2010 年 9 月 7 日

「修学旅行」の思い出

                                                                               亀貝 一義
                                               
今、三和高校2年生は5泊6日の沖縄方面への修学旅行中である。数時間で沖縄の那覇に着く。その昔を思うと、まさに「今昔の感」だ。
私たちは、和寒の小学校の時(昭和24年?)海を見よう、と留萌に行った。留萌の小学校の体育館に泊まったのではないか。米持参だった。中学校のときには、温泉地である登別に行った記憶がある。この時もやはり一升の米持参だった。
私は高校時代には修学旅行には行けなかった。カネがなかったからだ。しかしそれほど悔しい思いはしなかった。「貧乏だったから仕方がない」程度にしか思わなかった。

大学時代、バイトで明け暮れしていたので旅行どころではなかった。支笏湖に「世界青年学生平和友好祭」(?)の何泊かのキャンプの思い出がある。大学時代の「旅行」だった。
女子高校の教師として勤めた翌年(1961年)三年生を担任したが、修学旅行引率の仕事。この時初めて本格的な旅行を体験した。生徒よりも自分のための修学旅行のようだった。この時の卒業生諸君も今や孫をもつ年代だ。

東京往き帰り2泊、京都3泊、往復の列車泊が2泊だった。列車泊も寝台ベッドなどではなく、座ったままでの「泊」だから、生徒たちはけっこう疲れたのではないか、と思う。新聞紙などを持ってくるように言った。少しでも身体を楽にしたいという思いから。

旅館も東京は東大近く(本郷)の学生用の旅館。夜は、枕投げという女の子らしくない遊びをしあっていたらしい。京都の夜は疲れていて、どうでもいいことでケンカをする生徒たちがいた。夜中に「帰る」といってリックを背負って騒ぐなど、先生は苦労したものである。

何度かの引率では、連絡船が、嵐に遭って揺れて、ゲーゲーと吐く生徒たちがたくさんいたこともあった。そのあと始末をしていたら、函館本線の列車に乗り遅れて函館駅で私だけ一人で夜を明かしたことがある。
あの「青函連絡船」は今はない。「津軽海峡冬景色」が懐かしい。