は大儲けはできなくても、何もなくなって破綻することはない」とも。

日本もすでに、いい高校に入ればいい大学に行ける、いい大学に入ればいい就職ができる、いい職に就けば一生安泰なんて時代ではなくなっています。だとすれば勉強は(例えば高校に行くため、のように)一つの目的に向かってするのではなく、何かがダメになったときに次の選択をするため、という幹から枝葉をたくさん伸ばしていくためのものであっていいのではないか。そんなことを考えるようになりました。

というわけで最初の話題に戻ると、「なぜ勉強するの?」に誰かが、私が、答えをだそうとなんてしてはいけません。一緒に考えるかあるいは「何でだろうねえ」とニヤニヤするのが正解です。